戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年07月30日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
次のスポットはさほど離れていない場所にある。

三蔵稲荷神社の参道を降りて左手に歩きだすと、
道端に三蔵稲荷神社の倉庫のようなものがあって、
かなり乱雑に色んなものが収められていた↓。


福山・福山城・三蔵稲荷18



こういう木の箱って、掛け軸とか巻物なんかが収められてそうだけど、
まさかね・・・
だいたい「空庫あり」ってあるけど、ここにはごちゃごちゃと色んなものが置いてあるから、
空きスペースあるのか?



で、このすぐ先には大きな鳥居があります↓。


福山・阿部神社へ



う~ん・・・
この位置はビミョ~だな・・・
奥へ行っても神社、手前も神社。
果たしてどちらの鳥居なのか?

この左手の木が繁っているところは、城内です。
北側には高石垣の類はなく、竹柵で囲っていたというけど、
どう見ても防御力は低いでしょう。

南の大手とはえらい違いだよな~。
「頭隠して尻隠さず」・・・いや、違うな。


この鳥居をくぐって、道なりに進みま~す。


福山・阿部神社へ2



道はかなり細い。
絵図では、このあたりの道には東側の外堀へと通じる細い水路のようなものが描かれている。
が、これは堀ではなく上水道らしい。



福山はもともと海に面した河口にあったので、飲料水の確保が重要課題だった。
この辺は、江戸の町と似てるよね。

で、カッチンは芦田川から水を引き、4つのルートに分けて水道を整備した。
福山城を語る中で上水道整備は欠かせない話題となっており、
城下町の水道の中では

 1、神田上水/天正18年(1590)
 2、近江八幡水道/慶長12年(1607)
 3、赤穂水道/元和2年(1616)
 4、中津水道/元和6年(1620)

に次いで5番目(元和8年竣工)にできた水道だそうな。


 【築城当時どこまで整っていたかは不明であるが、道路工事や家屋の基礎工事で
  掘り出された旧水道の遺構は驚くべき精巧なもので、江戸神田上水道にも匹敵する
  くらいに大規模で、近代水道に似た立派なものである。

  この水道の根幹は、勝成の城下町形成のときすでに造られたもので、彼の言動を
  記した『宗休様語伝記』にも、石垣をもつ溝を町の中央にうがち、その上に石を架して
  暗渠となしたことや、飲料水なるがゆえに決してこの上をまたげることがなかったと、
  次のように記されている。】
  (「新版福山城」より)


そして話はカッチンの有名なエピソードへと続く。


  カッチンが城下の侍町を通った時のこと。
  あるお駕籠の者が何の気なしに水道の上を通った。
  それを見たカッチンが、



  脇を通らんか、脇を!!」


  と叱って、家臣が通ったその水を飲むというパフォーマンスまでした。
  それ以来、皆は水道の上を通らず左右を歩くようになった。


最初、オープンな水路の上をまたいだって意味かと思ったけど、
カッチンの頃にはすでに暗渠になっていたようだから、
水道の上の道を歩いたってことなのかね。

はじめから道のはじっこに造ればよかったんじゃないの?とか
またツッコミ入れたくなるけど、上水道の分布図を見ると
城を中心に広範囲にわたって水道が巡らされてるようなので、
きっと立案から完成までも色んな苦労があって思い入れもあったんだろう。



上の写真では道の右脇に水路の名残のようなものがあるにはある。
が、右上に建物が写ってるように、近代に入っていくつかの建物が建てられたおかげで、
右側の天神山の麓あたりは昔とは様子が異なっているらしい。

天神山は、福山城築城の際にカッチンが寝泊まりして
工事現場へ出勤したといわれている小山。

今、私が通っているのは天神山の東麓。
北側には幕末に防備強化のために造られた胸壁といわれるものがあったが、
そちらも近代の道路拡張のために遺構が破壊されているみたい。


なんで幕末になって防備に力を入れたか?

福山城シリーズで書いたように、福山藩は譜代の藩。
2度にわたる長州征伐には、幕府軍として戦っている。

阿部正弘さん も大変だったけど、その後の福山藩主も大変で、
ここでは詳しく書きませんが、福山城に関連することだけをちょっと紹介すると、
第2次長州征伐の準備の時には 櫛形櫓 にあった火薬が爆発し、
鎗櫓、鉄砲櫓も延焼するという事故が起こったそうな。

大政奉還を経た慶応4年(明治元年)正月には、長州軍が福山へ迫る。

実はここまでの間で藩論は割れてはいたんだけど、
なんといっても福山城は西国の鎮衛としての譜代の城。
朝敵とみなされた福山藩は、築城から240年以上経って
初めて本格的な攻撃を受けることとなった。

で、それに備えて天神山に胸壁を築き、砲台まで置こうっていう話もあったみたいだけどね、
結局天神山、そして近くの小丸山を占拠されてそこから砲撃を受けた。
戦災で焼失する前の天守には、この時受けた砲弾の跡が残っていたという。

最終的には福山藩の恭順が認められ、死力を尽くした全面戦争は回避された。


まあね~、例えば「新版福山城」では天神山のことを

 【築城当時搦手の要塞として残した小丘である】

としているものの、搦手の要塞・出城といえば聞こえはいいけど、
トータルでは防御力は低いんだから、ここを奪われたらどーすんの?て
縄張図を見ててやっぱり思うもんね~。

で、実際ここから攻撃されるハメになった。

という訳で、今私がいる付近にはかつて長州軍がうじゃうじゃいたことになります。


情勢がめまぐるしく変わった大政奉還前後の出来事を
簡単に書くのは気がひけますが、福山にはまた来ようと思ってるし、
別のところでもう少し詳しく書く機会もあるでしょう。
あるいは、福山以外のところで書くかもしれないし。

ので、幕末に関しては今はここまで。
先へ進みましょう。



福山・阿部神社へ3



上の写真から少し進んで、振り返って城側を撮った写真がこれ↑。
切り通しです。

地形からすると、有名な鎌倉の切り通しとはだいぶ趣が違ってくるし、
総合的に考えてこれがどれほどの効果を持つのかということには
個人的にははなはだ疑問があるのだけど、
当時の面影を残しているとはいえるだろう。


「新版福山城」には、『東回りの外堀と天神山の間は竹柵を設け、清水口御門があった』
とある。

私が持ってる中の古い絵図では、切り通しのあたりは特に何も描かれてないように
見えるけど、三蔵稲荷神社からここへ来るまでには
確かに竹柵のようなものが描かれている場所もある。

福山城廃城後の明治初期頃に描かれたと思われる絵図では、
城から天神山へ抜ける道が描かれていて、
天神山の麓には簡素な門がある。
城が現役の頃にも、同じ場所に清水口御門から天神山へ入る門があったのかな?

そして、同じ絵図で天神山の麓付近は長く竹の柵で囲われている。


天神山を含めた福山城の小山の北側には、
寺社の建ち並ぶ丘陵地帯がある。
もちろん寺社大好きな私はそちらも歩き回りたかったけど、
結局今回は全然行かれなかった。

ので、そちらの実際の様子はわからないものの、
天守の展望台から見えた寺の造りからすると、
背面の弱さを補うための寺社兼砦だったのだろうと思われる。

幕末の長州勢による福山城攻撃の際は、その高台も占領されたようで、

 【城の北側両社八幡社(現在の福山八幡宮)から黒門を破り、阿部神社の赤門西側に続く
  竹矢来を押し開き殺到してきた】
  (「新版福山城」より。原典は「阿部正方公」らしい。カッコ内は戦国ジジイが追加)

とあるので、北側へ通じる赤門と、城へ通じる門以外の山麓は
ぐるりと竹の柵で囲われていたのかもしれない。
ま、戦国時代へ逆戻りしたようなだいぶ簡素な防御アイテムではありますが(笑)。


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最終更新日  2013年07月30日 22時39分14秒
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