戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月03日
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カテゴリ: 城(中国)
ここからは、東西条編であれこれ書いてきた歴史と絡めながら
話を進めます。

リンクもなるべく貼るようにしますので、
忘れた方はご面倒ですが東西条編のおさらいもしながら
読んでいただけると嬉しいです。



大永3年(1523)の 鏡山城の戦い の後、
安芸の国人衆の多くは尼子方へとなびいた。
東西条周辺のいわゆる西条衆でさえ、一部尼子方へ奔ったようだから、


もちろん、備後衆もその例に漏れない。

しかし、大永5年(1525)に毛利元就が大内方へ帰参すると、
状況は少しずつ変わってくる。

あまり詳しいオセロゲームの推移はわからないけど、
今回のシリーズを書くにあたって、これまでほとんど開くことのなかった
『萩藩閥閲録』を今さらながら見てみたところ(笑)、
大永7年には備後衆が大内方へ帰参したという書状がぽちぽちあって、
なんだか大内義興さんと陶興房(隆房のパパ)の喜ぶ顔が
目に浮かぶようだった

ので、大永の終わりまでには(大永は8年まで)
芸備とも大内氏がかなり盛り返していた状況といっていいだろう。


まだこの時点では興貞は尼子へ転じていなかったらしい。
(興貞については、 「頭崎城(5)」 以降をご覧ください)


で、その平賀興貞が引き起こしたと言っても過言ではない一連の大バトル
および大内義隆の完全勝利についても頭崎城シリーズで

小早川正平や大内晴持は不運な死を遂げ、生き残った方々も
ほうほうの体でそれぞれの領地へ帰ってきました。

『大内氏実録』によると、義隆が山口へ戻ったのが
天文12年(1543)6月25日。

が、小早川正平の死亡日が5月9日だから、
ちょっと義隆ちゃん遅すぎないか?って思う。

だいたい、正平のお悔やみの手紙を6月11日付けで
沼田小早川家へ送ってるんだから、6月11日以前には
帰ってたんじゃないかと思うけど。

ただ、『大内氏実録』には「6月2日の文書に、まず一軍を沼田金山へ
差し籠らせた」というカッコ書きも添えられているので、
5月中にはなんとか山口へ辿り着けたんじゃなかろうか。


まっ、それはともかく。

愛する晴持 を失った悲しみに溺れる前に、
この時の義隆は帰国するとすぐ安芸の各国人に尼子の来襲に備えるよう
防御を命じ、兵を沼田へ送ったという。

義隆から沼田家へのお悔やみの手紙は 「新高山城(4)」 に書いてますが、
「近いうちに弘中(隆兼)をやるからね~」という文言は、
要するに軍を率いた弘中君が救援に行くからね、って意味になるのかな。


しっかし、なんで真っ先に沼田なんだろう・・・
備後と国境を接するのは、小早川領だけじゃない。
南部の小早川氏よりは、もっと北部に位置する城を補強した方が
いいような気もするんだけど。

やっぱり、大内氏との縁がまだ浅く、直近でも尼子方だった沼田家の歴史が
義隆に不安を抱かせたのだろうか。

プラス、当主が若くして討死、嫡男の又鶴丸(のちの繁平)はまだ赤ちゃん。
敵方からすれば、狙いやすいウサギちゃんに見えたかもしれない。

そして、義隆の読みはあたった。



話が前後しますが、月山富田城攻めで大内軍が総崩れとなったのは、
義隆の完全勝利で

「大内様、おさすがですう~」

となびいてきた国人衆が戦の最中に堂々と寝返ったからだった。


古くからの傘下の国人衆、新しく加わった国人衆を取り交ぜて
意気揚々と尼子の本拠へ向かったものの、戦線は膠着。

『陰徳太平記』では、備後・石見・出雲の国人13人は陣中で次第に仲良くなって、
合戦も終盤を迎える頃には毎晩酒や茶を飲みーの、連歌しーの踊りーの
何でも話せる仲に進展していたとする。
この仲良し組に山名理興もいた。

雨で気分もスッキリしないある日、理興が口火を切った。

「ねえねえ、ぶっちゃけ、
大内と尼子ってどう思う~?」


話題が話題なので、最初は遠慮して盛り上がらなかったが
理興がうま~く誘導して、次第に話に花を咲かせていった。

もう古いチャイナの話とか持ち出してえらい長い文章なので、
ここでは全てを書きませんが、大内義隆と尼子晴久(詮久から改名)の
評価はもちろんのこと、毛利元就をはじめ平賀隆宗やら熊谷信直やら
傘下の国人衆の批評に移り、
果ては北条氏康まで登場するという盛り上がりよう(笑)。

結局、

「義興公はよかったけど、
義隆はダメだよね」


って方へ話が進み、仲良し組はこぞって富田城へ入っていった、と。


見てもいない談合のシーンを、よくもまあこれだけ長々と書けるもんだな~と
感心してしまいますが、つまり山名理興も寝返り組だったようです。

理興の通説でも、前回紹介した田口義之氏の説でも、
どちらも神辺城主としての理興は大内方としてスタートしている。

尼子詮久が東上作戦を繰り広げていた中には理興の名前はないそうだし、
参戦しなかっただけで実は途中で理興が尼子方に転じてたんだったら、
義隆は大々的に神辺城を攻めてるんじゃないかと思うんだよね。

ま、前回書いたように、天文9年に元就が攻めたという話もあるにはあるけど、
元就がすんごい軽くあしらわれてるし、
戦上手の元就がそこであっさり諦めるかな~って気がする・・・


さて、『陰徳太平記』では理興は富田城攻めの最中に尼子方に走ったとあるが、
一般的にはその後の尼子の調略に応じたとされる。

最中なのか後なのかの真実はわからないものの、
月山富田城攻めの失敗を契機に他の備後衆とともに理興は大内氏に反旗を翻した。

その後の行動は素早かった。

天文12年(1543)6月27日、
小早川領の椋梨が早速尼子方の攻撃を受けた。
続いて7月7日も。

閥閲録だと攻撃者の名前ははっきり書いてないものの、
山名理興も椋梨を攻撃したとされる。


小早川分布図


おなつかしや~の小早川庶家の分布図ですが、
どうもこれ、納得がいかないってゆーか・・・
備後から侵入した場合、結構椋梨領って奥まってない?

ついでに系図も載せますと、


小早川一族系図


椋梨より東にある土倉・和木・大草なんかも結構古い庶家なので、
天文12年の時点でおおむねそれぞれの領地は分布図の通りだと思うんだけどね。

まあ、史料に残ってるのが椋梨の受けた攻撃だけなんだとは思うけど、
沼田新荘の北部がまず狙われたって感じなのかな。
結構奥まで侵入を許したってことになるよね。

おそらくこの時は、新荘系が協力して防戦に努めたものと思われる。
これに関連して大内家から出された感状から推測するに、
椋梨氏と乃美氏が奮闘した模様。

が・・・
この感状、敵を追っ払うのに協力した毛利元就あてなのだ。
椋梨氏と乃美氏から、元就が善戦したことを報告したものらしい。

椋梨氏は新荘系小早川の本家だからわかるけどね、
乃美氏もね・・・
ここから、この段階で乃美氏も結構存在感を増してたカモ、
という気がした。

わたくしが何を考えてるか、記憶力のいい方にはわかるかもしれませんが、
新高山城シリーズで書いた、隆景の相続イベントが
どうしても頭をもたげます。

実は、この時の戦のことは山名理興の名前こそ出さなかったものの、
相続イベントの 乃美隆興のダンジョン でちょっとだけ書いてましてね。

「またその話でっか~!!」

と呆れる方もおられるかもしれませんが、
どうにも謎の多いイベントだし、私は執念深いのだ


神辺城の記事でこんなことを書く人はまずいませんが(笑)、
まだまだ東西条編の内容を蒸し返す記述は続くと思われます。

だって、同じ時期で登場人物も同じなんだからね。
しかも、天文4年~10年までも重要だけど、
天文10年~20年までもあらたな時代の幕開けの準備期間ともいえる、
重大な時期。

こんな大切な期間の出来事を、神辺城だけに限定した記事が私に書ける訳がない。
ので、安芸がお嫌いでなければ、ゆるゆるとこのシリーズを
お楽しみいただければ幸いです。
このシリーズ、歴バナで相当長くなるかもな・・・(また?)。


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最終更新日  2013年09月04日 00時09分09秒


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