戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年04月04日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
火曜と水曜は具合が悪くて休んでたのですが、すまほの速報で
チリの大地震のニュースが入ったので起きてTVを付けたら、
ちょうどNHKで「ほとけの履歴書」なる番組が始まった。
しかも、シリーズ第1回目だった。

初回は京都・三十三間堂の二十八部衆がテーマだったので、

「なんてタイムリー」

と思いながら嬉々として見始めたんだけど、
講師であり彫刻家の籔内佐斗司(やぶうち・さとし)氏の解説はわかりやすかった。

次回は毘沙門天で、3回目はアシュランが登場。
そしてシリーズの後半では、なんと東大寺の不空羂索観音像が登場する予定らしい。


ただし、籔内氏はもちろん美術・仏教的方面からの解説で
長屋王の怨霊うんぬんという話はまず間違いなく出ては来ないでしょうが



さて、ちょっとピッチ上げるぞお~(笑)。


●天平10年(738)
阿倍内親王立太子。
光明子は阿倍内親王の立太子を祝して「福寿寺」(写経所)を建てる。
秋、大伴子虫が宮処東人を斬る。


え~、話が長すぎて年表の最後をお忘れの方も多いかもしれませんが
藤原四兄弟が世を去った次の年です。

阿倍内親王は聖武天皇&光明子の間に生まれた子。
基皇子には姉にあたるようです。


聖武&光明子は史上初となる手を生み出しました。
それが阿倍内親王の立太子。

「女帝なんて他にもいるじゃん」て?
これまでの女帝たちはあくまで中継ぎという立場がほとんどだったのが、
阿倍内親王は女性で初めて皇太子になった方なんだそうですよ。


皇太子から天皇になる予定の阿倍内親王に夫を迎える訳にはいかない。
天皇以外はみんな家臣なんだから、家臣の夫を迎えて子を産んでその子が後を継いだら
臣下の子が帝位につくことになってしまう。

源氏物語の中では、冷泉帝(源氏と藤壺の宮の子)の例があるけどね。
あれはフィクションだからね。
紫式部はずいぶんとスキャンダラスな物語を作ったもんだよな~。

じゃなくて、このままでは見るからに先がないので、
手づまりになる前にどうにかしようと夫妻は子作りに励んだんじゃないか(笑)。

私の感覚でいうと立太子のお祝いに写経所ってのも変な話で、
阿倍内親王の御世をことほぐとともに、なんとか次の男子が生まれるようにという
願いも込めての造寺だったんじゃないのかな。

あるいは、長屋王の怨霊にはなんとか鎮まっていただいて、
阿倍内親王の御世が落ち着くようにという祈願だったって可能性も考えられる。


長屋王の怨霊が発動したという認識は、この年にはあったものと思われる。
それが、大伴子虫が宮処東人を斬ったという話題。

この話は先行して 「春の寛永寺(8)」 で紹介してますが、
四兄弟が死亡した翌年に正史に書かれている訳ですよ。
じ~つ~にタイムリー。

もちろん、実際にこの年に東人惨殺事件が起こった可能性だってある。
だとしても、「長屋王は実は無実だった」なんて藤原氏に都合の悪い記述を
わざわざ載せる必要はないんじゃない?

『逆説の日本史2』で井沢氏は、これは長屋王の鎮魂のために挿入された記事だと語る。
確かに、公式に鎮魂を始めたと見ていいと私も思う。

ただ、井沢氏は四兄弟がそろって死ぬという劇的な展開を受けて
怨霊信仰の教義が「祀る子孫のない人」から「無実の罪で殺された人」に変わったと
しておられるんだけど、それまで無実の罪で殺された人が祟るという概念がないのに、
いきなり長屋王の怨霊の存在を認めるってのもちょっとどうかって気がする。

なので、私は前回・前々回のまとめで書いたように、罪の意識が当初からあり、
ひそかに鎮魂を始めていたんじゃないかと思った。
真意を隠しつつも豪華な堂宇を2つも建てたのに、
地震は起こるわ天然痘の波が押し寄せるわで、
2度目の疫病フィーバーの時には政府高官がバタバタと死んだ。

「ヒィィィ、もうダメだあ~!
ごめんなさい、許してください!!」


と、ここで初めて「私」の鎮魂から「公」の鎮魂へ切り替えたんじゃなかろうか。


ちなみに、この年の春には「国家隆平」を願って京畿内7か国に
金光明最勝王経の転読が命じられている。
政府の要人がバタバタ死んで、体制を建てなおさなきゃいけない時に、
「国家隆平」ってちとズレてませんか?

これをきちんと表現するなら、「怨霊を鎮め諸々の災厄を取り除き、
国家の安泰を金光明最勝王経に祈った」の方が時期的に妥当じゃないかと
思うんだけどねえ・・・



●天平12年(740)
9月3日、藤原広嗣の乱勃発。
9月15日、国別に観世音菩薩像一躯高7尺の造立と「観世音経」十巻の写経を命じる。

藤原広嗣は藤原四兄弟の三男・宇合(うまかい)の子。
第2次疫病フィーバーで多くの要人が死んだので、あらたな主要メンバーが立てられ、
藤原氏の勢力は後退、広嗣は大宰府に転勤になった。

これに不満を持った広嗣が挙兵。
藤原氏と親密な関係を築いてきた聖武天皇は

「きゃあぁぁぁ・・・・」

と気が遠くなっただろう。

広嗣挙兵の報が届いた直後の15日、「願依聖祐欲安百姓」のために出された勅の内容が
観世音菩薩像の造立と写経。
どう考えてもおかしいでしょ、これ
正しくは「広嗣を退治して民百姓を安泰にしたいんですう」でしょ?
こんなタテマエばっかの記述を鵜呑みにしちゃいけませんぜ。

結局、乱は年内に平定され、広嗣は11月1日に斬罪になった。

 【乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると
  言い出し都を出てしまった。聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り
  恭仁京(山城国)に移った。その後も難波京へ移り、また平城京へ還って、と
  遷都を繰り返すようになる。遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に
  恐れたためであったとされる。】
  (ウィキペディアより)


このうち、近江での滞在地が 「膳所城(2)」 で紹介した禾津頓宮(あわずとんぐう)。

久々に自分の記事を読み返して、ついでに現説公開サイトの記事も読んでみたけど、
形式としては掘立柱の建物だけど、規模は宮殿クラスだそうな。

この建物はまんず行幸という名の放浪の旅の際に建てられたと思って
間違いないようだけど、ここでの滞在は3日だそうで、
せっかく作った建物を手際よく解体し、次の流浪先へ運ぶ・・・

いちおう天皇の行幸だから、これぐらいのことは当たり前なのかもしれないけど、
現実を考えてみれば行く先々に用材を運び頓宮を建て、
ってものすごく大変なことだよね。

その行動には、なんとも異様なものを感じるのは私だけじゃないだろう。
聖武天皇が「極度に恐れた」のは広嗣の乱であり、その背後に怨霊の影響を
感じ取ってもいたからじゃないんだろうか。


次々起こる災厄に疲れ果て、精神が限界に来た聖武天皇が

「ちょっと関東へ行くよ・・・」

と言って家出を始めたのが10月の末。
移動は車駕(しゃが)という天子専用のクルマだったらしい。

29日、山辺郡竹谿村の堀越頓宮着。
翌30日、伊勢の名張へ到着。

11月1日、伊賀の安保頓宮に泊まる。この日は大雨で人馬ともにクタクタ。
2日、伊勢国壱志郡の河口頓宮着。
翌日から10日ほど伊勢神宮に参拝したらしいが、
その期間中に広嗣の乱に決着が着いた報告を受ける。
無事解決したんだから、さっさと帰れよ・・・

でもまだ帰らないんだ。
12日、壱志郡に泊まる。
14日、鈴鹿の赤坂頓宮着。
20日、赤坂から朝明郡へ。
25日、桑名の石占頓宮へ。
26日、美濃の当伎郡へ。

12月1日、不破郡不破頓宮へ。関ヶ原じゃん。
6日、坂田郡横川頓宮へ。
7日、犬上頓宮へ。
9日、犬上から蒲生へ。この時代から蒲生の地名はあったのか・・・

10日、野洲頓宮へ。
11日、志賀郡の禾津頓宮へ。
14日、山背国相楽郡玉井頓宮へ。
15日、恭仁宮へ。ここがゴール。
あとになって元正太政天皇と光明子がやって来たらしい。


え~と、すべての正確な場所は調べてませんが(←めんどくさい)、
大ざっぱに言って奈良から東へ向かって進み、忍者の里・名張を越えて
伊勢に行き、そこから伊勢湾沿いに北上して鈴鹿サーキットを通過し、
桑名で焼きはまぐりを食べてぐぐっと真北に向かって関ヶ原到着。

そこからは東海道本線沿いに西に向かい、彦根城や安土城の近くを通って
瀬田の唐橋を越えてから南下・・・
時代考証ムシで有名スポットから足取りを説明すると大体こんなとこになります。
焼きはまぐりはもちろん冗談ですけどね

このルートは、伊勢に寄った以外は壬申の乱における天武天皇の足跡と
重なるらしい。


不破関鍛冶工房跡2



ついでに不破関の写真↑。
ここには奈良時代の鍛冶工房があったことが確実視されている。
今はのどかな畑になってるけど。


不破の関土塁



↑かすかに残る関の土塁の跡。
これは関ヶ原めぐりの際、小早川金吾の陣取った松尾山に行く途中で撮ったもの。
ここから少し南東に下ったところに井上神社があり↓


井上神社


この神社では天武天皇を祀っている。
後から妻である持統天皇も併せて祀ったそうな。
川向かいの神社には弘文天皇が祀られているらしいけど、
そちらは行かなかった。
関係ないけど、ここに落ちてた松ぼっくりはすげえデカかったんだ~(笑)。


この放浪の旅では、400名もの騎兵を連れてったそうな。
そういう一行であったから、これは世間で言われるように逃げ回ったんじゃなく
軍事パレードだったんじゃないかとする方がおられる。

確かに、関東に行くと言っておきながら実際の東限は関ヶ原止まりだから、
この旅の最終目的地は不破の関で、
壬申の乱で皇位をもぎ取った天武天皇にあやかろうとした可能性は高い。

けど、現実を見ればパレードどころじゃないだろうって気がするんだけどね。
苦しい時期だからこそ、強かったひいじいちゃんの足跡を辿ることで
王者としての自分の存在をアッピールしたかった可能性もなくはないけど・・・


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最終更新日  2014年04月05日 18時27分39秒


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