戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月01日
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カテゴリ: 城(中国)
『水野記』の中にある、領内の寺社の由緒などをまとめた『寛永寺社記』に


安堵状というのは、一般的に領主が代替わりした時に、
引き続き元の所有者の経営権を認めるものだけど、
土地の寄進もそのタイミングで行われるものなんだそうな。

田口義之氏が『風雲の神辺城 山名理興の登場』の中で引用しているのは3ヶ所。
これらにはいずれも天文元壬辰年に「山名理興」が社領を寄せたとある。


また、年不祥の12月1日付けで「宮内少輔 理興」が
「丹下神四郎のこと、承りました」てな内容の書状を


備陽史探訪の会の『神辺城を廻る戦国武将たち』という講演会資料の中には、
12月1日付け「宮内少輔 理興」の書状に続けて、天文元年11月16日付けの
和智豊郷から丹下神四郎あての書状が掲載されていて、
11月16日の書状では備後国の鋳物師大工職は三谷郡を除いて任せる、
といった内容のことを言っているらしい。

ので、12月1日付けの「宮内少輔 理興」から和智豊郷あての書状は、
天文元年のものとみて間違いないだろう、としている。

そして、この2通の書状の写しは全国の鋳物師を統括した真継家の所有となっていた。
ここから、田口氏は

 【室町時代、国内の鋳物師職の任命権を持っていたのは守護であった。
  天文元年(一五三一)十二月の時点で理興が備後守護の職権を行使していたのは

  (『風雲の神辺城 山名理興の登場』より)

としておられる。

社領の寄進・鋳物師の任命という史料に残る事実などから、
天文元年には「山名理興」が守護に相当する権力を持っていたという、
通説とは大きくかけ離れた結論が導き出される。




八尾城主と記載があり、「理興は杉原氏の出で銀山城主」という説が
定着する以前には、それら文献の通りに受け取られていたという。

現在でも八尾城主説を採る人はいるけど、杉原氏出身だという部分は動かない。
ので、その場合は「八尾杉原氏の一族」という風に紹介される。

八尾城(八ツ尾城)は、相方城や亀寿山城より北西に位置し、
現在の府中市にある山城。

築城そのものは備後守護・杉原伯耆守光平によるものとされるが、
史料の上ではそれ以後は杉原氏が居住したという確証はなく、
山名氏の備後守護としての拠点であったものを伝える史料ならある。

山名氏もさすがに名族だけあって色んな人がいてややこしいけど、
備後守護の山名さんは但馬の山名さんちだと思ってください。
山名宗全はこちらのおうちの人です。

一方、但馬とは別に伯耆にも山名さんちがあり、
『西備名区』では理興の父を伯耆山名氏の一族であると伝える。
そして、伯耆山名氏の子孫・氏明が神辺城主になったとする史料がある。

山名氏明は「宮内少輔」に任官し、その弟は「村尾十郎」と称した。
神辺城は本来、「村尾城」と呼ばれていたことを前回書きましたが、
この「村尾」なんでしょうね。
在地の名称を取って名字とすることは、当時あちこちで見られたことだからね。

ここから、伯耆山名氏の一族が神辺に移り住んだ事実が存在する、と読める。

ここまでをまとめると、理興は伯耆山名氏の一族の出身で、
天文元年(1531)には備後守護、あるいは守護代に相当する権力を
行使していたということになります。



さて、『萩藩閥閲録 遺漏』に、大永年間(1521~27)のものと見られる
宮實信の書状がある。

宮氏の中では下野守家と上野介家の間で惣領の座を争っていたらしいと
「大谷城(2)」 で書きましたが、時には両者が協力することもあり、
「備後両宮」と恐れられたそうな。

で、大永年間頃にも2人の宮氏が力を持っており、
書状を残した宮實信は、その当時の備後3大ボスの1人で、
その頃「神辺和談」というものがあったことを書き残してくれている。

とは言っても、別に「実録・神辺和談のすべて!」なんてものを残している訳ではなく、
したがって周囲の情勢などから推測するしかない。

神辺和談については、木下和司氏が論文を発表しておられるようですが、
不勉強な私はまだそれを読んでないので、ここでも引き続き
田口義之氏のサイトを参考にさせていただきます。


備後守護家の山名氏は、応仁の乱では大内政弘とともに山名宗全が
西軍のトップとして戦い、宗全の養女は大内教弘(政弘の父)の正室となるなど、
大内家との関係は深かった。

その守護山名氏が、尼子方に転じたことにより備後国内に動揺が走り、
あらたに守護の一族を備後に迎えて時勢に対処しようとしたのが
「神辺和談」。
迎えられたのが、理興だという。

ちなみに、理興はダイレクトに神辺城に入ったのではなく、
八尾城主になっていることから、八尾城⇒神辺城の2つのステップを
踏んだ可能性が高く、これにあわせて国人衆の領地替えも
大規模に行われたことがうかがわれる、とされる。

これらを踏まえて最後に理興の出自をまとめると、
「伯耆山名氏の一族の出身で、八尾城を経て神辺城に入った。
神辺城主となったのは、大永末頃~天文元年の間である」
という感じになります。


む~~~~~・・・・
通説とは相当かけ離れるけど、こちらの説の方が無理がないと
私は思うよなあ。


前回からここまでの山名理興の話については、
私は自分で研究した訳ではないのでかいつまんで紹介するにとどめましたが、
田口義之氏のサイト(『備後山城風土記』『びんご古城散策』など色々あります)
には、根拠となる史料の明示および丁寧な解説がついてますので、
きちんとしたことを知りたい方はぜひそちらもご覧ください


それにしても、何で山名理興のあんな通説が生まれたんだろう?
って果てしなく疑問が広がるんだけど。

それに、この名前・・・
たぶん、「興」って大内義興さんのイメージが強いせいもあるし、
「理」を「ただ」って読む習慣がないので、
「ただおき」なのか「おきただ」なのか
頭の悪い私は正直いまだにわからなくなることがあります(笑)。

最初、義興さんの偏諱かと一瞬思ったけど、
それなら「興」の字を下に持ってくるはずがないしな。

田口義之氏の『八尾山城と山名氏』によると、伯耆山名氏の中に
「興」を下の字に使う人もいたらしいので、
やっぱり義興さんの偏諱じゃないってことだな。
そうだよな。


大内氏といえば、大内ファン必携の書『大内氏実録』を見てみたところ、
天文7年の項に神辺城を落として理興を入れたという記述はない。

『大内氏実録』は士族出身で郷土史家の近藤清石(きよし)が
明治23年に刊行したもので、藩の右筆として古記録を調査したというだけあって
膨大な文献や書状から大内氏の歴史や人物などをまとめたもの。

出典なども明示されていて、書状関係だと一括して「古文書」と
されちゃってる部分もあるんだけど、大内氏の勉強にあたっては外せない一冊。

数は多くはないものの、軍記物も一部取り入れてる。
でも、理興の通説に該当するような記述は見受けられなかった。

近藤清石が備後の文献にあたらなかったんじゃないの?
って言ってしまえばそれまでだけど、
神辺城は大内氏にとっても重要な城だし、
まして尼子方から奪ったという経緯であれば、
全く書かれないということはないんじゃないかと思うんだよね。

ので、近藤氏が天文7年落城説を採用しなかったのは
興味深いと思った。


さて、山名理興の出自と神辺城主になった経緯については
一旦ここで終わりとします。
が、ちょぼちょぼ通説との比較などもするかと思いますので、
前回書いた通説についてもよく押さえていてください。

いや、最後までナゾが多いんだもん、この人・・・
もうやんなっちゃう


で、ここからは東西条シリーズを読んで下さった方には
割となじみやすい話になってくるかと思います。
ついでに、私がどうしても神辺城を外せなかった理由もわかるはず


『西備名区』では天文9年(1540)春、あるいは天文8年に
毛利元就が神辺城を攻めたとしている。

その中では、理興の配下が神辺城に集結し、
毛利軍はいとも軽くあしらわれ、簡単に落とせないと見た元就は
早々に撤退したことになっている。

安芸の天文9年の前半のタイムテーブルは
「頭崎城(6)」 に書いてますが、どうもこの時期の攻撃というのは考えにくい・・・
相手から攻撃されたんなら応戦するってことはあるでしょうけど。
でも、元就がモーレツに忙しくなる前のことではあるから、
絶対無理!!とまでは言いきれない。

ただ、この時の元就は大内方だから、
その元就が攻めるなら理興は尼子方ってことになるよね。

ところが、天文9年の後半から始まった吉田郡山城の戦いの最中、
理興が元就に陣中見舞いの使者を送ったなんて話があるのだ。

お見舞いの件が事実だったなら、敵方にわざわざ陣中見舞いなんて
するワケがない。


「神辺和談」については、私はまだ自分の中で消化できてないけど、
理興が神辺城主になってから天文12年までは大内方だったのだろうと思う。

なぜでしょう・・・
そこで、次回から新しいステップへと入ります。


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最終更新日  2013年09月02日 07時32分42秒


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