戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年04月13日
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カテゴリ: 城(中国)
私が支持する吉野氏の説において、たぶん長く語られてきた通説と最も異なるのが、
元就の居城・吉田郡山城での戦い。

それまでどう言われてきたのか、簡単に通説を紹介しますと、


天文8年11月、尼子詮久は尼子に背いた元就の討伐を表明した。
 まずは翌9年6月に叔父の新宮党・尼子国久を派遣。備後路から宍戸氏の城・祝屋城を
 攻めるが、宍戸勢の奮闘により敗退。
 8月に詮久みずから3万の大軍を率いて今度は石見路から安芸へと入った。

 元就は城下の者を城に入れ、男女8,000人で籠城した。うち、兵は2,400。

 大内義隆は元就の忠誠心を確かめたいと思い、すぐには援軍を送らなかった。
 が、寡兵の毛利軍が尼子の大軍を相手に奮戦して長期戦となったのを見て
 義隆も満足し、陶隆房に10,000の軍を預けて郡山城の救援に送り出し、
 12月に入ってようやく援軍が到着した。

 そして天文10年1月13日、毛利・大内の連合軍が尼子軍を退け、詮久は出雲へと
 撤退した。



「オマエは・・・また毛利かよ!!」

って怒らないでよ。
ちゃんと関係あるんだってば!

吉田郡山城の戦いを知らない方は、この流れをよく押さえておいてくださいね。



では前回の続き。
8月に入り、大内義隆は岩国手前の玖珂郡本郷まで進む。

佐東銀山城から逃走していた武田信実も、詮久とともに安芸入りしたとされる。

詮久の安芸入りに先立って尼子国久が攻めてきたという通説は、
感状がないなど確実な史料が見つからないことから、
近年では否定される傾向にあるという。


 8月7日   義隆、厳島社に剣馬を奉納。

 9月4日   詮久、吉田郡山近くの多治比に着陣。翌日から毛利との小競り合いが始まる。

 9月?    義隆、岩国横山まで進む。

 9月26日  尼子軍が毛利領の坂・豊島を襲い、大内方の杉隆宣・竹原小早川興景と交戦。
         元就も郡山城から出撃して、勝ちをおさめる。

 10月4日  陶隆房が大内家臣の杉・内藤らとともに警固船2~300で厳島へ渡る。
         隆房は太刀二振・神馬二頭を奉納し戦勝祈願。翌5日に海田へ上陸する。


         太刀一振と千疋を与える。

 10月16日 弘中正長が厳島社へ代参。大内氏の氏寺・興隆寺の真如坊が祈願のために
         厳島へ7日滞在する。

 12月3日  陶隆房、郡山城東方の山田中山へ着陣。

 12月11日 陶隆房、安芸国人・宍戸元源と元就に命じて尼子陣営の宮崎長尾を


 1月12日  厳島神主家・友田興藤が大内家へ反旗を翻し、能島の警固船を遣わして
         厳島を占領する。

 1月13日  吉田郡山にて尼子軍との決戦。夜に尼子軍が総退却を開始。

 1月30日  陶隆房が安芸国人・天野興定に佐東銀山城へ向かうよう書状を出す。


さてと、一気に郡山合戦の終結までを書き出しましたが、
これ以外にも、吉田郡山では小さな戦いがいくつもあります。
が、あくまでメインは頭崎城についての記事なので、
ここでは郡山合戦の細かい経緯までは見ていきません。


「頭崎城がメインったって、どこにも出てきてないじゃん・・・」

って思ったアナタは正しい。

確かに、表立っては出てきません。
それゆえに、これまでは頭崎城と郡山合戦が深いつながりがあることが
見過ごされてきたようなのです。
だけど、上の動きの中でもちゃんと頭崎城は見え隠れしているのだ。



最初の段階、義隆サイドではやたら厳島関連の動きが目につきます。
実際はもっと色々奉納したりとかあるんだけど。

伝統を重んじ、寺社の保護などにも積極的だった義隆だけど、
わざわざ厳島詣でに軍を率いてきた訳じゃありません。

義隆が岩国入りする以前に、すでに頭崎城の他に
安芸西部でも戦を展開していたんだから、一連の奉納やら何やらは
やはり戦勝祈願がメインでしょう。


特に私の目を引くのが、10月16日の記述。
大内氏の氏寺・興隆寺については 「山口編(21)」 以降で紹介してますが、
大内時代には大内氏が唯一にして最大の興隆寺の大檀那。
それはもう、大内氏とは深いふか~いつながりのある大寺院でした。


10月13日に義隆が謁見した厳島神職の棚守房顕、
この人が色々書き残していて、史料としての価値が高いとされている。

そのタナモリが書いた「棚守房顕覚書」には、10月16日は
『氷上ノ真如坊ハ御祈念ノタメ七日在島アリ』としか書かれてないんだけど、
私はこれを見て

「おお~!義隆、気合入ってんじゃん!!」

ってちょっと感動したね。
ま、ちょっとこの感覚は大内ファンにしかわからないかもしれませんが・・・(笑)。


「氷上」はもちろん興隆寺(氷上山興隆寺)を指す。
「真如坊」は、興隆寺の塔頭のひとつでしょう。
興隆寺は往時には堂宇は100、僧は500人もいたって規模のお寺だからね。

大内氏にとって重要な寺の僧侶が、遠征軍に混じって周防の端までやって来て、
厳島で7日おこもりをした・・・

「御屋形様!安芸へ行かれるってホントですか!?
私、いっぺん厳島へ行ってみたかったんですう~!!
一緒に行ってもいいですかあ」


・・・のハズがないでしょう。

真如坊が興隆寺の数ある塔頭の中でどの程度のポジションを占めてたのかはわからないし、
おこもりの目的もタナモリは書いてくれてない。
が、やはりこれも戦勝祈願だったと見ていいだろうと私は思う。
それもかなり本気の、ね。



ここまでは、私の推測。
が、幸いタナモリはもっとはっきり陶隆房の祈願の目的を書き残してくれている。

それが、「棚守房顕日々記」の中の『西条表へ出陣あるべく』という文言。


10月5日に海田へ上陸した隆房は、12月3日に吉田郡山に着いている。
この2ヶ月のブランクも、義隆が元就を試したという通説を生み出した
ひとつであるようだけど、試すなら隆房は参拝した後で岩国に戻ればいいじゃん?

吉田郡山までの途上で尼子方との戦を展開していたという可能性もなくはないけど、
それならそういう記述がどこかにあってもよさそうだよね。

「棚守房顕覚書」の方では、海田に上陸した後そのまま吉田へ向かっているような
記述になってるんだけど、それが正しいのだとしたら、海田から吉田までの
40km程度の道のりを、隆房は2ヶ月もかけて進んだことになってしまう。

これでは、いくら大内家大好きの私でも

「おいおい、隆房ちゃん大丈夫かあ~?
これじゃ後詰めになんないべ~!!」


って思わざるを得ない。


しかし、隆房の上陸に先立つ9月26日には、
毛利領内で杉隆宣が竹原小早川興景とともに戦っている。

前々回の記事にも書きましたが、杉隆宣は弘中隆兼に代わって
頭崎城攻めの最高責任者となった大内家臣。

なので、頭崎城を攻めていた杉隆宣の元に、尼子詮久が毛利攻めにやって来たという
連絡が入り、隆宣が急いで吉田郡山へ向かったという推測が成り立つ。

大将が頭崎城をほっぽってどうする・・・
そこで、陶隆房の「西条表へ出陣あるべく」が生きてくる。
隆房の出陣は、杉隆宣の抜けた穴を埋めるためのものだった、ということが
吉野健志氏の論文『いわゆる安芸郡山城合戦の再評価』で詳しく語られている。

これも、どうやら6月16日に頭崎城が落城したという説が強かったために、
これまでは西条表=頭崎城攻めという図式が浮かばなかったものらしい。
が、隆房の2ヶ月のブランクも、この説なら納得がいく。


 【「西条表」が何を表すのかは、一連の行動が出陣という軍事行動であることから、
  西条近辺での軍事、つまり、頭崎城の攻防戦を指すことは明らかである。
  大内義隆は、尼子氏の強力な頭崎城支援に対して、その攻略を目指して
  山口を出陣したのである。】
  (芸備地方史研究228「いわゆる安芸郡山城合戦の再評価」/吉野健志)


ここまでの流れを簡単な図にすると、こんな感じになります↓。


大内援軍推移


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最終更新日  2013年04月13日 15時48分07秒


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