戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年04月14日
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カテゴリ: 城(中国)
尼子詮久が最初から頭崎城に向かってれば、もっとこの流れはわかりやすかった。

このことも、郡山合戦と頭崎城の戦いの関連が語られなかった理由のひとつ。


それまでの通説( 前回 を参照)では、何年もかけて東をガンガン攻めてきた詮久が、

「あ。毛利を討伐しちゃおう」

てなカンジで、おもむろに安芸に舞い戻ってきたような印象を受ける。

詮久の東上作戦は、だいたいの人が上洛を目指したものだったと捉えていて、
今シリーズで何度も本文を引用させていただいている論文の著者・吉野氏も、
詮久の目的を上洛と見ている。



毛利討伐を決定したとの理由づけがされてたんだけど、

「だったら先に片づけとけよ!」

ってツッコミを入れたくなるのは私だけじゃないと思う。
これじゃ詮久が頭悪い子みたいじゃないか


詮久の安芸入りについて、吉野氏は

 【尼子氏は、頭崎城の囲みを解かせ、併せて尼子方を去った安芸の大内方諸国人を
  自陣営に引き戻すことを目的としていたのである。その背後には、戦国大名の
  存立基盤の一つである知行・所領の保障者という側面の維持がある。(中略)
  尼子氏がいざという時、あてにならないということになれば、その基盤は一挙に
  失われるのである。】
 (芸備地方史研究228「いわゆる安芸郡山城合戦の再評価」/吉野健志)

と述べておられる。



結局のところ、大国のはざまにあってその影響を受けざるを得ない国人衆にとっては、
自主独立を目指しながらも、時には大国に依拠しなければやっていけない。

自分のポリシーを貫くことは立派だし、その結果華々しく散ってしまったとしても
名は残るし、日本人は判官びいきが大好きな民族だから
のちの世でやたら称えられる場合なんかもある。


一族が族滅するかもしれないポリシーなんかは二の次。
いかにして生き残るか、生き残るためにはどこに付くか、そっちの方が大事。

だから、安芸では何度もオセロゲームが繰り返されてきた。
そこには(大体の場合)ネチネチした感情論は伴わないし、
ドライに陣替えが行われてきた。

歴史の話の中では、バックを変えることを「寝返り」とか「裏切り」っていうけど、
どうも現代の感覚だとこれらの言葉はドロっとしたイメージがあって、
ドライな生きる知恵の選択肢のひとつを表現するには適切ではないように感じる。
なので、私のブログの中ではそういう言葉はあまり使わないようにしている。


そしてここでは、「自分を守ってくれるのか」という問題は
頭崎城だけじゃない。
周囲の尼子派の国人衆も、注視しているのだ。

「ダメじゃん、尼子・・・」

となれば、すでに天文9年の前半から義隆が大規模に軍を展開している時期でもあるし、
周囲の尼子派がごっそり大内方へ陣替えしてしまうかもしれない。
安芸だけじゃなく、石見や備後にまで波及すれば『ふりだしにもどる』のコーナーに
サイコロが止まってしまう可能性だってある。


安芸における尼子派の最大勢力といえば、武田氏。
大永年間には、武田氏が支援した厳島神主家・友田興藤が大内家に
反旗を翻したことによって、 鏡山城の戦い が引き起こされた。

その武田氏でさえ、詮久が安芸入りした後の9月13日には
一部が大内方へ奔り、同族が殺されるなどの内紛が起こる有様だった。
この事件には、義隆が近くまで出陣してきた事も大きく影響している可能性がある。

実際には義隆が動いているのはもっと前の話だから、
義隆の出陣から詮久が出陣を決定するまでの間にも安芸には動揺が広がり、
安芸の全域で双方が入り乱れての状況であったことが窺われる。


これらの情勢を見て、詮久は安芸の救援に乗り出した。
乗り出さざるを得なかった、という方が近いかも。



詮久はなぜ吉田郡山を選んだのか?


 【第一に安芸国でも最有力の大内方国人毛利氏を攻めることによって
  頭崎城の包囲を解かせ、平賀氏を救出すること。
  第二に安芸国に軍事的圧力をかけることによって武田氏内部を安定させること。

  第三に尼子氏が出兵するに当たって補給がもっとも容易な尼子氏勢力圏に隣接する
  大内方の要地であったこと。
  そして第四に、離反した毛利氏を尼子方に引き戻すことである。】
  (前掲論文より)


通説では、6月に尼子国久の新宮党が備後から入って失敗したから、
今度は石見ルートを取ったと説明される。

が、敵地へ入るとなれば補給線の確保を考えるのは当然のことだし、
そもそも(郡山合戦の前哨戦としての)新宮党による祝屋城攻めは現時点で確認されていない。
だから、この説は無理がないと思う。



毛利攻めに成功していれば、詮久のこれらの狙いは吉へと変わり、
さらには安芸の風土の特殊性から勝利が勝利を呼び込み、
詮久にはウハウハの結末が待っているはずだった。

現に、第一の読みは当たった。

敵方の詮久が、毛利の本拠を攻撃すれば頭崎城を包囲している大内軍は救援に向かい
頭崎城の包囲は崩れるだろうと読んでいたことからも、
天文9年なかばまでの時点で大内氏と毛利氏の親密さは
周囲にはっきりと認識されていたことがうかがわれる。

ま、天文6年には元就は長男の隆元を山口に人質として送ってるしね。
もちろん、大内方としての立場を明らかにするために送った訳だけど、
当の隆元は山口で大切にもてなされ、優雅な人質生活を送っている。

ところが、なぜか通説では義隆が元就を試したとされている。


以前は通説ってあまり疑いもせずにいたんだけど、
最近になって自分でも色々読んだりしていると、頭崎城の件に限らず
結構通説ってのもアテにならないもんだな~と感じるようになった。

別に、頭から通説をバカにしてる訳じゃないですよ。
ただ、いくつかの誤認が重なったり、史料(特に軍記物)だけを鵜飲みにすると
まるで迷路を抜け出せなくなったように、事実と全く異なる説が
大手を振って語られることってあるんだな~ってのを、つくづく感じる。

まあ、歴史の真実なんてのは結局のところ私達にはわからないものだし、
吉野氏の説も実は違っているのかもしれない。
が、頭崎城および郡山合戦に関する一連の解説には無理がないと思うので、
今はこちらを支持している。



年が明けて天文10年(1541)、大内軍は尼子軍との決戦に臨んだ。
ここでは、尼子方の安芸国人・吉川興経が奮闘した。
新高山城の 相続イベント に顔を出した、あの興経さんです。

詮久が吉田郡山を選んだ第三の理由は補給線の確保とされているけど、
強力な援護を期待できたことももちろん含まれていたと思う。
興経さんは、武勇の誉れ高い人だったからね。

ちなみに、「陰徳記」などでは元春ちゃんの初陣もこの時だったとされています。



・・・で、結果として詮久はその夜のうちに撤退を決意した。

郡山合戦については、元就が幕府へ提出するための報告書を書いていて、
それによると尼子の軍勢は出雲・伯耆・備前・美作・備中・備後・石見、
そして安芸半国の国人衆が参加し総勢3万とある。

ちょっとこの報告書も一部情報操作がされていて、
これだけを鵜飲みにはできないんだけど、それはともかく、それなりの大軍勢が総退却を開始。

大内方でも当然追撃はするが、雪に阻まれて多くを取り逃がしてしまった。
雪に助けられたものの、逃げる尼子方でもこれまた雪が災いした。
詮久自身はどうにか帰国したが、兵に多くの犠牲を出したという。



今日の記事でも、タイトルの頭崎城はろくに顔を出していませんが
そちらはどうなったのか?

前回の記事のタイムテーブルは、天文10年1月30日を最後にしていますが、
この文面が問題でね。
「西条表の件は落着したので、佐東銀山城攻めをお願いします」
って吉田郡山にいる陶隆房が書いているのだ。
ここから、頭崎城は天文10年2月頃まで陥落していなかったと吉野氏は推測している。


天文4年の父・弘保との武力衝突から実に6年。
尼子方による援護があったとはいえ、弘保は頭崎城の縄張をよく知ってるはずだし、
その上で本気出してる大内方の攻撃をこれだけの期間しのいだんだから、
城主・平賀興貞はもっと評価されていいんじゃないの?


 【慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れ、毛利氏に従って萩に移るまで、
  頭崎城は平賀氏の本城として使用されました。その間、何度も改修を重ねたと思われ、
  その城域は東西900m南北600mに及び、中世の山城としては広島県内では
  毛利氏の郡山城に次ぐ広さがあり、平賀氏の支配領域のほぼ中心に位置しています。】
  (現地解説板より一部抜粋)


主郭部の遺構についてはまた後で紹介するけど、
普通に城跡を歩いていて現在見られる部分は、かなり限られている。
だから、解説に大規模な城だと書かれたところで、全然ピンと来ない。
実際、現地では結構あっさり終わっちゃったし(笑)。

ところが、吉野氏の論文に添付されてる頭崎山全体の見取図を見ると、
城域が広範囲にわたってるのもさることながら、主郭部の北側に
感動的なほどの大規模な郭群が認められる。


 【頭崎城は16世紀末まで使用されたため、現在残る城跡が天文年間のまま保存されて
  いるとは考えにくいが、これほど大規模化した背景には、長い籠城戦が影響していると
  思われる。その用途としては、合力の援軍を収容する駐屯地として使われたものだろう。】
 (前掲論文より)


大内ファンでありながらも、この城で興貞が粘りに粘ったのかあ~って
あれこれ想像に耽りながらこの見取図を見てると、ホントに飽きない。


で、その頑張りやさんの興貞はどうなったのか?
頭崎城で討死したともいわれるし、出家して仏門に入ったともいわれる。

これだけの長きにわたって落城しなかった頭崎城が、
どうやって最後陥落したのか知りたい・・・
どっかの旧家の蔵の中とかから新しい史料出てこないかな


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最終更新日  2013年04月14日 14時25分39秒


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