戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年03月09日
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カテゴリ: 城(中国)
4人目は田坂義詮(たさか・よしあき)さんです。
この方は、出家後の善慶(ぜんけい)、あるいは全慶の名で書かれることが多いです。


田坂さんちの出自については、あまりはっきりしていない。
が、小早川の庶流だとか、美濃から身を起こしたとも言われてるらしい。

で、通説。

繁平の失明とそれに続く尼子方の高山城攻撃、こうした危機的な情勢を受けて、
 沼田家では「繁平ではこの難局は乗りきれない」との風潮が沸き起こり、
 竹原家を継いで勢力を伸ばしていた隆景の実績を買って、
 沼田家に迎えようという声が上がった。
 田坂義詮を中心とする反対派は隆景により粛清され、ことごとく首をはねられた・・・



田坂氏の古い経歴はわかっていないが、
高山城から少し離れた稲村山城に居城を構えたのは応永元年(1394)といわれ、
少なくとも小早川春平(佛通寺を開いた人)の代には


以後は沼田家の執権として力をふるったとされる。
そして義詮さんは、繁平の後見人でもあったという。


田坂氏は小早川家の系図には出てこない。
もしホントに小早川の庶流だったとしても、傍流の傍流くらいのもんなんだろう。
そんな人が、当主の後見人?

もちろん、後見人は1人とは限らない。
が、後見人説が本当なら、義詮さんは結構な勢力を持った人だったと思われる。


田坂さんちが力をもった背景には、経済力があったからなんじゃないだろうか。
と地図を見ていて思った。

とゆーのも、田坂氏の居城・稲村山城のすぐ近くには
沼田市(ぬたのいち)があるからなのだ。


史料上の初見は、応長2年(1312)。

なかなか盛況を呈した市場であったらしく、「本郷町史」には
こんなことが書いてある。


 【当時沼田荘の地頭小早川氏の家臣たちは、小早川氏の居館付近に住んでいたが、
  その地を離れて沼田川下流の沼田市に居住する者が多くなり、

  商品流通にしだいにかかわるようになっていたことがうかがえる。】


家臣の引っ越しがよほど目に余るものだったのか、小早川宣平は

「ちょい!皆がそんな遠くに住んじゃったら、
とっさの時に間に合わないじゃん!
これ以上そこに住むんだったら、
もうそいつとは会ってやんないからね!

た・・・ただし、今月はもう残り少ないから、
来月からの話ね」


と3月26日付け(笑)で通達を出している。

が、その後も沼田市住まいのブームは収まらず、
禁制を出したりなんだかんだあったらしい。


沼田荘内には他にもいくつかの市があったが、例えば稲村山城近くの本市には
かつては300軒の家と1ヶ所蔵があったとある。
中世の300軒って、かなりのものだと思うけどね。

そして、別の市には代官を管理にあたらせていたという記録が残っていることから、
本市も同じように代官の管理下にあったものと推測される。


古い時代の文書には、たびたび田坂氏が顔を出すので、
沼田家中でも重きをなしていた様子がうかがえる。
であれば、すぐ近くに居城もある訳だし、小早川家直属の被官であった田坂氏が
本市の代官を務めても不思議はないんじゃ・・・

まあ、市場の代官職にあったからって、悪いお代官様でない限り、
自分ちの経済力につながるもんでもないかもしれないけどね。




さて、天文8年に沼田家が尼子方に陣替えした際、
高山在城奉行は田坂四郎右衛門尉という人だったという。
この時はすぐに大内氏によるお仕置きが入り、
大内氏の監視下に置かれる羽目になった。

田坂四郎さんの個人の特定がちょっとできないんだけど、
まあ名前からして義詮さんの一族なんだと思われる。

沼田家が尼子寄りだったというよりは、
反大内派が家中にいたというべきって気がするな。
もちろん、親大内派も家中におり、ために天文8年の時は大内さんちに通報されて、
尼子派の反抗は終わった。

ただ、陣替えの際に田坂氏の一族が在城奉行であったことから、
田坂氏が尼子寄りだった可能性も考えられるし、
実際にはそうではなかったとしても、繁平拘束の際には
そのあたりをうまく利用されたのかもしれない。



とりあえず、一万歩譲って繁平が病弱で盲目、
さらに取り巻きが尼子派という理由により、しっかり家中を取り仕切れる当主を
新たに立てようというのはまだいい。

ああ、今さらですが、私は繁平の盲目説は信じてないんですよ。
だって、怪しすぎるんだもの。

で、誰を立てるかって話だけど、直系で跡を引き継げる男子はいないから、
そしたら一族の中からフリーな男子を選ぶべきなんだよね。
そのための庶家でもある訳だし。

しかし、竹原家当主の隆景に白羽の矢が立った。
これはやっぱりおかしいだろ!

もし庶家の当主を沼田家の当主にするんだったら、
その庶家には後釜を立てるのがフツーじゃないのか?
だけど、隆景は竹原家当主のまま沼田家の家督を引き継ぎ、
竹原家と沼田家をひとつにした。

だから、隆景擁立のウラにはやはり大内氏や元就の暗躍があっただろうと私は考える。



隆景の沼田家相続を義隆の小早川つぶしだと見る人もいる。
地理的にも戦力的にも重要な小早川家・・・
義隆からすれば、大内家の直轄にできればベストだったかもしれないけど、
そうするには小早川一族はちょいとデカすぎる。

でも、安芸の国人衆のリーダー格であり、
安芸での作戦には東西条代官と並んで事にあたらせるほどの毛利家を使えば・・・。

しかも、元就の三男・隆景はすでに竹原家に入り込んで実績を挙げている。
駒として、これほど理想的な人材もないだろう。


通説以外での隆景の惣領家相続に関する説明ってのは、元就の策謀、
あるいは義隆の意向のどちらか一方に限定されたものが多いように思う。

だけど、すでに国人衆トップの位置にある毛利家が
実質的に小早川すべてを吸収するとなれば、その勢力は飛躍的に拡大する。

しかも、 「新高山城(2)」 の年表にさらっと載せたように、
天文15年からは元春の養子縁組の話も同時進行していた。

こうなると、もはや元就の野望だけでどうなるってレベルじゃない。
ただでさえ、他家との養子縁組なんて話は主家の承認がいるものなんだし。


特に、小早川イベントの方は諸々の背景やその後の経過を見るに
沼田家の隆景擁立派は義隆や元就の意向を受け入れつつも、
相当の念押しをした上で最終的に話をまとめたと思うんだよね。

さらに、小早川家には庶家が多いので、
多くの庶家の抱き込みや根回しにも時間がかかったと思うし、
またどんなに時間がかかっても、そこはきっちり話を煮詰めて
お互いに様々な確約を取り付けたと思われる。


小早川サイドからの条件は後述するとして、毛利家が取り付けた確約とは何か?


もう一度、「新高山城(2)」の年表を見てください。

竹原家と隆景の縁組、吉川家と元春の縁組から元春の入城まで、
どちらも元就は3年の準備期間を置いている。

竹原家の時は尼子との戦いだの何だので忙しかったし、
可愛い末っ子を出すのがためらわれたか?みたいな感じで、
そんなに緊迫した両家の交渉はなかったかもしれないけど、
元春の養子縁組は明らかに違う。

交渉開始の翌年には縁組が成立しているのに、そこから元春が
吉川家の本城に入るまで3年。
そんなに長い間、元就は一体何をやってたんだ?


元春ちゃんの吉川家相続についてはここでは詳細は省きますが、
一言で言うと元春のためにじ~っくりと万全の態勢を敷いてやっていたのだ。

そんな慎重な元就が、内情が不安定な沼田家に、なんの準備もなく
隆景を送りこむワケがない。

だから、恐らく元就は隆景の身の安全を最優先に考えただろうと思うんだよね。

ちなみに、両家の確約なんて書いてはいますが、
そんなものどの史料にも載ってないですよ。
あくまで個人的な推測です。



で、田坂義詮。

通説をぼんやり読んでると、天文19年(1550)に隆景が本家を継いでから
隆景によって反対派が粛清されたような印象を受ける。
はっきりそう書いてる人もいるし、義詮さんは高山城で暗殺されたともある。

が、田坂氏の稲村山城が隆景派に攻められて落城したのは、
天文16年(1547)。

居城が落城した3年後にその当主が殺されるって、おかしいだろ!!

だから、義詮さんは稲村山城の落城とともに討死したか、
あるいは居城が攻撃される直前に高山城で殺されたか、
どちらにしても天文16年が没年なんだと思う。

と、いうことはですよ・・・
隆景の沼田家相続の話がいつからスタートしたのは判然としないものの、
少なくとも天文16年にはかなり煮詰まった段階まで来ていたと見ていいだろう。


義詮さんの殺害には乃美宗勝が関わっていたらしく、
感状が出されている。
が、手持ちの資料では感状の内容までは確認できないので、
誰が、いつ出したものなのかはわからない。ちぇっ。

稲村山城を攻めたのは、あくまで小早川勢。
だけど、その裏には隆景を守ろうという元就の強力な意思が働いていたと思うし、
隆景が沼田家に入る前にすべてをクリアにしようとしたはずだと思う。
ゆえに、隆景が家督を継いだ後に隆景自身によって反対派が粛清されたという説は
私は信じていない。

ちなみに、田坂氏は全滅した訳じゃない。
三原の 順勝寺 は義詮さんの弟が入った寺だし、
同じく出家して粛清を免れた子は現在の府中市に寺を開いた。



長い歴史の中での沼田家の危機の際には、いつも竹原家が助け舟を出していた。
しかし、この時の竹原家当主は隆景。
あくまで小早川一族から惣領家の当主を立てようという隆景反対派がいなくなれば、
もう沼田家を守る勢力はいない。


小早川の血を守ろうと頑張った義詮さんに合掌。

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最終更新日  2013年03月09日 16時55分19秒


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