戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月05日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
こちらがエリア6、水舎門手前にある3基↓。


上野3・東照宮・門前3基



上野3・東照宮・久松松平定房?



 【東照大権現宮
  慶安四辛卯年四月十七日 源定房】

こちらは石材の摩滅がちょっとひどいので、
読める文字しか拾ってませんが名前ははっきり読める。
・・・が、ホントに「源定房」しかない
これはたぶん久松松平定房で、この時は伊予今治藩主なのかな。


於大の実の兄が松平氏の主君・今川氏から織田氏に乗り替えたため実家に戻される。
それから久松氏に嫁いで子を産んだ。
これが定房の父・定勝。
定勝系の子孫に、NHKの松平定知がいる。

今川から独立した後、家康は母・於大とその子たちを迎えて松平姓と葵の紋を与えた。
それが久松松平氏。
つまり、家康にとっては定房は父の違う弟の子ということになる。
灯籠の笠にも葵があしらわれている。


その隣にあるのがこちら↓。


上野3・東照宮・水野出羽守源朝臣忠職


 【奉献 名燈籠式●

  慶安四辛卯稔四月十七日
  水野出羽守源朝臣忠職】 

あれ?水野忠職のがこんなとこに・・・
この片割れはエリア1で紹介しました(記事は こちら )


これは両脇の2基がとりわけ小さいんだと思う・・・
水舎門の外にある灯籠たちは、デザインから大きさから宛名からてんでバラバラ。
まあ、個性的と言うべきか・・・


最後がこちら↓


上野3・東照宮・門前判別不能


これは磨耗というより肝心の名前の部分が半分欠損していて
もうどうしようもない。
葵の紋が使われてるのと、サイズから松平定房の片割れかとも思ったけど、
胴の造りが違うし、銘が全然違う。
てことで、こちらはお手上げで~す。



さて、これでやっと中へ進めます

参道の敷石は四半敷↓。
が、一部揃ってない箇所もある。
ホントにこれ、昔のままかな~。
たぶん、当初はもっと綺麗な石組みだったんじゃないだろうか。


上野3・東照宮・参道



エリア2と7は通過しま~す。

「新春はケージョーから(11)」 でぼたん苑から見た五重塔の写真を載せてますが、
この参道からはもっと間近に五重塔が見えます↓。


上野3・東照宮・参道から五重塔


ちょっと木がジャマだけどね。
五重塔もかつての寛永寺の一部ですが、現在では東照宮の敷地内にはありません。
したがって、ここからじかに五重塔に近寄ることはできません。

参道の途中には門があり、社殿もぐっと近くなります。
この辺がぼたん苑の入口だったかな。


上野・上野東照宮56



ここを入ると、まず右手に現れるのが神楽殿↓。


上野・上野東照宮57


上野東照宮のホームページによると、
明治7年(1874)、深川木場組合の奉献によるもので
屋根の勾配の美しさは都下随一といわれています、とある。

花見の時期にはここでお神楽が催されるらしいんだけど、
ちょっと観てみたい・・・
でも、桜の時期の上野なんて人がめちゃくちゃ多いしな~。

私は寛永寺に来るまでこんなとこに東照宮があるのを知らなかったんだけど、
結構ガイジンもやって来る。
日光ほどの規模はなくても、都心で手軽にプチ日光が楽しめるなら、
観光客には魅力だもんね。

あ、あの扉に付いてる鍵、金太郎のマサカリみたいで面白い↓。


上野・上野東照宮59



その向かいにあるのが、手水舎↓。
石と木のミックスになってる。


上野・上野東照宮63


上野・上野東照宮62



上野・上野東照宮64



上野・上野東照宮65



上野・上野東照宮69


千社札、剥がしてえ

いやいや、ここの水盤、男伊達として有名な新門辰五郎の奉納らしいッス。
いちおう銘も見たはずだけど、ほとんど辰五郎のことは知らなかったし、
それより他に目を奪われてました、わたくし。


上野・上野東照宮67



水盤にはふたがかぶせられていて、上に何か書いたものが置いてある。
一体何かと思ったら


上野・上野東照宮66



アハハハ!!
11月に再訪した時は、この覆いは除かれてました。
つまり、暑いから夏だけ水浴びしに来てたんだな。
うちの庭には、冬でもチュンチュンちゃんが水浴びしに来るけどね。


さて、ジグザグで恐縮ですが、この辺のお向かいにはこんなものがあります↓。


上野・上野東照宮71



ちょっと長いですが、こういうものがあるってことで
解説板から全文を紹介しましょう。


 【「広島・長崎の火」の由来

  1945年8月6日・9日、広島・長崎に人類最初の原子爆弾が米軍によって投下され、
  一瞬にして十数万人の尊い生命が奪われました。そして今も多くの被爆者が
  苦しんでいます。

  広島の惨禍を生き抜いた福岡県星野村の山本達雄さんは、叔父の家の廃墟に
  燃えていた原爆の火を故郷に持ち帰り、はじめは形見の火、恨みの火として
  密かに灯し続けました。しかし、長い年月の中で、核兵器をなくし、平和を願う
  火として灯すようになりました。1963年8月 6日、星野村はこの
  「広島の火」を「平和の火」として、村人の協力によって今日も灯し続けています。

  核兵器の使用は、人類の生存とすべての文明を破壊します。
  核兵器を廃絶することは、全人類の死活にかかわる緊急のものとなっています。
  第二のヒロシマを
  第二のナガサキを
  地球上のいずれの地にも出現させてはなりません。

  これは「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」(1885年2月)の一節です。

  1988年3,000万人のこのアピール署名と共に「広島の火」は長崎の
  原爆瓦からとった火と合わされて、ニューヨークの第3回国連軍縮特別総会に
  届けられました。

  同年4月、「下町人間のつどい」の人々は、この火を首都東京上野東照宮
  境内に灯し続けることを提唱しました。上野東照宮嵯峨敞全宮司は、この提案に
  心から賛同され、モニュメントの設置と火の維持管理に協力することを約束されました。  

  広範な人々のよびかけによって、翌1989年4月、「上野東照宮境内に<広島・
  長崎の火>を灯す会”が結成されました。それから1年余、数万人が参加した
  草の根運動と募金により、1990年7月21日、モニュメントが完成しました。

  被爆45周年を迎えた8月6日に星野村の「広島の火」が、8月9日に長崎の
  原爆瓦から採火した「長崎の火」が、このモニュメントに点火されました。

  私たちは、この火を灯す運動が、国境を越えて今緊急にもとめられている核兵器廃絶、
  平和の世論を強める全世界の人々の運動の発展に貢献することを確信し、
  誓いの火を灯し続けます。

  1990年8月 上野東照宮に「広島・長崎の火」を灯す会】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 


このモニュメントの先にあるのがエリア8の灯籠群↓。


上野・上野東照宮72



上野3・エリア8灯篭群



ここはこれまでと違って銅灯籠だし、ご覧の通り林立してるので
実に壮観です。
が、これをいちいち撮るとなると、灯籠の間隔も狭いし数も多いので
まだ数基しか撮ってません。



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最終更新日  2014年07月30日 20時46分26秒


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