戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年11月10日
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カテゴリ: 江戸めぐり
寛永寺の寺領は11,790石、寺域は305,000坪、


これだけの大寺院なので、当然格式も高く、
また寺内には独自の組織や子院の役割などもあった。
ここではひとまず霊廟に関するものだけを、『寛永寺』からご紹介しましょう。

寛永寺には「別当」と呼ばれる寺がいくつかあるそうな。
一般的に「別当」とは寺務を統括する長官のような立場を指すらしいが、
寺ごとに呼称が違っているケースも多くあり、
寛永寺には別当寺がごろごろあった。




これは歴代将軍の霊廟を守る寺で、霊廟ごとに別当寺が割り当てられており、
まあ言ってみればひとつの霊廟に専任の墓守寺があったって感じなのかな。

ここまで紹介した寛永寺内の霊廟は、3代・家光、4代・家綱、5代・綱吉。
初代・家康はご存知の通り日光東照宮が霊廟だけど、
寛永寺内にも東照宮があり、これにも別当が付いていた。

綱吉以降は8代・吉宗、10代・家治、11代・家斉、13代・家定が
寛永寺に葬られてはいるが、倹約将軍・吉宗は享保5年(1720)、
「御霊屋建立禁止令」というのを出して個別の霊廟を建設するのを禁止し、
自らも常憲院(綱吉)霊廟に合祀され、以後の将軍もこれにならって
既存の霊廟に合祀の上、宝塔か霊牌所が建立されるというスタイルに変更されたので、
寛永寺内には実質6人の将軍が眠り、あと家康と家光をプラスした

表別当が8寺存在した訳ではないのかもしれない。


表別当はその格式に見合うだけの潤沢なお手当も支給されており、
『寛永寺』で紹介されている承応期(1652~1654)の寺領配当を見ると、

 本坊:1000石
 東照宮料:1335石


と生きてる人の給料より死んでる人のための給料の方が多い。
これについて『寛永寺』では

 【徳川家の祭祀に関わるものであり、基本的には他の一般寺領と同列には扱えない。】

としていて、そりゃそうだよな~とは思うものの、
霊廟の管理のために相当な金をかけてたんだって事ぐらいはわかる。

こんな金食い虫をぼんぼん建てていったら、
そりゃ~幕府も相当な負担で頭が痛くなるだろうな~と素直に思った。

しかしいくら財政立て直しのためといっても、
吉宗の霊廟建設禁止令は相当思い切った決断だったんだな~と思う。
それまでは将軍が薨去すれば、当然のようにあらたな霊廟が建てられてたんだからね。
紀州の4男坊への風当たりも相当強かっただろう。

あ、吉宗って3男坊かと思ってたら、4男なのね。
兄が3人いたことになってるから、1人早世したのかね?

ちなみに、吉宗以前はそれぞれの将軍が霊廟を持っており、
前回書いたような事情で寛永寺と増上寺に分散して霊廟が建てられましたが、
寛永寺は彰義隊の上野戦争で大ダメージを受け、
さらに先の大戦での空襲で寛永寺・増上寺とも多くが焼失したので、
「上野第一編(1)」 ~ 「(3)」 で紹介した家綱と綱吉の霊廟勅額門は
奇跡的に難を逃れた、貴重な建物です。


上野のお山といえば彰義隊のことがどうしても頭をかすめますが、
正直言って私は彰義隊も白虎隊も好きじゃない・・・
悲惨すぎて。
ので、本シリーズで上野戦争について書く気はありません。

そうは言っても、この後歩いてく中では自然と
「ああ、この辺が激戦地だ~」とか思ってしまう訳ですが、
ウィキペディアでの「上野戦争」のページには、
この戦いで焼け野原と化した寛永寺境内の様子を写した写真が掲載されてました。

そちらの写真を見てもらえばわかりますが、
手前の区画には明らかに礎石群が露出しており、堂宇があったことがわかる。

その奥も一面焼け野原で、建物系はこの時点で壊滅的な被害を受けた様子がうかがえる。
その中に点々と、水盤舎らしきものが2つ、あと門がぽつりぽつりと残っていて、
よくこれが残ったな~と思わず大きなため息が出ました。

その上、勅額門は東京大空襲をも乗り越えたまさに奇跡の建物なので、
この門を見るにあたっては、できればそうした歴史も思い浮かべて欲しいし、
大切に後世に伝えたいものです。





寛永寺に葬られた徳川家の方々は、将軍だけじゃない。
前々回、天璋院篤姫の墓の写真をご紹介しましたが、
女性陣も寛永寺に眠っておられます。

といっても、あまり詳しいことはわかりませぬが、
徳川家菩提寺に葬られたのは将軍の正室や将軍の生母が主だと思われます。

だって、側室まで一緒に霊廟なんか作ってたら大変だしね~。
多いところでは、家康:15人、家光:7人、家斉:16人、家慶:7人・・・
何をもって「多い」とするかはビミョ~なところですが

女の扱いはめんどくさいし、1人だけでももてあまし気味の男性諸君が
現代には多いんじゃないかと思いますが、
まあ世子を残すためでもあるし、女性陣とは生活そのものは分かれてたからね。


で、正室はおおむね夫君とともに葬られてるようですが、
中には例外もある。
それについては、おいおいご紹介する機会もあるでしょう。

寛永寺に葬られた将軍の正室にも霊廟が建てられたようで、
それを守る別当もいた。
こちらを「裏別当」と呼ぶ。

また、将軍生母の霊廟を守る別当もあり、「お腹様別当」と呼ばれた。

裏別当とお腹様別当は表別当に次ぐ格式とお手当が与えられており、
『寛永寺』で紹介されてる中では、家綱夫人の別当・春性院や
家綱生母の別当・宝樹院がともに別当料として500石をあてがわれたようで、
経費から霊廟の規模や格式もなんとなく想像がつく。
んで、

 【なお、当然のことながら、以上の表、裏、お腹様の各別当は、江戸城中でも
  特別の格式をもつ寺として別格の待遇をうけたのである。】
  (寛永寺刊行物・『寛永寺』より)

だそうな。

後でまた書きますが、寛永寺そのものも非常に格の高いお寺ではあったんだけどね。
けど、ただの子院という扱いじゃなく、この3者は徳川家の別当寺として
また別口の待遇を受けてたってことになるのかな。



別当にはもう一種類あります。
こちらは特別な呼称はないようだけど、山内にある主要な堂宇を管理する寺で、
創立者・天海を祀る開山堂、山王社、釈迦堂、清水堂などに
それぞれ別当が付いていたそうな。

格式・知行などの点では前の3者にははるかに及ばないとされるが、
別当としてのお手当の他に固有の財源を持っていたから、
他の平坊と呼ばれる一般子院よりは恵まれていた存在だったとある。



さて、一旦ここで現代に戻ろうと思いますが、
上野編を書くにあたっては、第一編のリベンジ編・上野第二編で買った
寛永寺発行の『寛永寺』を主なベースとしています。

優秀なナビゲーターがあれば勉強になることも多いし、
つたない知識で歴バナを書こうって気にもなるものです
過去のシリーズでもそうでした。

で、この『寛永寺』、よくありがちな普通の冊子かと思ったら、
寛永寺の重すぎる歴史や創立者である天海、はては天台宗のことにまで
実に簡潔に、けどポイントを押さえて解説してくれている
相当ためになる冊子です。

だいたい、いかに聖職者といえど、「おらが寺、おらが開祖」の話になれば
結構鼻につく表現てのは往々にして見られるものだけど、
『寛永寺』に関しては割にクールで公平な書き方がされてるものじゃないかと思うので、
そういった面でも好感が持てます。

ただ、紙面が限られている分、断片的な表現に留めている部分もあり、
興味を持った箇所については自分で調べて補っている訳ですが、
それでも概略を知るにはこの類の冊子にしては十分すぎるほどだと思いますし、
私が紹介するのもごく一部ですので、これから寛永寺に行かれる方で
寛永寺のことを知りたい方にはおススメの冊子です。

私が買ったのは輪王寺(日光じゃありまへん。寛永寺内のです)ですが、
たしか清水観音堂にも売ってたと思いますので、ご参考まで。


あ、それで、『寛永寺』は表紙に寛永寺の古絵図がプリントされてるんだけど、
いつの頃の絵図かは書いてないものの、諸堂宇がほぼ建立されて以後で、
なおかつ享保5年(1720)以前のものだと思われます。
家光の霊廟、「大猷院殿 御霊屋」が描かれてるからね。

私が鶯谷駅を出てからここまで長い塀に沿って歩いてきた、その塀の向こうは、
現在では一般にも開放されてる霊園だけど、
この絵図では霊園の大部分は木しか描かれてない・・・
ただ、「大猷院殿 御霊屋」と区分けがされてないから、
家光の霊廟の奥に控える森を一部つぶして霊園経営にあてたのかもしれないな。
(つぶしたと言っても、家光霊廟は享保5年にとっくに焼失してますが)

綱吉の勅額門のあるあたりには子院が2つばかり描かれている。
ただ、長い歴史の中には色々子院の変遷などもあったみたいだけど。

で、綱吉の勅額門のある付近には、ちょっと気になるものが描かれている↓。


寛永寺古図・化野付近-2



真ん中にある「日光 御門跡」とある区画が本坊で、
現在のトーハク(東京国立博物館)の敷地がほぼこれにあたる。
なんで上野なのに「日光」とあるのかは、もう少しお待ちください。

その隣のピンクで囲った部分は字がかすれて読みにくいけど、
「化野」と書いてある・・・・・・

たぶんここは、現在の上野中の場所あたりじゃないかと思うんだけどね。
(周辺地図のリンクは こちら )

「化野」の字ヅラを見れば、ほとんどの人が京都の「化野(あだしの)念仏寺」を
思い浮かべるんじゃないかと思います・・・が・・・、
私、あそこ大ッ嫌いなんだよね~。
恐山よりよっぽど怖いわ

京都の化野はもともと風葬の地で、たしか京では「野」ってのが
墓場・・・というか、遺体を野ざらしにしてた場所を指してたと思ったけど、
なんで寛永寺内にこんな名の場所があるんだろう。

「あだし」っていう言葉は、「はかない」とか「変わりやすい」って
意味らしいんだけど(=徒し)、どうも寛永寺内の「化野」も
葬送と無縁の場所とも思えないんだよなあ・・・
絵図では、高い塀に囲まれた小さな区画になっている・・・

こんな場所に遺体を野ざらしにする訳もなし、
であれば、例えば荼毘専用スペースだったとか?
にしても、本坊のすぐ脇だしなあ・・・
こんな所にそんな場を設けるかなあ・・・
寛永寺教化部に問い合わせたら、教えてもらえるかなあ・・・



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最終更新日  2014年01月04日 21時01分05秒


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