戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年03月21日
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カテゴリ: 城(中国)
≪4日目:3月29日 

御裏御座敷(20)

竹原にし殿様(21) 平賀(廣相)殿(24)
御新造様(22) 蓮華寺(25)  御相伴
東殿様(23)


 元就様より御女中様へ
薄板(26)  四おもて     千疋(30)
厚板(27)  一おもて     御樽十荷折三合(31)

同じくひがし殿様へ(28)
  薄板 二おもて        千疋

 隆元様より御女中様へ
  厚板 二おもて        樽十荷折五合

 同じくひがし殿様へ
薄板(29)  二おもて    千疋 



いやいや・・・ここも難解だった~(笑)。
ギリギリになって、どうにかあらかた分かったけど。
又四郎大明神様、ありがとう


まず(20)、「御裏御座敷」。
この日の記述は「毛利家文書」と「小早川家文書」では
結構違ってる箇所があって、上の文章は「毛利家文書」からのもの。
ここは「小早川家文書」では「御裡座敷」となっている。

たぶん、会所とは別の建物じゃないかと思うけど、



で、(21)~(25)がこの時の出席者なんだけど・・・
前回までお迎えの饗応について書いたけど、この後も饗応は開かれる。
その際の座席表も載ってるものの、名前の向きで誰がどのように座ったかってのが
わかるようになっている。

が、この時のだけは上のように普通に名前が書かれているだけで、
座席の並びだけはわかるものの、向きがわからない。

さらに、元就・隆元から局衆へのお礼の場だというのに、
元就・隆元の名前は書かれていない。

う~ん・・・


考えられるのは、江戸時代ほど表向・奥向の区別は厳密ではなかったと思われるものの、
アバウトにでも区別はあったはず。

変わりはないだろうから、日記の記録者はこの対面の場を見てないんじゃないだろうか。

だから、ぼんやりとしか書けなかったかな~って思った。


んじゃ、どなたが出席されたのか?

まず(21)、「竹原にし殿」。
わざわざ「竹原」とあるから、竹原家の人だよな。


手島屋敷は竹原家の居館跡と推定されている遺構で、
かつては「西殿屋敷」「西の殿屋敷」と呼ばれていたんだそうな。

なら、竹原家と沼田家がひとつになった後、
居館の主人クラスの人を「西殿様」と呼ぶのもアリなんじゃ・・・

主人クラスならまず当主を思い浮かべるけど、竹原隆景の先代・興景は
とっくに亡くなってる。
興景の父でかなり勢力をふるった弘平も、とうにいない。

そしてこれは局衆へのお礼の場なので、ここはやはり元就の姪にあたる
興景の妻と見るのが妥当かな。


ただ、少々腑に落ちない点がある。
別のシリーズで簡単に触れるつもりだけど、この方はなかなか波乱の人生で、
永禄4年の時点では新高山城からは結構離れた場所に住んでいたと思われるのだ。

(23)に「東殿様」がいるから、それぞれ西と東に住んでた人かなって
可能性もあるけど、たぶん「竹原にし殿様」は新高山城には住まなかった。
住んだことがあったとしても、一時的なもの。

少なくともこの時点では、別の国人に再嫁していたと思われる。
だから、新しいダンナと一緒にこのイベントに参加するならまだわかるんだけど、
ダンナの名前はこの日記には出てこない。

う~ん・・・1人で来たのか?わざわざ?
それか、一時的に吉田にいて、元就御一行様と一緒に来たか。


「竹原にし殿様」は一旦置いといて、(22)の「御新造様」は
沼田の姫・・・のちの問田大方で問題ないよな。

その隣の(23)、「東殿様」はまあ「様」が付いてるから高貴な方だし、
「築城の理由」 で人質説が出たように、結婚当初から姑が同居していた。
ので、これは沼田の姫の生母と思われる。



先に(25)、「蓮華寺」。
ここはちょっと自信ないけど、永福寺(蓮華山永福寺)のことを指すんだと思う。

永福寺は小早川茂平が建立した寺で、古くは京都東福寺の末寺であったという。
東福寺派の重要な寺院としての位置付けにあり、永福寺の住持が
東福寺の住職となった例も多いとのことで、格の高い寺院だったらしい。

「本郷町史」によると、

 【寺には、1561年(永禄4)に毛利元就が小早川隆景を新高山城に訪問したとき、
  その宴に列席した蓮華尼に与えたという「絹本著色釈迦涅槃図」(県重要文化財)が
  架蔵されている。】

とある。

日記の中で蓮華寺が出てくるのはここしかないから、
この時に元就に絵をもらったという寺伝になってるようなんだけど、
ちょっと「?」な部分がある。

「小早川家文書」にある系図には、一族の中から蓮華寺に入った人も
数人書かれてはいるんだけど、みんな女性なんだよね・・・
だから、系図だけを見てると蓮華寺は尼寺なのかと思うんだけど、
尼様が東福寺の住職になれるハズもなく・・・

まあしかし、本郷町史の方も「蓮華尼」となっているから、
何にしてもこの日に参加したのは尼さんだった訳だよな。


ちなみに、蓮華寺のあとに書かれている「御相伴」。
「デジタル大辞泉」によると次のような意味があるんだそうな。

 【1、連れ立って行くこと。また、その連れの人。
  2、饗応の座に正客の連れとして同席し、もてなしを受けること。
    または、人の相手をつとめて一緒に飲み食いをすること。また、その人。
  3、他とのつり合いや行きがかりで利益を受けること。
    また、他の人の行動に付き合うこと】


単に、飲み食いのおこぼれにあずかるだけの意味じゃないんだね(笑)。
もちろん、ここでは2にあたります。


さて、ここまでの出席者4人が女性なのに対し、(24)の平賀殿。
名前を見てもわかるように、この方は男性です。
黒一点だな

平賀さんちについては別のところで書きますが、
小早川さんのお隣さんです。
お隣さんだけに、古い時代には領地のことでモメたりもあったようですが、
永禄4年の時点では隆景と盟約を交わしており、
元就親子とは固いきずなで結ばれていました。

奥向の女性陣とただ1人対面していることからも、
平賀君と毛利さんちの親密さがうかがえるように思います。

てか、もしこの場に元就と隆元がいなかったとしたら、
平賀君が両殿様の名代ってことになるのかも・・・



(26)以降は、元就・隆元からのプレゼントなんだけど・・・
ここが一番難解だった。
トロロヅキさんも悩んだようだけど、私も相当悩んだ。

薄板を4おもて・・・
「おもて」なら確かに板っぽいしな。
しかし、何で厚いのと薄いのがあるんだろう。

この日記の解読にあたっては、ご飯を食べながら毎日料理書を読んでたので、
ただの板ってのも何だし、もしかしてまな板かも・・・って思った。

どうも庖丁式を行う時は、庖丁師はまな板持参で
イベント会場へ行ってたみたいなんだよね。
上流社会に限られてたのかもしれないけど、
当時のまな板は今と違って足がついてたし。

それに、まな板の四隅と中央の各部分にはちゃんと呼び名があって、
かなり宗教的というか神聖な扱いだったようだから、
貴重品とまではいかないかもしれないけど、贈りものとしてアリのお品だったのかな、と。

ちなみに、 先日の手術 の際に診療台で気を紛らわすために
一生懸命考えてたのは、この「板」のことです(笑)。
それで船越先生に急に「まな板の上の時間が長くって」なんて言われたので、
吹き出しそうになったのだ。


しかし、まな板の数え方って「おもて」で正しいのか?と思って調べたら、
「一枚、一挺、一丁」と数えるらしい。

じゃ、じゃあ板の数え方は?
「一枚、一面、一片」

なんか違う・・・


ネットでものの数え方を集めたサイトがあったので、
なかばヤケで「おもて」と数えるものを全部探し出してやろうかと思った。

が、数え方の総数は5000もある・・・
ゆえに、「あ行」の「あ」の項目だけで、早くも挫折した(←根性なし)。


もうこれは、わからないままで進めるしかないかな・・・
と思いつつ今回の記事を書き始めたが、やはり諦めきれずぽつぽつ調べていて、
ホントに直前になってようやく「厚板」「薄板」の記述を見つけた。


信長様の子・信忠様と武田信玄の娘・松姫の婚約が調った際、
結納品として数々の贈り物が双方で交わされたようなんだけど、
信長様から松姫への贈り物の中に「厚板・薄板・緯白・紅梅の織物百反ずつ」
があったというのだ。


織物?
なんで布のことを板と呼ぶのか・・・

この頃の中国の織物というのは、板に巻き付けて輸送されることが多かったんだと。
絹や綿でも厚地の織物は厚い板に巻き付けたので「厚板物」、
綸子などの薄手の織物は薄い板に巻いたので「薄板物」と呼ばれたという。


これだ!これだよ~!!

布は普通「反」でカウントするし、信長様からのプレゼントも「百反ずつ」と
書かれているから「一おもて」がどの程度の量なのかまではわからないけど、
女性へのプレゼントとして織物ならば納得がいく。

やったあ~、織物に決定~!!


(28)(29)は「小早川文書」で記述が違っている箇所。
(28)はそもそもなくて元就からは沼田の姫だけへのプレゼントになってるし、
(29)は薄板じゃなく厚板になってる。
まあ、これは写し間違えたかな・・・

(31)はお金。
(32)は酒とか食料品の類が贈られたんでしょう。



で、ここまでを見てわかるように、沼田の姫とその母の「ひがし殿様」には
贈り物があるのに、「竹原にし殿様」には何もない。

外部の人間だったら1人だけのけ者にするハズもなく、
ここからも「竹原にし殿様」は元就の姪で隆景の義母にあたる方かと思われる。

小早川繁平の生年が天文11年でその妹が1歳下だとするならば、
沼田の姫はこの時18歳。
それなりに家事はこなせたかもしれないけど、
義父・義兄であり主家の当主ご一行様を迎えるにはちょっと荷が重い。

もちろん、「ひがし殿様」がちゃんと仕切ったでしょうけど、
気の利いた女性の手は少しでも借りたい場面。

なので、「竹原にし殿様」は案外裏仕事のお手伝いに来たのかもな・・・
なんて思った。

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最終更新日  2013年03月23日 17時00分54秒


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