戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2013年03月24日
XML
カテゴリ: 城(中国)
≪8日目:閏3月3日 ≫

会所でのご饗応。夜に入って三組の膳と引物が出された。

 向かって左の上座から
木梨殿(42) 熊谷殿(43) 保利殿(43) 上原殿(43)
桂(44) 渡邊出雲守(45)

 向かって右の上座から
平賀殿(42)   隆元様  隆景様   宮内(43) 福原(44)
越中(45)



日記もあともうちょっとです。

この日の記述はご覧の通り相当あっさりしてて、
手抜きもいいとこです(笑)。
いい仕事してませんねえ~

会所で行われてはいるものの、饗応と呼べるほどの形式は整えていないので、
会食といった程度のものでしょう。
この席の目的がどうも今ひとつつかめないんだけど・・・。
とりあえず、内容を見てみますか。



せいぜい五三々の膳くらいでしょう。

次の「引物」はデジタル大辞泉によると、

 【ひき‐もの <引(き)物>

  1、引き出物。また特に、膳(ぜん)に添えて出す菓子・料理などの土産物。
  2、布を引いて仕切りとするもの。壁代(かべしろ)・帳(とばり)など。】

だそうで、ここでは1の手土産程度の贈り物があったってことかな。


で、出席者。
この番号の振り方はちょっと見づらいかもしれないけど、
ごめんあそばせ。

(42)の木梨殿は備後国人、平賀殿は安芸国人でいずれも隆景と
兄弟契約を結んでいます。


熊谷殿は元春の義理の父。
上原殿は 6日目の饗応 では悩みましたが、列席者の顔ぶれと
この呼称からこれは上原元祐と見ていいでしょう。
つまり、隆元・隆景の妹婿。


なんでこーゆー書き方になるのかはわかりませんが、
この人はおそらく備後の渋川義正と思われます。
渋川さんは元就の妹を娶っているので、元就の義理の弟。

もう1人この場に出そうな「宮内」もいるんだけど、
その宮内は永禄4年にはこの世の人ではないので、渋川さんでいいんだと思う。

てことで、(43)は縁戚関係になります。


(44)の「桂」。日記に出てくる桂さんは1人じゃありませんが、
ここのは毛利家重臣・桂元澄でしょう。
あと「福原」、これは毛利家の筆頭重臣の福原貞俊。


(45)の渡邊出雲守は初日にお迎えに出た人です。
次の「越中」は自信ないけど、たぶん備後国人の渡邊兼(かねる)じゃないかなあ・・・。
ただ、兼だとしたら、この時相当な年だったと思われる。

そもそも備後の渡邊さんちはあまり詳しいことはわからなくて、
兼が永禄4年の時点で生きてたかすら確認できていない(笑)。
が、渡邊さんちの中でも特に兼は毛利家と縁が深かったので、
この場に顔を出すのもアリだろうとヤマを張ってみました。


という事で、元就親子の他は準親族・親族・毛利家重臣・
毛利家と縁の深い備後国人・・・といった顔ぶれで、
内々の会合といった感じかな。

連日のんきに宴会ばっかりしてるように見えるかもしれないけど、
この翌月には 門司城の戦い が始まるし、石見の情勢も不安定な上に
足利義輝の調停なども入ったりして、周囲の状況は結構大変だった。

だから、軍議とまではいかなくても、ただの親睦会というには
ちょっと重い顔ぶれだしな~・・・って感じ。




≪9日目:閏3月4日 ぱらぱらと≫

巨真寺において隆元様が隆景様をおもてなし。
 お供の衆6名。



も~、どんどん記述に手を抜いてますね。
真面目に仕事しろっつの

11日間におよぶ日記の中で、雨はこの日だけ。
晴男は誰じゃい
元就さんは「嵐の男」だから、隆元か?


こんな短い文章じゃ解説のしようもありませんが、
お供の衆の顔ぶれを見ると小早川家の主要メンバーが揃ってるとは言い難いので、
小早川衆へのお礼の席というよりは、兄から弟へのねぎらいといった感じの
席かと思われます。
簡単な会食とか、酒を酌み交わしたとかそんな感じなんでしょう。


小早川隆景といえば、多くのエピソードから物静かで冷静沈着なダンディ・・・
みたいなイメージを持つ人が多いかもしれないけど、
けっこー性格はアク強いッス。

10歳下の弟に駄々こねられたら、私だったら有無をいわさず
張り倒してるかと思うけど、隆元は耐えた(笑)。
お互いに色々と思うところも沢山あった経緯を経て、
この時は打ち解けてゆっくりと話すことができたのだろうか。



この2年後、隆元は40歳の若さで急死する。
死因はいまだにナゾ。

あまりに急の出来事だったので、親兄弟の嘆きは深く、
さらに普段はさらけ出すことのなかった心情をつづった隆元の書状を、
隆元の死後に読んだ元就や隆景の悲痛な想いもまた涙をそそる。

隆元の死後、跡を継いだ輝元を支えようと
隆景は滅私奉公を地で行くスタイルに変わっていくんだけど、
隆元との思い出を振り返った中に、この日の兄弟水入らずの会話も
含まれてたかなあ・・・なんてちょっとしんみりしてみる。




≪10日目:閏3月5日 ≫

会所において、お別れのご饗応。50人が出席した。

 ・能初 厳島大夫 御宇衆
   脇老松  小かう(御幸) 誓願寺   ぬえ(鵺)(46)
   三輪  羽衣  西行桜  呉羽 

 ・御湯漬 五三々の膳

 ・初献 
   隆景様から両殿様へ御太刀が贈られた。

 ・二献 

 ・三献

 ・四献

 ・五献

 ・御再進  6名
  御湯    6名
初献之時出之、吉田各勤にて候(47)

 ・板 白鳥越知包刀・・・隆景様より金覆輪の太刀、折紙が贈られた。

・折 4名(48)

 ・御座敷奉行 1名
  御燭の心  3名



いよいよお別れの大宴会です。
御成ではここまで長逗留することはないけど、
近いくせにどうも日帰りでもなかったらしく、
御成でも同じようにお迎えの饗応とお別れの饗応が催されたようです。

最後は総勢50名もの出席者。
って、出席者の名前が書かれてないから何でこんなに増えたのかはわからないけど、
国衆が後からやって来たりしてるから、備後国人衆や親族衆を加えた結果
こんな大宴会になったのかもしれない。

お迎えの饗応より、御再進や御湯係の数が多いでしょう?
裏方は相当大変だったでしょうね


基本の流れについてはお迎えの饗応と同じはずなので、
いちいちここでは書きませんが、この日もやはり記述に手を抜いた感が否めない(笑)。

そもそも、式三献が書かれてないんだけど。
省略したのか?
ただ、日を追うごとに記述の具体性が低下してるから(笑)、
書くのを省略した疑惑もある。


そうは言っても、やはりここは正式な饗応の場なので、能が出たようです。
歌舞伎は昔好きだったけど、能については詳しくないので
これまでは触れてきませんでしたが、(46)は私にはスルーできない。

わかる人にはすぐわかるでしょうが、これは源頼政に関連する演目なのだ。
頼政に退治されたヌエが亡霊となって、旅の僧に物悲しい身の上を語るという
ストーリー。

ヌエ退治といえば、頼政の武名を上げたエピソードとして有名だけど、
頼政の人生は武勇伝ばっかりじゃないしなあ・・・

隆景ちゃんに逢えたら、

「あなたは頼政をどう思いますか?」

って是非とも直撃インタビューをしてみたいんだけど。
隆景なら何て言うだろう・・・
ズバッと切ってしまいそうな気もする


で(47)の意味がよくわからないんだけど、
御成だと杯をいただいてから順番に下がるみたいな手順があったようなので、
毛利本家内での格付けで酒をつぐ順番が決められたとか、そんな感じなのかなあ・・・


そしてここでも白鳥の庖丁式が行われたようですが、
まあこれまでの記述を見るに、二献あたりで出たんでしょう。

その後の(48)になると、もう折はいっしょくたに書かれてる。
ひどくない、この手抜き~!

が、これも膳が変わるたびに何度か出されたってことなんでしょう・・・


お迎えの饗応を書いた後になってちょっと思ったんだけど、
そもそも「献」ってのはひとつの膳に肴が3品載ったものを指すんだから、
やっぱり二献・三献と変わるたびに木具に載せた膳が出されて、
プラス「折」とか「食籠」が出されたって意味なのかな~って考え直した。

そう考えると、台所はもうてんやわんやの大騒ぎだったかもしれないな


にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2013年04月05日 21時21分56秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: