戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年05月18日
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カテゴリ: 城(中国)
小早川当主系図



小早川春平の子・則平は足利義持に仕えた。
義持の信任も厚く、将軍の九州上使となって九州探題の渋川満頼・義俊親子の
加勢に入っている。

南北朝の初めころまでは、沼田荘へ 預所 の橘氏が来ていたが、
「高山城(8)」 で書いたように、足利義満の口添えがあって
沼田荘の一円支配もできるようになった。

また、父・春平から継いだ佛通寺の整備などを通じて一族をまとめ上げることに成功し、




則平の晩年、大内家では盛見が当主でこちらも幕府の信任が厚く、
相伴衆として在京するかたわら、幕府の九州経営にも協力。

盛見の九州出陣には、竹原家の弘景も協力するよう幕府から指令が出されている。
しかし、盛見は筑前で討死・・・


盛見の跡を継いだ大内持世を救援するために、幕府から安芸国人衆へ
出動の命令が下された。

が、則平は将軍・義教から重大な指令がない限りは軽々しく動いてはいけないと
言われていたので、これに応じなかった。

当時、幕府から指令が出されると、守護がこれを中継して
配下にその指令を実行させた。
つまりは、中間管理職。


安芸では毛利光房などが命令に従って九州へと向かったが、
将軍のいいつけを守っていた則平は、山名時煕の命令をガン無視。
それも、1度じゃないんです。

上(幕府)からせっつかれ、下(則平)は言うこと聞かないし、
ああ、中間管理職の悲しさよ・・・



 「大内方に協力して出陣するよう去年(永享3年)7月に御教書があり、
  それぞれが承ったと報告を受けておるが、その後この老いぼれが
  2回督促してみたところで、1度も返事が来やしない。

  老いぼれと思って馬鹿にしておるのか!
  上意に逆らうつもりか!
  こんな風に安芸の衆が引きこもっているものだから、すでに大内方には
  そのしわ寄せが来ているという。

  かくなる上は、3日のうちに準備を整えて出陣してもらいたい。
  今度引きのばせば後悔するであろうと、今日、飯尾為種と飯尾貞連が通達してきた。
  が、まずはせめて、せめて今度こそは私への御返事をいただきたい・・・・」


ま~たいつもの脚色か~

と思うでしょうが、実は今回は脚色少ないです。
現代語に置き換えただけ。
いや、マジで。
だって、山名のジイさん、自分で「愚老」って言ってるんだもん。

「ほとんど半泣きで書いたでしょ~、コレ!!」

って笑いましたね。
いつの時代も、管理職ってのは大変なものなのだ。

山名のジイさんには悪いけど、私はこの書状、何百年も前のとは思えないくらい
血が通ってる文章なので好きだから紹介したかった。
が、それだけではなく、当時の則平は守護の命令を無視するくらいの
力とプライドを持ってた証だと思う。


結局、則平は九州へと出陣していきました。
出陣の前に 「悔い返し」 をして、ご丁寧にトラブルの種を残してね。
そして則平は九州の陣中において死去。


則平の死後は、子の持平と煕平、それから幕府や大内家や竹原家も巻き込んだ
大バトルとなりました。
(あらましは 「鏡山城(8)」 に簡単に書いてます)

何度も幕府がコロコロと態度を変えるもんだから、
これに関連する書状を見てるとホントにイラつくんだけど、
途中の段階では所領は持平と煕平で折半、両名とも幕府に出仕させるという案で
持平と煕平の和睦が一旦成立してます。

して、持世は京にいる間、後花園天皇の行幸にもお供したようです。
煕平は一時期九州へ出陣していたようだから、
煕平が不在の間の出来事だったのかもしれない。


が、将軍・義教が相続問題に介入してきたことによって、
ついには兄弟間での武力衝突となるに至る。

まあ、この時は持平方が自己の要害などに立て籠ったりしたのがメインで、
高山城が包囲されたなどの記述は残ってないので、
高山城自体は戦に巻き込まれなかったようだけど。


ちなみに、惣領家がゴタゴタしてる間、竹原さんちは
足利義教の弟・義昭(のちの15代将軍・義昭とは別人)が
南朝の残党などと組んで大和で戦っていたところへ、幕府方として参陣してます。

相続の介入などは迷惑な話だけど、小早川氏が幕府の一員として重視され、
小早川一族もそれに応えていた様子がうかがえます。




さて、足利歴代将軍はマイナーな人はとことんマイナーですが、
強烈な個性を持つ人はとことん強烈です

キョーレツ度でいえば、ダントツトップが義満(3代)で
2番目がやっぱ義教(6代)じゃないですかね。

義教さんが「嘉吉の乱」(1441年)で派手な死に方をした後に
将軍に選出された義勝(義教の子)から、義教殺害犯の赤松満佑・教康親子討伐を
命じた書状が沼田家と竹原家にそれぞれ残っている。

同じ嘉吉元年(1441)7月4日付けで出されたこの書状は、
5文字を除いて同じ文章。
竹原家あての方が5文字多い。
何を余計に竹原家に言ってるかというと、

「一族うち揃って」



竹原家と大内氏の具体的ななれそめについてはわからないものの、
嘉吉の乱の少し前、応永32年(1425)には
盛見が東西条内の内海村を竹原家の弘景に預けているので、
すでに竹原家と大内氏の親しい関係は出来上がっていた。

嘉吉の乱では、同席していた大内家当主・持世も巻き添えくって後日死亡しているし、
まだ大内家は幕府から敵視される段階ではないんだけど、
庶家を持たない竹原家にわざわざこう言ってるってことは、
大内氏との独自の関係を築いていることに対し、
なにか思うところがあったのかな~ってちょっと思った。


指令を受けて沼田家と竹原家の双方とも赤松討伐に参加し、
最後に赤松満佑が籠った城山城(現・兵庫県たつの市)の包囲軍の中にも混じっている。


義教の死後、嘉吉元年10月には煕平が惣領として幕府から認められる。
その後、しばらくは兄・持平方とのこぜりあいが続くものの、
最終的に煕平が惣領として落ち着き、足利義政の代で将軍奉公衆となった。




足利6代将軍・義教はそのキョーレツな個性で独裁者となり、
ほぼ将軍の親政を確立していた。

その義教が亡くなったこと、死後の様々な対応が遅れたことなどで
将軍家の権威は低下し、守護大名による合議制が復活。
そしてまた、政権内での権力争いや守護家でのゴタゴタなどが頻発し、
混乱の時代へと入っていく。


一方の煕平は奉公衆として活躍し、将軍の覚えもめでたかったようで、
河原猿楽などにも供奉している。
そうしたことを背景に、一族内での権威も高めた。

強いリーダーなら一族のまとまりもいいだろうと思うんだけど、
ここがまた多くの庶家をかかえる小早川一族の難しいところで、
煕平の代では庶家が結束して盟約を締結している。

すなわち、

・大小のことに関わらず、互いを見捨てず何でも協力しようね!
・庶家の親類や被官人を惣領が引き抜いて自分のとこに直接出仕させようとしたら、
 みんなで心を合わせて拒否ろうね!
・惣領家といえども、庶家に対して無理な要求をしてきた時には
 みんなで協力して拒否ろうね!
・一族の中で惣領に従わない者がいれば、衆中で制裁をしてやろうね!
・衆中の力を頼みにこれを悪用する者がいたら、そいつは追放ね!


・・・とまあ、惣領の権力がこれ以上強化されないようにというあたりを
ポイントにしながらも、一族の結束と惣領への服従をあわせて謳っているところが
なんともビミョ~というか・・・

これは沼田の本荘と新荘の庶家13名の連名による契約状。
ここに竹原家の署名がないことが興味深い。
一匹狼かい(笑)。


が、この契約から4年後の享徳4年(1455)には、
幕府要職にあった飯尾為数の仲介で煕平と竹原盛景が和睦の契約状を取り交わしている。

この中で、以後竹原家では沼田荘の相続に関しての訴訟はしないこと、
両家が仲良くすることを約束させられ、
「則平の悔い返し」に端を発する沼田荘の相続問題はようやくエンディングを迎えた。



しかし、沼田・竹原の和睦が成ったといっても、もう激動の時代がそこまで来ている。
教科書で習う歴史の年号のゴロ合わせで、結構な数の人が覚えてるんじゃないかという、

「人よ むなしく」

・・・アレが目前です。


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最終更新日  2013年05月18日 22時51分52秒


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