戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年04月26日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
養国寺の門を出ると、こんな光景が広がる↓。


東西条・白市・養國寺39



ああ、ミワラの戦略的城下町を思い出すな・・・
でもここの創建は12世紀だからな。
寺が移転したとも書いてないし。

ただ、弘保の白山城築城に伴って町が造られたんであれば、
そういう計算が全くなかったってこともないんでしょうけど。


一旦道に戻ってすぐお隣にあるのが、土宮神社。
ここの扁額、面白い・・・


東西条・白市・土宮神社1



東西条・白市・土宮神社2



東西条・白市・土宮神社4


広場みたいな境内に、社殿がぽつんと・・・

境内からは、南にこんもりした小山が見える↓。
ああ、あれが弘保が白山城を築いた城山だな。


東西条・白市・土宮神社5から白山城



まずは狛犬から。


東西条・白市・土宮神社7



東西条・白市・土宮神社8


足がずん胴でカワイイなあ


東西条・白市・土宮神社9



東西条・白市・土宮神社10




東西条・白市・土宮神社11



降ったりやんだりだった雨も、この頃にはあがって薄日が射してた。 
ゆえにシャチも輝いておる↓。


東西条・白市・土宮神社13


留蓋の狛犬も輝く↓。


東西条・白市・土宮神社14



そして、アイツも・・・(笑)↓。


東西条・白市・土宮神社15



留蓋の狛犬ってのは、一般的にはスタンダードの部類に入るけど、
この辺じゃ逆に珍しいよな。
比較的新しい社殿なんだろうな。



東西条・白市・土宮神社19



↑狛犬とハトが並び立つ光景ってのも、他じゃなかなか見かけないよな~と思って
写真を撮ってたら、狛犬の方は金目だったことに気がついた。

よく見ると、鬼の方も金目っぽい↓。


東西条・白市・土宮神社20



・・・前から見ると後ろのシャチと一体化してて、
人面魚ならぬ鬼面魚みたいだけど・・・




東西条・白市・土宮神社16



なんか、拝殿っていうより神楽殿のような造りだな。
でもここからお参りするしかないから、やっぱ拝殿なんだろうな。

で、こちらが本殿↓。


東西条・白市・土宮神社17



「懸魚」とつるんと言うと、普通は拝み(左右の破風板がてっぺんで合わさったところ)
に下がってるものを指す。
が、中にはここの本殿のように脇にも下がってる時があって、
この場合は脇のと区別するために拝みの部分の懸魚を「拝み懸魚」または
「本懸魚」(おもけぎょ)と呼ぶ。


東西条・白市・土宮神社17-3


水色で囲ったのが脇の懸魚。
これを「降懸魚」(くだりけぎょ)という。
または「脇懸魚」「桁隠」(けたかくし)と呼ぶんだと。

それで、ここの本殿の降懸魚は菊なんだよね。


東西条・白市・土宮神社18



まん丸じゃないけど、でも菊は菊。

菊の紋章で一番有名なのは、もちろん天皇家、および宮家。
武家でも菊紋を使用している家柄はあるものの、
そのほとんどは下賜されたものだったという。

が、皇室の権威とともに菊紋の価値も下がり、
江戸時代には葵紋が圧倒的に強かったために菊紋の価値も暴落した。

明治に入って皇室が奇跡の復活をするとしぜん菊紋の価値もうなぎ登りとなり、
明治4年には皇族以外の菊紋の使用禁止令が出され、これは終戦まで続いたそうな。

そういう歴史を持つ紋なので、一概には言えないものの、
菊の紋を見るとやっぱり

「おっ!!」

って私なんかは思っちゃうんだよね。


そして本殿の蟇股↓。


東西条・白市・土宮神社25



東西条・白市・土宮神社26



うむ、なかなか・・・



では、恒例の摂社をまとめてご紹介~。


東西条・白市・土宮神社21




東西条・白市・土宮神社22



東西条・白市・土宮神社27


東西条・白市・土宮神社28



神社の境内に接する民家も、また立派。
あの複雑な屋根!
ホントにすごいおうちが多いなあ~。


東西条・白市・土宮神社23




さて、土宮神社を出まして次のスポットへ向かう。
その途中にあるのが、恵美須神社↓。


東西条・白市・恵比寿神社1


近寄ってみたら


東西条・白市・恵比寿神社2


ハハハ・・・なるほど


そのすぐ先にあるのが「旧木原家住宅」↓。
ここは白市の一般的な観光スポットの中で一番の目玉なんじゃないでしょうか。


東西条・白市・旧木原家住宅2



東西条・白市・旧木原家住宅5


 【重要文化財 旧木原家住宅

  江戸時代初期から芸南有数の商家として繁栄した木原家の住宅で、江戸時代中期頃の
  ような装飾性がなく、きわめて粗大な構造で、町屋形式の古い民家の形態をよく
  残している。主屋は、桁行六間半、梁間八間、平入、切妻造、本瓦葺、塗籠の建物で、
  鬼瓦には寛文五年(1665)5月27日の銘がへら書きされている。】
  (現地解説板より)


木原家は商家だけど、その初代は平賀弘保の弟・木原保成。
平賀広相は39歳の若さで亡くなったので、関ヶ原の時点では
広相の子・元相が家督を継いでいた。

関ヶ原後には、元相は毛利家に従って萩へ引っ越したが、
保成は一緒には行かず、浅野家に仕えたとも帰農したともいわれる。

で、その後白市へ戻って商売を始めて、その子孫が酒造・塩田・両替業などを営んで
安芸でも有数の商家となるまでに発展したという。



頭崎城シリーズで弘保の生年がわかってないって書いたけど、
東広島の教育委員会によると、弘保の生没年は1475年~1558年となっている。

この時代、年の離れた兄弟なんてのはごろごろいるけど、
まあどんなに多く見積もっても保成は1500年生まれぐらいが限度じゃないか?
だから、東広島教育委員会の生没年が正しいとするなら、
この話は相当マユツバになってきちゃうけど、まあその子や孫が、って
ことなんでしょうね。

てことで、こちらも平賀さんのゆかりになります。

手広く商売をして儲けた金で、木原家は近隣の寺社などに
宝篋印塔などを色々寄進したらしいので、
福岡八幡神社 の享保の再建も木原系の援助だったのかもしれないね。



旧木原家住宅は、瀬戸内海沿岸に残る町屋の中でも特に古いものだという。
重文は町の誇り。
当然、朝のタクシーのおじちゃんにも勧められた。


「今日、見られますかねえ~。
年末年始・・・」


「あっ、そうか!
やってないかもしれませんね~。ハハハ・・・」



その通り、やっぱり1月5日までは閉館との貼り紙があった。
まあ、これは想定内。

それより、地図にはここにトイレのマークがついていたので、
私はそっちを期待していたのだ。
ところが、トイレは住宅の敷地内だったらしい。


うっそおお~!!
仮にも観光資源を抱えるところで、
出入りが制限されるような場所にトイレを置かないでほしいんだけど!!

ヤバイ・・・もう15:00。
一体何時間トイレに行ってないんだ?


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最終更新日  2013年05月25日 20時17分47秒
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