戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年05月19日
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カテゴリ: 城(中国)
「人よむなしく 応仁の大乱」



大変だから(笑)。
ので、ここでは乱の経緯だとか概略については書きません。

「ジジイ、いっきなり手ヌキ宣言かよ~?」

って思われそうですが、そうじゃありまへん。

東西条編の後はしばらく古いシリーズをいくつか書こうと思ってます。
広島モノよりはいくらか古い旅の方がライトにまとめられるかとは思うんですが、
その古い旅の中で避けて通れないのが応仁の乱。

という訳で、乱そのものについては別のシリーズの方で書く予定なのです(書きたくないけど)。
ですので、ここでは乱の前後の小早川氏を中心に書きますので


まあ、実は結構この時期のことってすでに 「鏡山城(8)」 あたりで
書いてるんですけどね。
とりあえず、小早川氏の歴史として簡単にまとめていきますね。



室町幕府と密接なつながりを持っていた小早川家は、
応仁の乱の少し前頃には安芸の国人衆の中では幕府方の代表的存在となっていた。

応仁の乱のひとつの要素として、畠山家での相続のトラブルが挙げられるが、
享徳4年(1455)には家督を継いだばかりの畠山義就に協力して
大和へ出陣したりもしている。



鏡山城シリーズで書いてきたように、大内氏も安芸の拠点として東西条を有しており、
安芸は幕府内の実力者である細川氏と大内氏の勢力の接点となる。


沼田家の所領である田万里を占領した。

寛正2年(1461)には幕府から一方的に東西条を武田氏に与えるとの通達が出され、
小早川煕平が幕府の使者として山口まで押しかけている。

が、寛正年間の末頃には大内方の西条衆(野間・阿曽沼・平賀・竹原小早川の国人衆)が
東西条奪還のために武田氏の鏡山城を攻撃した。

竹原家の本拠を攻めている。



さて、寛正3年(1462年)伊予では細川氏と河野通春の間で対立が起こった。
将軍・義政は寛正5年(1464)11月、大内教弘へ伊予出陣を申し付ける。

小早川家には、少し遅れて翌寛正6年6月25日付けで「河野通春討伐のために
一族うち揃って細川勝元へ合力するよう」命じた書状が残っている。
そして、8月頃には庶家の土倉・梨子羽氏らが伊予に着陣している。

大内教弘は、幕命に従って伊予へ渡海した。
が、途中から敵方である河野通春の支援に回った。


前回「嘉吉の乱」に少し触れましたが、
教弘の先代・持世が嘉吉の乱が原因で亡くなった後、
朝鮮から持世の弔問の使者が訪れ、教弘がそれに答使を送ったことで
大内家では本格的な朝鮮貿易が復活し、のちに朝鮮貿易の勘合符が与えられるなど、
教弘の代から対外貿易に弾みがついた時期でもあった。

そして、日明貿易においては大内氏と細川氏はライバルだった。

それまでの東西条に対する幕府の嫌がらせもあったし、
教弘もついにキレたのかもしれない(笑)。
ともかく、ここで大内氏は堂々と敵方に回った。


幕府・・・つーか、細川勝元はそりゃ~怒りましたサァー。
して、9月18日付けで教弘へ

「とっとと周防へ帰りやがれ!!」

て帰国を命じている。
が、当の教弘は船中で発病し、そのまま9月3日に亡くなっていた。
この時、将軍から医師が遣わされたともいうんだけどね。

ただ、教弘が実際にいつ伊予へ渡ったのかはわからないんだけど、
教弘の背後を守る形で安芸に来ていた大内家重臣の陶弘正が8月26日に
安芸国府で討死しているので、8月の下旬にはすでに
河野通春と手を組んでたんじゃないかと思うんだよね。


教弘死亡の報が京に届いたのは10月7日。
死者あての帰国命令ってのもマヌケなので、あらためて10月22日付けで
今度は教弘の子・政弘討伐の指令が出される。
しかし、すでに安芸では大内氏による小早川領への攻撃が始まっていた。

標的となったのは、新荘の能良・乃美あたり。
10月3日と5日の2回、交戦があったことがわかっているが、
大内方の攻撃はかなり激しいものであったらしい。

また、武力攻撃だけじゃなく、小早川内部の切り崩しも行っていた。
これに応じたのが、乃美員平と家平の親子。
この乃美さんは、後の時代で活躍する 乃美隆興 とか乃美宗勝を輩出した
庶家の乃美さんとは別モノでね。

この翌年、乃美家平が領内にゴロツキを住まわせ、
ご近所さんに乱暴狼藉を働いているという罪状で幕府が家平の所領を没収し、
惣領の煕平に与えている。
これは言いがかりかもしれないし、あるいは大内氏への協力のために
家平が兵を雇い入れていたのかもしれない。

その後しばらくしてから煕平の次男に乃美郷を与えて新しい乃美氏を立てさせた。
こちらが、一般的に有名な方の乃美氏になります。



大内氏に話を戻しましょう。
上の10月3日と5日の攻撃は、小早川勢が頑張って撃退した。
が、事態を重く見た幕府では、小早川軍を帰国させた。
おそらく、煕平本人が帰国したんじゃないかと思うんだけど。

で、細川勝元は10月22日付けで

「大内政弘討伐の上意を受けて帰国したんだから、
ぜっひとも頑張ってよね!
もし何かあったら、何でもいいからその都度ぜ~んぶ打ち明けてね。
政弘討伐は、一族が一丸となってやり遂げてほしいんだけど、
もし従わない者がいればきつ~くおしおきね~」

と煕平に言いつけている。
また、同日付けで管領・畠山政長から別の書状もあり、それには

「大内政弘の討伐は一族親類あげて参加し、忠節を尽くしてね」

とだけ書かれているので、つい

「連名にして1通にまとめられなかったんですか?」

ってツッコミを入れたくなる(笑)。

特に、この頃から幕府関係者の書状が頻繁に送られてきていて、
読んでるとすっげ~ウザい・・・いえ、緊迫した様子が伝わってきます。



して、応仁元年(1467)。
正月早々、管領・畠山政長が失脚して立て籠り、応仁の乱が勃発します。

大内政弘は、先に出た乃美家平や竹原家などを引き連れて上洛。
ちょうど同じ頃、小早川煕平も上洛しようとしたらしく、
政弘とバッティングしちゃうかもしれないから、
一旦上洛を見合わせてはどうかと細川勝元から止められている。

もちろん、その後煕平は上洛しているけどね。
そして京では誓願寺北・東陣のあった白雲構・北小路今出川などで戦闘に参加し、
負傷者や戦死者を出している。


国許では、高山城が竹原家に攻撃を受けた。
包囲は3年にも及んだというが、ひとまず落城はしなかったらしい。

小早川領のすぐ隣、備後でも東軍と西軍に分かれての戦があり、
幾度か小早川家から援軍を出している。

中盤あたりになると、煕平も帰国したらしく、
備後で西軍が勢いづいてきた情勢を京に報告したり、
備後で有事の際には速やかに加勢に向かうよう幕府奉行人から言われたりして、
この地域における東軍の中心的存在だった。



南北朝の争乱と同じく、応仁の乱でも一族内で東軍(細川方)と西軍(山名方)に
戦ったのはどこの家でも見られた光景ですが、実は大内家でも分裂がありました。

ひろよん(大内弘世)以降の大内家当主の系図を 「山口編(4)」 に載せてますが、
教弘の兄弟・教幸が途中から東軍に参戦してしまったのです
政弘から見れば、おじさんに当たる人ね。

教幸だけじゃない。
重臣の仁保弘有(にほ・ひろあり)まで東軍に転じてしまった。

仁保弘有の肖像画は涼やかな顔立ちで、私この人好きなんだけど(←イケメン好き)、
弘有は備後まで来て煕平に協力している。

教幸は赤間ヶ関(現在の関門海峡付近)で挙兵した後、芸備攻略を命じられるんだけど、
現在の廿日市あたりまで来たところで大内家重臣の陶弘護
(すえ・ひろもり。陶隆房のジイちゃん)に阻止された。

弘護は応仁元年に父に従軍するんだけど、その時12歳。
14歳で元服し、同じ年、教幸と対峙した。

27歳以前の弘護を描いたと思われる肖像画は、
スマートで涼しげな仁保弘有とは対照的なでっぷりさんで、
いや、これだったら14歳で敵を追っ払うのも道理だよな~、みたいな・・・


そうなんです、14歳の弘護君、教幸の軍に勝っちゃいまして、
教幸はからくも石見の吉見信頼のところへ逃れました。
吉見信頼の協力を得た教幸はその後も頑張りますが、
結局数回弘護に敗れ、最後は豊前で自刃しました。
教幸に加担した吉見信頼も弘護君らに攻められ、所領を削られるハメに・・・

仁保弘有の方の詳しいことはわからないものの、
摂津あたりで敗れたらしい。


当主・政弘が西軍の重鎮として足かけ10年、京で転戦していられたのも、
領国を守るこうした忠実な家臣たちのおかげだった。

久方ぶりに帰ってきた政弘を富田の自邸で迎えた弘護に対して、政弘は

「国許が安泰だったのはお前のおかげだ・・・
おお、兄弟よ!!」

と言って感謝することしきり。
以後、弘護は四六時中政弘につきまとい・・・いえ、近侍して、
なおいっそう忠勤に励んだそうです。


ついでだから、最後まで書いちゃいましょう。
築山館のところではどうも書けなかったので・・・

吉見信頼は、その後政弘に正式に許されます。
そして文明14年(1482年)5月27日、家臣の慰労のために築山館で開かれた酒宴の席で、
弘護君は吉見信頼に殺されます。
享年27歳。

先に弘護が吉見信頼を刺したとも言うんだけど、これに先だって
吉見信頼が弟に家督を譲っていることから、吉見信頼の計画的犯行と見られている。
弘護を殺した直後、吉見信頼も同席していた大内家臣に殺されてますが。

吉見信頼の犯行の動機については色々言われているものの、
教幸の挙兵に絡んでの出来事の影響が皆無だったとは言い難い(と、私は思う)。

まさに、「人よむなしく」だなあ・・・・・

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最終更新日  2013年05月20日 20時38分54秒


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