戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年11月11日
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カテゴリ: 江戸めぐり
綱吉の霊廟勅額門のある駐車場を一旦出て、
こちら )

ここまでの長い塀にはいくつか小さな門もあって、
そこには「関係者以外立ち入り禁止」と書かれてたけど、
こちらの大きな門は今日は卒塔婆を抱えた人達で賑わっている。

巣鴨の蓮華寺がお盆の特別体制 を敷いていたように、
寛永寺でも特設テントが張られて墓参りに来た人達の受付をしてた。
ので、入口はオープンに開かれてました。


とも思ったけど、一般公開されてないものを無理に見ようとは思わないので、
墓地とは別の、奥の方へ向かう。

現在の本堂と思われる建物の脇の小道へ進むと、
まだ真新しいピッカピカの塀が迎えてくれた↓。


上野・寛永寺霊園14


ところがこの塀、見るからに新しいくせに軒丸瓦は


上野・寛永寺霊園13


いやん、蓮華文じゃない

は~、1コでいいから、蓮華文の軒丸瓦欲しいな~。


塀に沿って歩いていくと、奥に立派なお堂が見えます。
こちらが根本中堂で~す。


上野・寛永寺・根本中堂





上野・寛永寺・根本中堂2


大棟には、金の葵が光ってます。
瓦の並びも、実に美しい。


上野・寛永寺・根本中堂5



上野・寛永寺・根本中堂4




玄武のようでした↓。


上野・寛永寺・根本中堂3



留蓋に四神を持ってくるケースは、あんまりないんじゃないか?
よくあるのは狛犬だけど、あれって白虎って訳じゃないよな。
トラと狛犬じゃ違うしな・・・
それにしても妙にリアルで、なんか迫力ある。


正面へ回るには、渡り廊下をくぐる(実際は、くぐらなくても行かれます)。
くぐった反対側には


上野・寛永寺・根本中堂9


なんじゃ、こりゃ!?
わざわざこの低い廊下の下をくぐりに来るお茶目なカラスがいるってことか?
ここはきっと、近所のカラスにとってのゲームスポットなんだな・・・


その先は


上野・寛永寺・根本中堂8


上野・寛永寺・根本中堂7


上野・寛永寺・根本中堂11


上野・寛永寺・根本中堂12


上野・寛永寺・根本中堂14


ところどころ穴が開いてるのは虫食い?
ちょうど目玉のところに1コだけ綺麗に穴が開いてるから、
お誂え向きに下を向いてるように見える(笑)。



上野・寛永寺・根本中堂16


↑総素木の立派ないかにも私好みの建物・・・
が、霊廟勅額門を2つ見た後だと、さすがに地味感は否めない(笑)。


この辺まで進んだところで、振り返って
さっきの玄武が綺麗に撮れないものかと再びチャレンジしたけど、
全体を撮るには奥側の方がよかったみたい。
ただ、さっきとは違う感じで撮れた↓。


上野・寛永寺・根本中堂18


キバが鋭い・・・
口の下についてるのは、顎ヒゲか?
すんごい魔除けの効果ありそう・・・



上野・寛永寺・根本中堂19



渡り廊下のあるのは真裏だったようで、ここでやっと側面。
写真を撮りつつ、ゆるゆる正面へ回り込んでいきます。



上野・寛永寺・根本中堂20


↑こちらが側面。
妻があるから、この建物は平入りってことだな。
しかし、ちょっとあの妻・・・


上野・寛永寺・根本中堂21



あれ、どう見ても窓だよな。
ズームして見てみると、奥には網戸らしきものがあるし、
その手前にも鳥よけなのか針金みたいのが数条渡してある。

あれは昔からあーゆー造りだったのかな~。
格式のある寺院で、妻に窓ってアリ?
謎だあ・・・

デカい懸魚についてる丸い金の模様は、もちろん葵です。

妻壁にも結構奥行があるのが遠目にもわかるけど、
やっぱり素木だと傷みも早そうだな。
そろそろ修築時期が近付いてる気がするけど・・・


で、ここで建物に近づいていつものように軒丸瓦を撮ろうとした訳ですが・・・


上野・寛永寺・根本中堂23



おお、寛永寺のフルネーム入りだあ~!

寛永寺の根本中堂な訳ですから、このロゴは一見何の不思議もないのですが、
実はこの建物は元からここにあった建物ではありません。

寛永寺オリジナルの根本中堂は、これも上野戦争で焼け落ち、
よそから移築されてきたのが現在の根本中堂にあたります。
なので、軒丸瓦が「寛永寺」となってるってことは、
近代に入ってから屋根が葺き替えられたってことでしょう。


それより、私の目を引いたのは軒平瓦の方。
「寛永寺」と「寛永寺」の間をつないでる、逆三角形の瓦のことね。
これ、滴水瓦(てきすいかわら)だよな~。
珍しい


滴水瓦ってのは、その名の通り水がしたたるような形をした瓦です、
てな感じに紹介されることが多いと思うけど、大陸生まれの瓦で、
日本では一般的に文禄・慶長の役で朝鮮の陶工を連れ帰ったことから
急速に普及したといわれる。


滴水瓦は支那式唐草瓦(しなしきからくさがわら)、高麗瓦(こうらいがわら)、
朝鮮瓦とも呼ばれ、14世紀頃に普及したという。

実はその時期の滴水瓦が国内でも見つかっており、
ひろよん(大内弘世)の墓のある山口・ 乗福寺 でも発掘され、
国内最古級の滴水瓦だとされている。

つまり、乗福寺訪問の際に私は滴水瓦の存在を知った訳です。ふふふ。

文禄・慶長の役以降に造られた滴水瓦は、たとえば姫路城なんかにも
使われてるらしいけど、乗福寺で見つかった滴水瓦には、
朝鮮半島では王宮のみに使われた龍の文様もあり、
安土桃山時代に流行したものとは格が違うんですよ~、ヘッヘッヘ

ま、そんな訳で滴水瓦にはちょっとした思い入れがあるので、
ここでお目にかかるとは思わなかったし、
現在の乗福寺は桟瓦葺で滴水瓦が使われてる訳じゃないので、
現物を見るのはこれが初めてじゃないかな。
なので、ある種の感動に包まれながらしばしこの滴水瓦を眺めておりました。


江戸の旅行記でまで大内氏の話が出るなんて、

「どんだけ好きなんだ!」

って呆れる方も多いでしょうが、いつだって私の中には
マグマのように大内氏への愛がみなぎっておりますので、
当然のことであります。


この付近には、すごく古そうな灯籠もあります↓。


上野・寛永寺・根本中堂27


 【奉献 石燈籠両基  武州 東叡山 
  大猷院殿 尊前  慶安4年辛卯歳 十二月廿日
  従五位下南部山城守源重直】


かなり磨耗してるし、一部欠損してる箇所もあるけど、
たぶんこれで正しいと思います。

この方は陸奥盛岡藩の2代目藩主で、
蒲生氏郷の娘を母に持ち、加藤嘉明の娘を妻に持つんだそうな。
姻戚関係がややこしいな・・・

「両基」とあるからやっぱりペアでの奉納らしいのに、
ここにあるのは1基のみ。
相棒はどうしたんだ?

それに、この日付ね・・・

家光の死亡日は慶安4年(1651)4月20日。
翌承応元年(1652)2月16日に日光大猷院が起工され、
承応2年(1653)4月4日に完成、というスケジュールは
日光写真館を含め3回目ぐらいの紹介になりますが
1年目の日光写真館では灯籠の紹介は断念したものの、
まばらに写真は撮ってました。

あらためて日光大猷院の灯籠の銘を見てみると、
本多忠義奉納と思われる灯籠の日付は承応2年4月20日・・・

つまり、本多忠義のはちゃんと日光大猷院の完成にあわせて造られたもので、
他の灯籠も同じ日。
たぶん、日光の大猷院廟へ捧げた灯籠はすべて同じ日付なんだろう。

ところが、寛永寺のこの灯籠の日付、慶安4年12月20日は
まだ日光は着工すらしてない。
てことは、この灯籠は家光の上野霊廟へ奉献されたものってことだよな。


しかしだね、日光の大猷院には315もの灯籠があるってんだから、
承応年間にどんだけの大名がいたかは知らないけど、
おそらくみんな日光へ奉納してるんだろうな。

その2年前にできたと思われる上野霊廟へも多くの灯籠が奉納されたんだろうから、
贈る側からすれば結構な出費だよね。

「霊廟はひとつにしてよね!」

ってボヤいた大名は、1人や2人ではないだろう・・・


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最終更新日  2014年01月04日 21時00分35秒


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