戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年03月17日
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カテゴリ: 城(中国)
さて、今回からしばらくこの城で実際にあったイベントをご紹介します。
遺構だけを知りたい方は、1週間くらいしてからまた遊びに来てくださいね(笑)。


永禄4年(1561)、毛利元就と隆元が家臣団を引き連れて
遠足にやって来た時の記録が残っております
(毛利家文書403「毛利元就父子雄高山行向滞留日記」)。


まあこれもね~、それなりに知られてはいるかもしれないんだけど、
まともに解説してる人は実に少ない。

前回掲載した歌碑があるので、新高山城を訪れた人の一部は
「元就が来た」とは触れているものの、全体を通して紹介してるのは、




1つは西ヶ谷恭弘先生の書いたもので、「小早川隆景のすべて」に収録されてる。

西ヶ谷先生の名をご存知の方も多いでしょうが、
主に新高山城の構成についてこの「日記」を見ておられて、
ついでに宴の進行についても触れられている。

・・・が、私がいうのも何だけど、
誰が見てもわかる初歩的なミスもあったりして、なんとも・・・
やっぱり、宴となると城郭研究とは全く違う専門分野に入るんだな~と
あらためて思ったりして・・・



今ひとつが、私の尊敬するトロロヅキさんが書かれたもの。

トロロヅキさんは本能丸出しの私と違って、とても論理的な方なので、
全体をわかりやすく、かつ簡潔にまとめておられる。

『毛利元就父子雄高山向滞留日記~日本初?慰安旅行~』
『雄高山滞在日記~滝と大河と兄弟関係~ 』)

まあ、その・・・
私とトロロヅキさんとでは、知識量も考察力も全然レベルが違うので、
あんまり比べないでね(笑)。

ちゃっちゃと全体を知りたい方は、トロロヅキさんの記事だけを読んで

とにかく私は、このイベントを色んな人に知って欲しいだけなのだ。


あともうひとつは、ネットで公開されてる歴史ファンの書いた記事で、
「こんなん読みましたけど~」って感じでライトに紹介をしてるもの。


郷土史家の方なんかは、あるいはこれについて詳しく書いてる方も
いるのかもしれないけど、何しろ広島~千葉の遠距離片思いロード驀進中という
地理的制約があるので、私が入手できる資料はおのずと限られる。



我ながら長い前置きだとは思いますが、つまりは私は
元就・隆元の滞在中に催された宴そのものについての解説は
ほとんど読んでいない訳さ。

でも、私が知りたいのは料理の中身と、隆景がどんなもてなしを
したのかということ。


料理への興味を与えてくれたのは、大内義興さん
義興さんが足利義尹のために開いた御饗応について読み、
そして再現された饗応の料理を山口の菜香亭で目にしたのが直接のきっかけだった。

まあ、山口へ行く少し前に料理関係の本をたまたま読んで
面白いな~とは思ってはいたんだけど、
やはり視覚に訴えるインパクトというのは大きかった。

そういうわたくしですので、宴会の進行を中心にこの滞在日記を紹介しようと思います。



ただ、紹介を始める前にお断りしておくことがあります。

まず、「毛利家文書」に掲載されているこの日記には
(私には)致命的な欠陥がある。

滞在期間中に色々なおもてなしがある訳ですが、
メインはやはり宴会。
宴会には次々と料理が出てくる。
そしてそのメニューは別紙に書かれている、とある。

が~あ、その別紙分が「毛利家文書」には掲載されてない。

なんでやねん!!


この日記の写しは「小早川家文書」にも収録されていて、
わずかに毛利家文書のと記述が違っている箇所があるんだけど、
やはりこちらもメニューは載っていない。

なんでやねん!!!


そういうことですので、メニューがわからない以上、
どんなに頑張っても限度があります。
メニューがわかれば、隆景がどんだけ気張ってもてなしたのか
ある程度はわかるかもしれないのに・・・


それから、宴会の中身となると、これは料理研究家とか
有職故実の知識を持っている方でないと正確で細かい解説は難しいと思う。
料理研究家ったって、イマドキのじゃなく、歴史面から
考察できる人でないとダメだけどね。
料理史って言った方がいいのかな。


さらに、他のおうちの宴会と比較しながら考える訳なんだけど、
私が持っているのは義興さん主催の御饗応を中心とした、
御成(おなり)の記録。

隆景ちゃんには悪いけど、家臣が主人をもてなすのと御成とでは
レベルが全然違う。

御成以外では、信長様が家康を接待した時の資料も少しあるけど、
これも若干上から目線での饗応なので(笑)、立場が違う。


・・・とまあ、あれこれ言い訳を並べてみましたが、
あまり正確なところはお伝えできないかと思うのです(←でも書きたい)。
色々頑張ってはみたけど、結局わからないままのことも多いし。
たぶん、間違ってる箇所もあると思う。

参考にできるものがない中で、シロートが独自に内容の理解に取り組んだ結果が
以下の記事になりますので、その点は御理解ください。



では、そろそろ始めたいと思いますがその前に(まだあるのか)、
御成とか宴会の基本事項については「山口編」の (12)  と  (13)  で
簡単に書きましたので、ご面倒ですが是非こちらも押さえてください。
必要があれば、本文の中でもあらためて書くと思いますが。

話が長くてホントにごめんなさいね。
ただ、隆景ちゃんのあれこれって案外研究が進んでないんだな~
って今回あらためて思ったからさ。
じゃあ、一緒に永禄4年にジャンプしましょう

ちなみに、本文部分はいつもの通り意訳がほとんどですので、
あらかじめご了承くださいね。




≪1日目:永禄4年(1561)3月26日 ≫

吉田郡山を出発。梨子羽宣平殿が乃美まで迎えに出て、
 椋梨弘平殿がおもてなし。その夜は椋梨に泊まった。
 隆景様は接待役として渡邊出雲守を遣わした。


初日の記述はこれだけ(笑)。

地名を見ると、 「東西条バトル編(11)」 で書いた
現在の豊栄町あたりまでお迎えに出て、そのまま椋梨(むくなし)さんちまで行って
そこで泊まった、と。

その後は恐らく、現在の山陽本線に沿って北側から新高山城に向かったって
感じかな。

梨子羽(なしわ)氏の領地は新高山城の西にあって、椋梨領からは
かなり南になるから、お出迎え役としてはちょっと遠くて可哀想なんだけど、
このイベントの直前、永禄4年2月5日付の小早川家臣団の座席図では
梨子羽宣平はナンバー2になってるから、
まあ立場上仕方ないわね。

ちなみに、梨子羽宣平の上位は椋梨弘平( 盛平 の子)。
なので、家臣団のトップとナンバー2が初日に揃ってお迎えしたことになります。


そもそも今回のサブタイトル、「ご光臨」て言葉は私が考えたものじゃなく、
この日記に書いてある文言なのだ。

初日が『至雄高山被成御光儀』、
翌日が『至雄高山御光臨』。

いやいや、すごい扱いッス。
当然、お迎えする方だって気合が入ります。


あと、隆景ちゃんからお遣いに出された渡邊さん。
日記には渡邊さんは2人出てくるんだけど、
ここのはたぶん備後国人の渡邊房と思われる。

渡邊さんちはあちこちに散らばってますが、みんな一字名だから
どこにいても同じ一族の渡邊さんだってことが一目瞭然で、これは便利だよね
(関係ないか)。



本文部分については意訳だけど、各人の呼称については
基本的に日記のままで書いてます。

この日記を誰が書いたのか知らないけど、
まあ毛利家家臣でしょう。

元就・隆元は当然のことながら、他家に養子に行って
今は家臣の立場にある隆景ちゃんまで「様」付けだから。
それに、古文の表記方法で敬意を表すものがこの3人には随所に付けられているので、
「元就様親子」に対しては特別な敬意が払われているのがわかる。

椋梨・梨子羽の両者は元就・隆元からすれば陪臣にあたるけど、
この2人は小早川一族の出身。
だから「殿」が付く。

対して、備後国人の渡邊君は呼び捨て・・・

ああ、身分社会だなあ~ってカンジ。


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最終更新日  2013年06月06日 20時39分14秒


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