戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月07日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
江戸期に関しては、たとえば戦国でも目下わたくしのターゲットになっている

本シリーズではわたくしが読んだ中から先人の研究結果を多く参考・引用
させて頂いております。

で、前回からは安藤良平氏の『江戸時代初期の朝幕周旋について』を中心に
話を進めておりますが、実はこの論文は少し前の記事でも参考にさせて頂きました。

この論文のサブタイトルは「藤堂高虎と南光坊天海」。
朝幕間の交渉にはもちろん色んな人が関わってはいるのだけど、
安藤氏がこの両者を取り上げたのは、2人が周旋役として適任であったこと、

公武の円満な関係樹立に誠心つとめた様子がみえるから】だとしておられる。

で、天海の活躍については 「上野第二編(52)」 で後陽成天皇から後水尾天皇に
代替わりするところまで紹介しました。
今回はその続き、後水尾天皇と与右衛門の話になります。



与右衛門と朝廷の関係と言えば、ほとんどの方が秀忠の娘・松姫(徳川和子)の
入内の話を思い浮かべるでしょう。

松姫は秀忠とお江の間に生まれた、7番目の子。
いやあ、ホントお江は産みまくったよな~・・・じゃなくて(笑)。

松姫の入内に関して世間で広く言われる話は、
ひと悶着あって入内はなかなか進まず、与右衛門が後水尾天皇を恫喝して話を進め、

しきたりになっていたものを、行列の先頭にいた与右衛門が刀に手をかけて
慣例を無視してそのままスルー。
与右衛門の機転のおかげで徳川のメンツは保たれ、後から話を聞いたお江も
喜んだとかなんとか・・・

要するに、この中ではゴリゴリの幕府方として強引に話を進めた


もちろん、過酷な戦国時代を己の才覚ひとつでのし上がっていたんだから、
そういう面も確かに持ち合わせていたでしょう。

けど、家康が江戸に幕府を開いてから朝廷との関係はギクシャクしていったし、
ただ力押しで松姫を送り込んで成功したからって、それで終わりじゃない。
松姫はその後はそこで暮らしていかなきゃならないんだし、
後水尾天皇の子を産んで徳川家を天皇家の外戚にする使命もある。

そのくらいの事は与右衛門も当然わかっていたはずだし、
強引に押してくだけじゃ調略上手の名折れじゃないか?
ホントに通説のような事があったんだろうか?

てことで、若干の補足を加えながら、朝廷の状況と
安藤氏の語る与右衛門像を見ていきましょう。



慶長16年(1611)、後水尾天皇が即位。
即位の経緯については上記リンク先で紹介してますが、
家康の介入がなかったらこの方は天皇になるはずじゃなかった。
家康のおかげで天皇になれたんだから幕府に感謝するかとゆーと、
そういう訳でもなかったらしい。

家康の方では天皇家の外戚目指して、孫の松姫の入内を申し入れ、
慶長19年(1614)に入内宣旨が下りる。
松姫、この時6歳。後水尾天皇は18歳。

慶長19年(1614)~慶長20年(1615)、大坂の陣。
元和2年(1616)、家康死去。
元和3年(1617)、後陽成院崩御。


余談ですが、ウィキペディアによると

 【後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして退位に追い込まれた
  陽成天皇の「陽成」の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇の異称
  「水尾」の加後号を名乗るという意志を持っていたことになる。
  このような父子逆転の加後号は他に例がない。】

だそうで、後水尾天皇はオヤジほどかんしゃく持ちではなかったかもしれないけど、
やっぱ血のつながった親子だな~と思ったりした
そしてこの性格が、オヤジに引き続き幕府との関係に影を落とすことにもなる。


で、入内は決まったものの、大きな戦や葬式続きで嫁入りはのびのびになり、
正式決定ではないものの、元和4~5年頃の漠然とした予定になっていたらしい。


その一方で、幕府による朝廷への介入も徐々に進んでいった。
まずは慶長14年(1609)の猪熊事件。
これは朝廷からの要請を受けて幕府が乗り出したものだけど、
この事件を背景に慶長18年(1613)には「公家衆法度」が発布される。

風紀の乱れを正す目的もあり、その内容は一言で言うと
「公家たる者、清く正しく美しく生きよ」みたいな~(笑)。
ついでに、朝臣を処断する権限は朝廷から幕府へとスライドした。

それと同時に「勅許紫衣法度」が出される。
紫衣は高徳の僧に許される紫の袈裟で、僧侶のステータスシンボル。
紫衣の勅許は天皇の裁量で好きにできたものが、これ以降は幕府に申請して
選考に合格した者が紫衣を許されることになった。

そしてトドメの元和元年(1615)、「禁中并公家諸法度」。
この10日前には「武家諸法度」が公布されており、世間にはそちらの方が有名で
禁中并公家諸法度は陰に隠れちゃってるけど、ここでは公家のみならず
天皇の行い・心得にまで踏み込んでいる。
公家方の心中、推して知るべし。



さて元和4年4月、小堀遠州らが造営奉行となり女御御殿の造営が開始される。
同じ4月の17日には紅葉山に東照社が勧請され、【京都より皇弟近衛信尋はじめ
重だった公家衆が多数下向し、この時点では朝幕の間はかなり和気に満ちた
雰囲気であった】(『徳川和子の入内と藤堂高虎』/久保文武)。

ところがその後、事件は起こった。

後水尾天皇の典侍が天皇の子を産んだのだ。
典侍の名は四辻与津子(よつつじ・よつこ)・・・よつよつ。
鷹司孝子 のたかたかといい、何でこんな名前付けるんだろう(笑)。

じゃなくて、与津子(お与津御寮人)の名から「お与津御寮人事件」、
または「万里小路事件」とも呼ばれる。


与津子が最初の子(男子)を産んだ時期ははっきりしていないらしいが、
久保氏は次子(女子)の誕生時期から元和4年の6月頃と推定しておられる。

これを知った秀忠&お江の夫妻は激怒したと一般に言われる。
その理由は秀忠はとにかく真面目一本槍だし、お江は嫉妬深い女だからというもの。
お江の嫉妬深さについては私は懐疑的だけど( 「上野第二編(41)」 参照)、
その後の流れを見ると秀忠が気分を害したことは確からしい。

まあ、当時は大名も程度の差はあってもそれなりに側室は抱えていたし、
天皇が女御たちに沢山子を産ませるのは別に当たり前の事だろうとも思うんだけど、
さすがにこの時はタイミングがまずかった。

後水尾天皇は生涯で36人もの子を作る。
そういう人がまだ若いムンムンの時期に与津子に手を出すのも
無理のない話だとは思うけど、前々から徳川家との婚儀の話は整っていた。
しかも、時期が確定していないとはいえ、もう入内も間近だろって時に
なぜ他の女に手を出すかな~。

武家からの入内は、なんと平清盛の娘(徳子)以来だという。
徳川家からすれば、面目丸つぶれ・・・
そして、ここから問題は深刻化する。


『徳川和子の入内と藤堂高虎』によると、この年9月には
元和5年の入内は延期されるという噂が流れたそうな。
ただ、幕府はすぐに事を荒立てるようなことはしなかった。

幕府からの使者は近衛信尋の元に送られていたそうだけど、
11月3日には与右衛門が上洛した。

まずは信尋に会って、その夜饗応。
翌日は舟遊び、唐網打、酒、謡、茶会などして数日滞在した後、
贈り物などをしておしまい。

その後は奈良にいたらしく、そこでも公卿衆と会ってはいるけど
茶会、能などなど。

入内に関する何かの交渉をした雰囲気はなさそうなんだけど、
実は入内が難航した件については『徳川実紀』などには記されていないらしく、
また与右衛門も自分の手柄を得々と語るような人物ではなかったので、
交渉(特に大詰めの段階)がどういう経緯を辿ったのか詳しいことはわかっていないらしい。
ま、とりあえず順を追って見ていきますね。

久保氏によると、この頃の与右衛門は

 【これらの若き公家衆の経済的・政治的パトロンであったのであろう。
  同時に信尋サロン・グループと交流を深めると共に、公家側の動向情報を
  詳細にいちはやく入手していたものと考えられる。】
  (前掲論文より)

だそうな。
信尋のサロン・グループにはあの 烏丸光広 も入っている。

11月26日には平戸在住のイギリス商人・コックスが江戸に向かう
内裏の女性陣に会ったという記述があることから、

 【京都より儀礼的に女官衆が迎えの礼をつくし、且つ、入内の準備のための
  京都風の典礼・諸道具の調進などを具申するための下向であろうと、推測されるから、
  この段階では入内延期が紛糾の表面には出ていなかったものと私考する。】
  (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)

としておられる。


年が明けた元和5年(1619)春、秀忠の上洛が決まる。
与右衛門は先に江戸を出て、4月26日、近江の膳所で秀忠を迎える。
てことは、 膳所城 に入ったのかな。
そういえばあの城も、与右衛門が関わってるんだったっけ。

この上洛は入内の件について秀忠が鼻息も荒く乗り込んでいったみたいに
よく言われるので、私もそうなのかと素直に受け止めていたら、
久保氏によると4つの大きな目的があったそうなのだ。

 1、福島正則の改易
 2、紀伊徳川家の設置と諸大名の配置替え
 3、大坂城の大改修
 4、松姫の入内


1の説明は割愛されてるのでよくわからないんだけど、
2と3は幕府の権力基盤の確立や畿内(朝廷含む)・西国に対する圧力が
おもな目的になるらしい。

9月7日には秀忠と与右衛門は大坂城に入り、新しい徳川の大坂城を築くための
相談を始める。
もちろん、2人っきりという訳でもなく、土井利勝や酒井忠世らの重臣たちも
一緒にはいたが、いくつか残る史料から与右衛門が新・大坂城の普請に
深く関わったことは確実だという。

そして、翌元和6年(1620)3月3日に与右衛門が普請奉行らに送った報告書から
「京都之儀」を片づけて2月晦日に大坂入りし、3月1日に「御ふしん鍬始」を
始めたことがわかっている。


ちなみにこの時の普請惣奉行は戸田氏鉄、普請奉行は花房正成。
戸田さんはしじみで膳所おこしをした一西さん(上記膳所城のリンク先参照)の子。
花房君は過去のシリーズで結構あちこちに顔を出してますね~。

このコンビ、 福山城 にも関わってなかったっけ?と思ったら、
戸田さんの方はちょっと系統が違うらしい。
が、花房君は間違いなく福山城建設(元和5年~8年)に携わってる。
あちこち忙しいお方じゃのお~(笑)。

じゃ、次回は「京都之儀」についてもう少し見ていきます。

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最終更新日  2014年07月27日 22時02分39秒


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