戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年11月07日
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カテゴリ: 江戸めぐり
さて、ぼちぼち歴史の話なんかも交えていきますかね~。
これさえなければ、さっさか終わるんだけどね~。

わかっちゃいるけどやめられない、ア、ソレ!



元和2年(1616)1月21日、駿府は田中へ鷹狩りに出かけた徳川家康は、
ちょうど京から戻ったばかりの茶屋四郎次郎を召し出して
しばしおしゃべりに興じた。

「ねえねえ、最近上方で珍しいものってなに?」

「なんか~、タイを油で揚げたものが流行ってるみたいッスよ。
僕も食べましたけどね。
いや、美味しかったな~」


ちょうど献上のタイがあったので、早速タイの天ぷらをむさぼったところ、
その夜、腹痛に見舞われた。


天ぷらと発病の関連性についてはわかりませぬが、


ともかく、25日には駿府に帰城した。
その後、一旦は持ち直したようだけど、年も年だし(73歳)
病状は悪化の一途を辿った。
胃ガンだったという説もある。

江戸では「大御所、倒れる!」の報に驚き、様々な人を遣わして
手厚い看護を続けるも、結果ははかばかしくなかった。

ブレーンと言われる天海は病床へ侍り、
本多正純なども看護に当たったが、3月末には薬も受け付けなくなった。

そうした状況に死期を悟ったのか、家康は外様の大名などを召しては
今後について色々と指示を出した。

中でも前田利常・島津家久・伊達政宗などは枕頭に呼ばれ、

北国筋は前田、西国は島津、奥方は伊達に頼むと言い置いた。
細川忠興も同じように後事を託された。
皆はさめざめと泣いた。

4月半ばには福島正則を呼んで、名物の茶入れを与え、

「そちの事を秀忠へ悪く言う者がおったでの~、
しばらく江戸へ留めおいたんだが・・・
そちに異心のないことは、ワシから秀忠へよく言っておくから、
安心して国許へ帰るがよい」


正則が泣くばかりで何も言えずにいると、

「もし今後秀忠に不満があるようなら、
別に兵を起こしても構わないし~。
好きにしちゃってよ」



正則は大声で泣いた。

後で本多正純を呼んで、

「どうだった?」

と聞くと、

太閤が世にある時から徳川家に対して二心は抱いてないものを、
今のお言葉はあんまりでござる~!
大御所様は何と情けないことをおっしゃるのか!!

・・・と正則は言っておりましたぞ」

「ふ~、その一言が聞きたかったんだよね。
これでよしと


・・・と、ホントにあなた、病気デスカ?
と最期までツッコミ入れたくなるようなタヌキぶり


ま、発病から死まで約4カ月、俗に言う「天ぷらで死んだ」説は
これだけのタイムラグがあることから相当疑わしいものの、
この期間を無駄にせず、あれこれ形見分けしたり細々と指示したという話が残っている。

そして自分の死後の処理についても、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を召して、
指示を出した。すなわち、

 ・遺体は駿河国の久能山に葬ること
 ・葬儀は江戸の増上寺で行うこと
 ・位牌は三河国の大樹寺に納めること
 ・一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂を建てて勧請すること

そして、神に祀られることによって八州の鎮守になろう、とな。

この言いつけは守られ、まずは久能山の東照宮に葬られた。
のちに日光へ改葬されているので、遺骨はすべて日光へ移されたのか、
あるいは久能山と分骨しているのかなど、遺骨の行方は死後400年近く経ってなお
歴史ファンの想像力を掻き立てている。

大樹寺(岡崎市)は、15代将軍のケイキさんを除く
歴代将軍の臨終時の身長を摸したといわれる位牌が安置されてることで
有名ですね。



で、寛永寺。
徳川将軍が数名眠るこの寺が、遺言に出てきません。
そりゃそうです、元和2年、家康の在世中にはまだ寛永寺は存在してなかったんです。
ので、この時点では芝の増上寺(浄土宗)が徳川家の菩提寺でした。

寛永寺(天台宗)の創建は寛永2年(1625)。
開山は南光坊天海。

寛永寺創建プランは家康の存命中から天海の中にあったものの、
諸般の事情により叶わなかったという。
諸般の事情ってなんだろ・・・


天海の夢が実現に向かって大きく動き出したのが、元和8年(1622)。
寺地には現在の上野公園の地が選ばれた。

当時、上野の地には藤堂高虎・津軽信枚・堀直寄の3人の大名の下屋敷があった。

3人の中で最も有名なのはもちろん藤堂高虎でしょうが、
外様でありながら家康の篤い信頼を受けた武将。

津軽信枚(のぶひら)は 「三原編(29)」 で少し書いてますが、
家康の養女・満天姫を正室に迎えており、天海との縁も深いといわれる。

堀直寄は堀直政の子。
堀秀政の外孫にあたるのかな?
元は豊臣系であったものが、関ヶ原では東軍につき、以後は徳川家に臣従する。
のちに直寄は駿府で家康に仕えたという。


この3人から、徳川秀忠はそれぞれに替地を与えた上で上野の地を押さえた。
その他にも郷士の屋敷などがあったが、これまたまとめて収公。
そしてあらためて天海に上野を与えた。

翌元和9年(1623)には御殿山にあった徳川家の別殿と
白銀3万両を天海に贈り、これを基に寛永寺の建立が進められた。

その2年後の寛永2年(1625)、父・秀忠から将軍職を譲り受けた
3代将軍・家光の代になって現在のトーハク(東京国立博物館)の場所に
本坊が建立され、この年をもって寛永寺の創建とされる。
が、当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺だった。



先年の大河ドラマ「江」では「浅井江」という個人に光が当てられたけど、
それ以前にも江姫はドラマなどによく顔を出し、
歴史ファンのみならず時代劇ファンにもそこそこ存在は知られていた。

ほとんどは春日局や家光との絡みで出てくる、アクの強い母ちゃんといった存在で、
「お江与の方」という名の方が通りがよかったかもしれない。

まあ、ご存知の方が多いと思うので細かいことは書きませんが、いわゆる

「夫・秀忠と共に家光の弟・忠長を溺愛し、
忠長有利と見た周辺の諸大名もご機嫌取りに忠長に接近するようになったので、
危機感を持った春日局が駿府の家康に直訴し、
家康のバックアップでようやく家光の相続が世間にお披露目された」

って流れね。

春日局周辺の史料では「家光が自殺を図った」という記述も存在するようだし、
ドラマなどでは話を盛り上げるために大小の脚色なども当然あるんだけど、
程度の差はあれ、家光の地位が危うくなりかけたような状況は確かにあったらしい。

江姫の立場からすれば、自分は生まれた時から実父や養父にも死に別れ、
成長してからも様々な困難を乗り越え、実の姉すらも婚家に滅ぼされるという
過酷な人生を送り続けてきた。

江戸に幕府が開かれ、豊臣家は滅んでも、
まだまだ戦国の気風を色濃く残すこの時期、
病弱でクセのある家光よりは、聡明な弟の忠長に継がせる方が
徳川家の末長い安泰につながると江姫が考えたのは無理もないだろう。

もちろん、実際に江や秀忠が何を考え、
どんなゴタゴタがあったのかはわからないけどね。
ただ、単なる偏愛というよりは、しかるべき考えに基づいた可能性は
充分にあると思うんだよね。

そうした幼少期が家光の心にどんな影を落としたのか、
これまた不明ではあるものの、世間では家光は父・秀忠を嫌っていたと言われる。
嫌っていなかったとしても、祖父・家康と天海への傾倒ぶりは尋常なものではなかった。


そんな家光が寛永寺創建が始まった同じ頃に将軍職を継いだものだから、
寛永寺の建立にも俄然はずみがついた。

家康が江戸に入府した天正18年(1590)以来、
徳川家の祈祷寺は浅草の浅草寺が担っていたが、
寛永寺ができるとその立場は取って替わられた。
のちに浅草寺は寛永寺の傘下に入るが、
松平時代から浄土宗の檀家であった徳川家の菩提寺はいぜん増上寺であり、
秀忠は増上寺へ葬られ、その妻・江も同じく増上寺へ埋葬された。



そして家光の晩年。
本来であれば増上寺で葬儀・埋葬を行うべきところ、なんと

 ・葬儀は寛永寺で行うこと
 ・初七日には上野を発って日光へ移し、そこへ霊廟を建てること

という驚くべき指示を出した。

家光の真意はわからないが、今や日光は
敬愛してやまない祖父・家康と天海が共に眠る場所。
死後もこの2人と共にいたいと願ったのだろうと
寛永寺刊行物・『寛永寺』は語る。

増上寺としては当然面白くないが、ここは我慢した。
それほど、当時の人々にとっても家光の家康・天海に対する
パラノイア的愛情はよく知られたことだったのだろう。

てことで、初代は日光、2代目は増上寺、3代目は日光に墓が分かれたが、
3代目は異例のことであり、次代からふたたび増上寺へ入れば済む話だった。


ところが、前回までで4代・家綱と5代・綱吉の霊廟門を紹介したように、
家光の子供達は続けて寛永寺で葬儀・埋葬を行った。
これにはさすがの増上寺もブチ切れた。

そこで幕府へ猛抗議をしたものの、「将軍の御遺命」をタテに押し切られてしまった。

とは言っても、増上寺の言い分はもっともすぎることなので、
綱吉の跡を継いだ6代・家宣は幕閣と相談して、
以後は寛永寺と増上寺のバランスを取るという形で決着した。
つまりは、ここで正式に寛永寺も徳川家の菩提寺とされたことになる。


こうして家光のワガママに端を発する墓バトルは、

<日光> 
 家康(1)、家光(3)

<芝・増上寺>
 秀忠(2)、家宣(6)、家継(7)、家重(9)、家慶(12)、家茂(14)

<上野・寛永寺>
 家綱(4)、綱吉(5)、吉宗(8)、家治(10)、家斉(11)、家定(13)

と歴代将軍の墓が分かれることで収められた(カッコ内の数字は将軍の順番)。

最後の将軍・ケイキ(慶喜)さんは大正に入ってから亡くなっていて、
当然将軍として死亡した訳ではないので、将軍霊廟は造られていない。
ので、増上寺と寛永寺にちょうど6人ずつ・・・
数が合ってよかったね(笑)。

ただ、実のところは日光は寛永寺と一体といっていい存在だったし、
祈祷寺も兼ねていたので、寛永寺の方が比重が大きい。
まあそれでも、遠く離れた日光のことでもあり、
ひとまず増上寺のメンツは守られたってことなのだろう。



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最終更新日  2014年01月04日 21時01分33秒


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