戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年04月07日
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カテゴリ: 城(中国)
こちらが極楽寺のお堂↓。


東西条・頭崎城21・極楽寺



東西条・頭崎城22・極楽寺



東西条・頭崎城23・極楽寺



垂木の感じだと、そんなに古そうには見えないな・・・ 
と思ったら、脇に「薬師堂 明治28年落○」と書いてあった。
明治28年落成だと思うんだけど、葉っぱに隠れて見えない(笑)。

今日は湿度もあるし、昨日よりはなんだか汗が出る。
新高山城と比高はそんなに変わらないんだけどね。



確かお堂の裏手だったと思うけど、こんなのがあった↓。


東西条・頭崎城24・極楽寺



すらっと通り過ぎようとして、脇の碑文に目が止まった。


東西条・頭崎城25・極楽寺



平賀さんの名前がいっぱいある・・・
やっぱり、平賀氏の子孫とか一族の方かな。



さて・・・ここでちょっと、平賀氏の来歴について簡単にご紹介。

小早川氏初期の系図を 「三原編(2)」 に載せてますが、
土肥實平の子・遠平が養子にもらい受けたのは、平賀義信の子。

が、この平賀義信さんは系図の通り清和源氏の流れで、

小早川の血の実質的な祖となった平賀氏と今日の主役の平賀さんとは別系統のようです。

安芸平賀氏の祖とされているのは、藤原良房の後裔・松葉資宗。

清和源氏ではないけど、こちらも源平の戦いで多くの功を挙げ、
出羽平鹿郡、安芸高屋保、上総桜尾郷、越中油田条を与えられた。
資宗の子の代くらいに出羽の平鹿郡へ移り、平鹿氏(あるいは平賀氏)を名乗ったと。


所領である安芸高屋保(現・東広島市)に御薗宇(みそのう)城を築いたのが
この地でのスタート。



気付いた方もおられるかもしれませんが、この流れは小早川氏と同じ。
実はこうした経緯を経て安芸に土着したのはこの両家だけではなく、
「安芸国人」として普通に語られる武家のほとんどが、元は東国の出身。

治承・寿永の乱、いわゆる源平の戦いの後に平家没官領
(もっかんりょう。平家滅亡後に朝廷に没収された平氏の所領)を与えられたり、
承久の乱後に院方から没収した3,000箇所もの荘園の地頭に任じられた
新補地頭が安芸国人衆の主な顔ぶれ。

それらを大ざっぱに図にすると、こんな感じになります↓。


安芸国人衆出身地


厳島神主家はちょっと後の話で、あと野間氏は尾張からの移住者なんだけど、
戦国時代において普通に「安芸国人」と言われる人たちのほとんどが、
ゲルマン民族の大移動のような関東からの下向組。
いわゆる「西遷御家人」。

備後にもこういう人が多いんだけど、
ちょっと図に収まらなかったので割愛しました(笑)。

私が遠出できなくなったら、これら国人衆の出身地を回ろうかな~と
思ってるんだけど


平賀さんのように、安芸以外にも所領を持ちながら
最終的に安芸に本拠を構えた国人は多い。

 【このような東国武士が芸備両国に本拠を移したところは、ほとんど山間部の
  谷盆地である。この地方には太田川・沼田川・芦田川・江ノ川などの河川によって
  各所に地味肥沃な谷盆地が開けており、これらは当時の農業経営には海岸部より適し、
  さらに拓殖の余地も存していた。

  同時にそこは、外敵から防衛できる要害の地で、中規模の武士団が根を下ろすのに
  適していた。(中略)山内首藤氏や吉川氏が交通至便な摂播の地をおいて
  芸備に入った理由もそこにあった。】
  (「日本城郭大系13 広島・岡山」新人物往来社より)


う~ん・・・
わざわざ山間部に入らんでも・・・とか思っちゃうんだけど、
まあ鎌倉幕府も相当血なまぐさいしね。

総合的に判断した結果、一族あげての移住を選んだ人が多かったってことなのかな。
小早川氏の場合は、あまり選択の余地はなかったけどね。



平賀さんちに話を戻しますと、安芸・高屋保に本拠を移した後は
もと住んでいた出羽の領地は次第に失われていった。

最初に築いた御薗宇城は、山城というよりは平山城に近く、
築城の時代を反映した鎌倉御家人の居館的な趣きが強い城という。
今回は時間が足りなさそうなので、行かないけど。


鏡山城シリーズで東西条(とうさいじょう)と大内氏の歴史について
かいつまんで書いたけど、東西条と領地が接する平賀氏は大内氏との縁も古く、
嘉吉2年(1442)には戸野郷にある大内氏の氏寺・興隆寺の御経料所を
預けられている。

また、当主が大内家からの偏諱を受けるなど、
長い歴史の中ではおおむね大内氏寄りだったものと思われる。


戦国時代に入り、時の当主・平賀弘保は文亀3年(1503)、
御薗宇城より南東の城山(標高314m)にあらたに白山城を築く。
比高130mの白山城は堅城というまでには至らず、近隣にも支城を築いた。


そんな弘保に転機が訪れたのは、大永3年(1523)の 鏡山城の戦い 。
鏡山城の落城を見て白山城の防備に不安を感じた弘保は、
白山城の北に位置する頭崎山にあらたな居城を築いたといわれる。

しかし、当の弘保は頭崎城には入らず、嫡男の興貞を入れた。

まあ、この名前も義興さんからの偏諱だろうと思うけどね~。
手持ちの資料にはどこにも書いてないけど、弘保の名前も政弘(義興のパパ)から
もらった可能性が高いんじゃないかと思うんだよな~。



さて、平賀氏については一旦ここで終わります。

「えっ、もう終わり!?」

って思ったアナタ・・・
ご心配なく、まだた~っぷり話はありますから
うふふふふ・・・・・



極楽寺からふたたび山道へ↓。


東西条・頭崎城27



・・・なんか、写真見るとずいぶん暗いなあ。
実際、薄暗かったけどね。
道もよくわからないし、新高山城に比べると荒れぎみだし古戦場だし・・・
気分は、


迷子の迷子の子羊があ~


・・・てカンジ。
恐がりのくせによく頑張ったなあ、ワシ(笑)。


上の写真の左に写ってる白い看板には、こう書いてあった↓。


東西条・頭崎城28



アレ?
この上にまだ奥の院があるのか・・・
で、これに従って左の道を上がったんだと思う(←もう覚えてません)。
大事なところにはこうして看板があったし、
迷うような分岐がそうあった訳でもないのでその点は良かったッス。


まだ奥の院が上にあるので、ガイドさん・・・
いえ、お地蔵様も引き続き奥の院へといざなってくださる↓。


東西条・頭崎城29



東西条・頭崎城31



慣れるとこれも逆に安心感がある
この先からは、石畳の跡とか石垣の名残らしきものがちらほらと現れて、
ちょっと楽しくなってくる。


東西条・頭崎城32


東西条・頭崎城34・極楽寺奥の院へ



東西条・頭崎城50



東西条・頭崎城52



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最終更新日  2013年04月07日 13時20分58秒


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