戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年04月01日
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カテゴリ: 城(中国)
東西条・新高山城109・匡真寺跡(西郭群)



 【西の丸・北の丸(三の丸)跡

  中の丸に続いて西方に配置された四段が西の丸で、これからさらに北西にのびる
  北の丸の五郭が連なっている。これらが三の丸の縄張りである。
  西の丸の東端の郭は石弓場と呼ばれるが、それ自体が二の丸を守る箱薬研の堀切の
  役割を果している。
  また、北の丸の中心的な郭には石積みの方形基壇が残っており、社寺に類する
  建物があったと思われる。】 


アラ?


縄張図を見てもわかるように、石弓の段から北の丸にかけては
複雑な造りになっており、実際かなり歩きにくかった。
これまでに遺構を沢山見て、沢山萌え~してきたから
さすがに疲れてたのかもしれない(笑)。


ここにも礎石らしきものがちらほら見えます↓。


東西条・新高山城278・西の丸最上段



で、ここが北の丸・・・かなあ・・・↓
かなりうつろに歩いてたんで、記憶がアヤシイ


東西条・新高山城280・西の丸最上段から



この辺の地面の状況はあまりよくなかった。


さて・・・

ネットで公開されてる訪城記ではそちらの記事は見たことがない。
ただ、あまりいい状況ではないというのはどこかで読んだことがあったし、
ひとまずここからはスムーズに行かれる道はない。

ここまででもう充分すぎるほど堪能したしな・・・


時計を見ると、14:00。


この後は近くの寺を2つ見て、山麓にあった神社に初詣が今日のノルマ。
時間が余れば西条に戻って国分寺くらい見るつもりだった。
これ以上道を探す気力もなかったし、ちょうどいい時間でもあるので
今回はこれで終わりにすることにした。

でも、南西の郭群へは2つばかり行けそうなルートを見つけたからな。
次回チャレンジしてみようっと



降りると決めたら、行動は早い。
これまでちんたら歩いてたのとは別人のようにずかずか歩きだした。

石弓の段まで戻ると、中央部中の丸の見事な高さが目に入った↓。


東西条・新高山城282・石弓の段から中の丸西郭最西部



これを人の力で切り出したんだから、すごいもんだよな~。


帰りは来た道を戻るだけなので、早かったッス。
結局、朝から山中で会ったのは詰の丸で遭遇した3人組だけ。

でも、山中にはベンチがいくつもあったから、
普段は結構人がいるんじゃないかと思う。
元日を選んでよかったなあ

ほとんど1人占め状態だったから、思う存分楽しめた。
又四郎様、ありがとう

元日からこんな素晴らしい城を見て、
今年はさいさきいいなあ~!!

・・・・アレ?
そういえば去年の元日も素晴らしい城跡へ行って、おんなじ事思ったっけ。
でも去年は・・・・・・・・・

まあいいや、考えてもしょうがない。
今日1日で今年1年の運を使い果たしただなんて、
又四郎大明神様がそんなみみっちいことするハズがない


あ。
そういえば、また ミッション 忘れてた(笑)。

も~、ホントに素直に楽しんじゃって
そこまで考える余裕なかったよ~。

まあ、まだチャンスはある。
しばし持ち越しだな・・・






え~っと、だいぶ文字数が余っちゃったので、
ここまで書けなかったことを少々。


各郭を歩きながら

「ここで蹴鞠ができるかなあ・・・」

って考えてましたが、隆景ちゃんは天正16年に「紫組冠懸」を許されてます。

戦国ファンの中では飛鳥井雅綱は結構有名じゃないかと思うけど、
雅綱の子・雅春から蹴鞠の門弟として認められたものらしい。

あんまり詳しいことはわからないんだけど、
どうも朝廷に出仕する時にかぶる冠は、通常頭に乗せるだけなのが、
蹴鞠の上達者には組紐をつけることが許されたんだそうな。
免許皆伝みたいなもんかね。

蹴鞠と組紐がどーゆー関連があるのかはわからないけど、
何かの故実があるんでしょうね。


隆景の肖像として有名な米山寺の肖像画は衣冠束帯姿だけど、
それには紐はついてない。

いちおう 法常寺 の木像の写真を確認してみたら、
ちっこい方にはついてなかったけど、大きい方の隆景ちゃんはヒモ付きだった!
・・・ただし、紫の紐じゃなかったけど。


隆景の周りの人で同じように紫組冠懸を許された人には、
毛利秀元や立花宗茂がいる。
デキる人ってのは、どこまでもマルチな活躍をするものなんだなあ・・・


しかし、天正16年といえば、御年55歳。
それまでに地道な練習とかしてたのかな~。
新高山城内で練習することなんかもあったのかな~って考えると、
ちょっとおかしい

このヒモを着けてれば、

「おっ、飛鳥井のファンタジスタ!」

って一目瞭然だもんね。
誇らしげに紫の紐を付けて闊歩することなんかもあったのかな・・・





下山してからは、ちょっと歩き回って苦労するハメになったのですが、
沼田川沿いの道をずっと北上していったら、こんな看板を見つけました。


東西条・本郷・雄高山山麓・新高山城想像図3



ありし日の、新高山城の想像図です。

 【この想像図は、一通りの整備が終わった新高山城を描いたものです。

  城は、建物を建てたり、防御の足場となったりする「~丸」と呼ばれる平坦な段と、
  それを取り囲む「切岸」と呼ばれる崖から成っています。当時は「切岸」には
  草木は無く、容易に登れないようになっていました。一方、「丸」には逆に
  木が植えられ、中が見通しにくくなっていました。

  新高山城は、標高197mの山頂を中心に全山が要塞化された大規模な城でした。
  小早川隆景は、天文21(1552)年に高山城から新高山城に移り、
  慶長元(1596)年、新高山城を廃し、三原城に隠居しましたが、翌、慶長2
  (1597)年6月、65才にして世を去ります。

  新高山城はまさに、隆景とともに興り、隆景とともに廃れた、45年間に亘る
  隆景一代の名城と言うべきでしょう。
  対岸の高山城跡、三原城跡と共に、昭和32年12月11日国指定史跡になっています。】
  (現地解説板より)



右を流れるのが沼田川。
川の下の方に、いくつか船が描かれてる。

「本郷町史」には、

 【新高山城は城の大手口が船着場に臨んでいた。本郷村の『国郡志書出帳』にも
  「村内土地古今相違様子、当村大川筋往古は入海にて、高山城跡御在城の節は、
  新高山阯に御船入と申処在て御船繋る由、古老申伝にて、今は其所畠と成りぬ」とある。】

と記載がある。

絵の船着場の両脇に建物が2つ描かれてるけど、
この後これを求めて私はえんえん山麓をさまよう訳で、
結論としてこの絵では「大手道入口」の標識のあった場所を
そのまま船着場として描いてるようです。

ちなみに、船着場の北側の川べりに赤いポッチがあるのがわかりますか?
も~、場所がわからなくて、こんな方までとぼとぼ歩いてったんだから・・・

そちらの苦労話については、この後の旅日記の方をご覧ください。

私の苦労話なんかどうでもいい?
でも、それも小早川ゆかりの場所なので、
これから新高山城に行かれる方で小早川氏に興味のある方は参考にして頂けると、
私みたいに歩き回らなくて済みますよ~(笑)。




以上で長かった新高山城シリーズも終了です。
イベントを書いてる最中はこれだけで50話くらい行くんじゃないかと思ったけど、
ひとまず終わって良かった・・・

まあ、少しでもこの城の歴史と良さが伝わればいいな~と思って書いてましたが、
写真と実物では全くと言っていいほどの違いがあります。
なので、現地にもぜひ足を運んで名将の造った名城を
お楽しみいただければ嬉しいッス。


※「東西条バトル編(13)」へ続きます。


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最終更新日  2013年05月03日 16時37分51秒


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