戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月05日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
お~し、歴バナも(たぶん)もうちょっとだぞ。
がんばろ

柏の通り魔事件は世間をお騒がせしまして、皆様にもご心配いただきましたが、
もう逮捕も間近でしょう。
えらいぞ、県警。頑張ったね、市警。
亡くなった方には心からお悔やみ申し上げます。



さて、ここまで東照宮全般の流れについて見ていきましたが、
ここからようやく(笑)上野東照宮関連の話になります。
まずは境内の解説から。



  家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。
  あるいは寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。
  もとは東照社と称していたが、正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後
  家康を祀る神社を東照宮と呼ぶようになった。

  現在の社殿は、慶安4年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、
  数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、
  幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。

  社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。 唐門、
  透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の
  石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠48基と合わせて国の重要文化財に
  指定されている。】



寒松院 のところでは与右衛門(高虎)について書くのを先送りにしましたが、
ここ上野東照宮でまとめて書こうと思ったんです。
ので、上野東照宮の話に入る前に、少し与右衛門のことを書きたいと思います。



近江に生まれた与右衛門はのちに築城の名手として名を上げますが、
ごく若い頃についてはあまり詳しくわかってないみたいね。


築城の名手の他に彼が有名なのが、主君をとっかえひっかえしたこと。
ゆえに「節操のない奴」みたいに言われることも多いけど、
それは後世の朱子学的観点に基づく偏見であって、
与右衛門がバリバリに活躍した時代は別に恥ずかしいことでも何でもなかった。
それに、多くが死別だし。

現に、秀吉の弟の秀長様と死別するとその養子・秀保に仕え、
それもまた死に別れると出家して高野山におこもりしている。

身長約190センチと当時にしては目を見張るほどの大男で、
ウィキペディアには

 【高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も
  短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で
  高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている。】

とある。

主君運はイマイチだったと言わざるを得ないけど、与右衛門自身はその時々で
一生懸命身体を張って主君に仕え、文字通り身一つでのし上がった
典型的な戦国武将とも言えるだろう。

かんべ~を主役にするよりは、よっぽど与右衛門を大河の主役にする方が
ドキドキワクワクのドラマが出来上がるような気がするんだけどね、私は。
どうも、特にその前半生においては世間ウケがイマイチなんだよなあ・・・
かわいそうに


世間にもまれ苦労も多かった彼の人柄を示すエピソードとして
ウィキペディアにはこんな話が載っている。


  「と、殿・・・
   そ、その・・・それがし、お暇を頂きたく・・・」


 「うん、そうか。
   じゃ、明日の朝茶を振舞ってやるから来なさい」


   翌朝。

 「ホレ、ワシの刀も持っていくがいい。
   とらば~ゆがうまくいかなかったら、
   いつでも戻ってきていいんだぞ」


 「と、殿ぉ・・・(涙)」

   後日。

  「殿、お久しゅうございます。
   そ、その・・・
   実は新しい勤め先でうまくいかず・・・」


  「そうか、お前も苦労したな。
   元の領地に戻してやるから、安心するがいい」


  「ちょっと、殿!
   甘すぎやしませんか?
   なんでそんな・・・」


 「給料を与えるだけじゃ、それが当然と思ってるから
   家臣は心服しない。
   人には情けをかけてやらなきゃ。
   そうして初めて意気に感じて、命を捨ててまでも恩に報いようと
   するものなんだよ。
   情けがなくて金だけを与えてるうちは、
   金を無駄に捨てているようなもんさ。フッ」



とな。


秀吉の死が間近に迫った頃、与右衛門は家康に急接近したといわれる。
この辺りの変わり身の早さも世間にあまり好かれない一因だと思うけど、
それ以前から家康との親交があったらしい。

『江戸時代初期の朝幕周旋について』(安藤良平)によると、

 【高虎が家康と親しくなった事情は、伝えによると家康が秀吉に臣下の礼を
  とった天正14年、高虎は主命によって聚楽第の一隅に家康の居館造営に
  あたり、その間高虎の人柄、その働きが家康に気に入られたという】

だそうな。

これ以降、2人の間では書簡のやり取りなどがあり、
与右衛門が海外遠征した折には家康から慰問の手紙が届けられ、
与右衛門は海外みやげに「崑崙奴2人、机、さすか(剃刀)、はいとり」を
家康に送ったとある。


思い切りよく徳川家中に身を投じてからは、彼なりの忠誠を尽くし、
関ヶ原では武功もさることながら調略にもその才能を発揮し、東軍の勝利に貢献。
これ以降、徳川の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂とされる。
浅井長政の足軽からスタートした身代は、今治20万石を与えられるまでになった。

慶長9年(1604)、伏見城石垣普請。
慶長10年(1605)、夫人と子を江戸に出す。
慶長11年~12年は江戸城修築に関わり、
慶長13年(1608)、22万石の伊勢安濃津城主に昇進。


ウィキペディアによると、転職回数のずば抜けて多い与右衛門は
徳川家中にもあまりウケがよくなかったらしいが、
地道な奉公が認められて次第に深い信頼を寄せられるようになった。
その一例を、『江戸時代初期の朝幕周旋について』からご紹介しましょう。



2代目将軍・秀忠といえば、関ヶ原での遅参をはじめ
大きな合戦てゆーと大軍を任されたがゆえに行軍で色々苦労し、
「影が薄い上に頼りない2代目」という目で見られがち

大坂の陣でも冬・夏ともにちょっと鼻で笑っちゃうようなエピソードをお持ちの
楽しい将軍様ですが、ここでは冬の陣の話になります。


慶長19年(1614)7月26日、家康は方広寺大仏殿棟札および梵鐘の銘文の
内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。

10月2日、豊臣方が戦闘準備に入る。
10月11日、家康が駿府を出立。
10月23日、家康が伏見城に入る。同日、秀忠も江戸を出立。

この戦いでは秀忠が総大将として臨みたいと言ったのに、
家康はそれをシカトしてさっさと伏見城に入った。

スケジュールだけを見ると、オヤジが伏見城に入った日に江戸を出立するなんて
遅いもいいとこだと言いたいところだけど、6万もの大軍を率いるとなれば
致し方のない面もあるだろう。
ようやく準備が整って出発しても、大軍ゆえに素早く伏見城に駆けつけることも
難しかった。


「おっそ!!
秀忠、遅いよ~!!
もうワシだけで攻撃始めちゃうよ~!」


気の短い年寄りからの催促の書状がどんどこ秀忠の元に届き、
焦りまくりの秀忠が10月28日に与右衛門に出した書状がある。


「とにかくお願い!
ワシも(本多)正信も急いでそっちに向かってるから、
ワシらが到着するまでお願いだから待っててくれるように、
大御所様に頼んで!
もうアンタだけが頼りなんだよ~!!

今日は掛川で書状を見て、すぐにでも飛んで行きたいのは
ヤマヤマなんだけど、何しろこの大軍でしょ~。

なっかなか進まないからワシもホントに迷惑なんだけど、
とにかく急いではいるから。
あと2、3日でそっちに着くと思うから、
それまで城攻めは待ってくれるように、
とにかく大御所様にお願いしてよ!

頼りにしてるよ、与右衛門!
とにかく、絶対待っててよ!
頼んだよ!!」



・・・大筋だけを拾って、ニュアンス優先で現代語訳すると
こんな感じになります。
ほとんど半泣きで書いたんじゃないか、コレ?って感じの
悲痛さが漂う書状です


 【その効果は明らかではないが、11月10日秀忠は伏見に着到し、15日には
  父子共に、大阪に出陣した。また高虎あての、この書状は次のようなことを
  物語っている。

  一つは高虎がもはや普通の外様大名として、将軍からあつかわれていないこと、
  二つにかれが家康に説得して作戦日時を変更できる参謀の地位にいること、
  三つには大御所家康と将軍秀忠という最高指揮官の面目をつぶさずに斡旋する  
  能力を認められていること、などであり、かれの力量は平時における朝幕の
  周旋、戦時の関ヶ原合戦などのすぐれた調略などでよく知られ、これが
  秀忠をして高虎に書状を認めた理由であろう。】
  (『江戸時代初期の朝幕周旋について』より)


安藤氏のこの分析を読んだ時、「う~ん、なるほど~」と
思わずうなったね。

関ヶ原で赤座直保やら朽木元綱やらを調略したこと、
その後は朝廷との交渉にも一役買ったことあたりは
戦国ファンにもそこそこ知られていると思うけど、
家康と秀忠の双方から深い信頼を寄せられてたことまでは
一般にはあまり知られていないんじゃないだろうか。

秀忠の書状を読み返してみてください。
多少オーバーに書いてはいるものの、原文にも「其方を頼入候」、
「是非とも其方を頼入候也」と繰り返しあるし、
それこそ恥も外聞もなく与右衛門に頼み込んでいる。

秀忠が「たかが外様」と思っていたらここまでしないだろうし、
役に立たない奴にどれだけお願いしたって何の意味もない。
大坂の陣の時点で、与右衛門はこれだけの立場をゲットしていた。

他の武将の話なども読んでると、やっぱり名将と言われ歴史に名を残す方々は
そろって人を見る目があるな、と思う。
どんなに世渡りが上手でゴマスリが得意でも、
そういう鋭い眼を持つ人のことはごまかせない。

与右衛門自身に才覚があり、かつ忠勤に励んだからこそ
あの家康の信頼をモノにすることができたというのは疑いのないところだと
私は思う。

彼の話はもう少し続きます。


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最終更新日  2014年07月27日 22時03分08秒


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