戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年04月06日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
え~、前回は天平13年(741)まで進んだにも関わらず、

翌天平10年~13年の間は比較的落ち着いているような・・・
天平11年なんかは米も順調だったようだしね。

ただ、天平11年には光明子の寝食が思わしくなかったらしく、
それから地震と日食もこの期間にまた起きている。

このあたりでの大きな事件といえば、天平12年の藤原広嗣の乱だけど、
乱の兆しが起こる前に大赦と法華経の書写と七重塔の建立が命じられている・・・

てことは、広嗣問題以前になにか神仏にすがりたくなるような


して、法華経の書写と七重塔建立の命を出した直後、
広嗣の乱勃発。
聖武の祈り、またしても届かず・・・

この後、ひいじいちゃんの史跡めぐりに出る訳だけど、
家出宣言を聞いた将軍は驚き怪しんだというから、
周囲にとってはびっくりニュースで、計画的な行幸というよりは
出奔に近い印象があったんじゃないのかな。

ただ、聖武本人の中では、なんとなく不穏で落ち着かない日々を過ごす中で
次第に遷都の夢が膨らんでいったのかもしれないけど。

そして、年末近くになってようやく恭仁宮に入った聖武天皇は
まだ宮殿の塀もろくにできていないような新宮で天平13年の正月を迎える。


で、2月に国分寺建立に関する詔が発表される・・・



●天平14年(742)
7月に前回の最後で紹介した「金光明寺」が誕生する。

恭仁宮を造営中にも関わらず、この頃には近江の紫香楽(しがらき)に
離宮を造営してしばしば行幸するようになる。これが紫香楽宮。



この頃から聖武の仏教カラーがより強くなる。

1月13日、金光明寺の49人の高僧を集め、
自分の皇位継承は仏縁によるもので、このありがたい仏の教えを世間に広めたいと
言いだしていくつかの指示を出す。

・翌日から49日間、すべての出家者に金光明最勝王経を転読させること
・同じく49日間、国民は殺生をせず精進料理で過ごすこと
・金光明寺の法会を国の模範とすること
・国の宝である僧たちには、慈悲に始まり微妙の力に終わる仏法の興隆を図ること

これによって国土人民は安泰となり、「まさに今日が仏法の中興の時なのだ」
と高らかに宣言する。

おそらくこの辺が、「聖武天皇は熱心な仏教徒である」と言われる
ゆえんなんだろう。

熱心は別に否定するつもりはありませんけどね・・・
どう熱心なのか、先を続けましょう。


10月15日、紫香楽宮で盧舎那仏を造営することを発願した。
以下、井沢氏の現代語訳によるプレス発表。

 【朕(聖武)は徳薄い身でありながら天皇になり、国民のすべてを幸福にしなければ
  と常に志してきた。そして今、ようやく人々を朕の仁政でうるおすことができたが、
  まだ全国民を仏教の恩恵に浴させてはいない。そこで、なんとかして、仏の威光と
  霊力により天下が安泰になり、万代(よろずよ)の幸福を願うことによって、
  この世のすべての生命が皆栄えることを望むものである。

  ここに天平15年、10月15日菩薩の大願を発して、盧舎那仏一体を造ることに
  する。国の銅を使い尽くして像を造り、大きな山を削って仏堂を構え、広く仏法を
  世界に広めようと思う。そして、ついには朕も一般民衆も共に仏の功徳に浴して
  悟りに至ろうではないか。

  天下の富も、天下の権勢も朕が持っている。
  この富と権勢を使って、この大仏を造る。】
  (『逆説の日本史2』より)


実に高潔なお志です。
・・・文章だけ読んでれば。
少しツッコミを入れてみましょうか。


まず、「全国民が仏教の恩恵に浴」してないのは当然です。
少し前の記事で書きましたが、当時、仏教は国家が管理しており、
通常は各宗派ごと、年ごとに出家できる人数が制限されてたそうです。

なんでかってーと、出家者には労働・納税・兵役が免除される特権があり、
国家の財政にも関わることなので簡単に出家できないような
システムがあったんですね。
ま、「超狭き門の国家公務員」みたいな~。

しかし、中にはホントに真摯に仏法を求める人がいて、
公的な出家の認可を受けず僧となる人もいました。
有名どころでは、空海さんもその類だったようで、
こういう人を「私度僧」(しどそう)と呼びます。

天平の有名な私度僧にはあの行基様がいます。

天平の頃は仏教が盛んに興った優雅な時代、みたいな印象を持っている人も
おられるかもしれないけど、舶来の総合文化である仏教は国家に管理された
おもに上流社会のためのものであり、まだ庶民に開かれたものではなかったようです。

そういう時代にあって、行基様は下層階級への布教を精力的に行って
庶民の人気を得たものの、私度僧は「僧尼令」で禁止されており、
また民衆を煽動してるんじゃないかと朝廷から危険視されて弾圧を受けます。

のちに、危険な人物ではないこと、行基を支持する民衆の力が大きかったことなどで
朝廷は逆に取り込んで利用しようとして、大仏の建立にも協力するように
なったようです。

だからね、全国民に仏教が浸透してないのは当たり前の話で、
「なに言っちゃってんの」ってカンジですが、ひとまずそこはガマンしても、
「国の銅を使い果たし」・・・

「ボケが!!」

って悪態つきたくなるのはわたくしだけじゃないでしょ?


天平9年の大災厄から6年。
少しずつ回復はしたかもしれないけど、働き手を多く失った農村の被害が
そう簡単に回復するとも思えず、広嗣の乱の最中に旅行はするわ、
恭仁京に遷都するわ(しかもまだ工事中)、自分のために相当金のかかることをしている。
もちろん、乱の平定にも金がかかっている。

「また金の話か~」って?
だってこれが一番わかりやすいんだもん


ちなみに、国分寺建立の詔勅が出されてから2年経ってますが、
こちらも国ごとに立派な寺を2つ建てろってんだから、
この時点では財政難で工事は進んでません。

この翌年になって国分寺建立の助けとなるあらたな経済プランが
打ち出されるくらいだから。

それから、国分寺に納めるというお経の中には金泥で書いた
金光明最勝王経が含まれてまして、これは朝廷側からもらえることになってますが、
2年経ってまだ写経が終わってません(笑)。

つまり、端的に言うと恭仁京は造営中、国分寺も現在進行形、
その上に国の銅を使い果たすほどの仏像の建立を始めようとした訳です。
この年。
さらに年末には恭仁京の造営を中止して、紫香楽宮の工事が進められることに
なりました。


現代であればあっとゆー間に支持率が下がって
内閣総辞職に追い込まれるところでしょうが、政治のシステムが違うので
如何ともしがたい。

ホントに言葉通りに仏法を広めたいんであれば、
豪華な堂宇にこもってる僧侶を連れ出して青空説法でもさせればいいじゃん。

ま~ま~、彼と私じゃ生まれ育った環境も立場も考え方も
何もかもまるで違うから、いちがいに非難できないのはわかってますよ。
これは彼なりに真剣に考えた結果の行動なんでしょう。

しかし、この一連の行動があらたな悲劇を生み出したとしたら?



●天平16年(744)
2月、難波京に遷都。

なんかもうこの辺、ごちゃごちゃしてよくわからないんだけど、
大阪城の南にある難波宮大極殿の跡は行ってるから写真を載せようと思ったら、
史跡めぐりの最初の頃でもあり、「ついでに見た」程度のものだったから
写真を撮らなかったらしい
結構記憶には残ってるんだけどね。

難波宮は聖武天皇の新設ではなく、古くは孝徳天皇、天武天皇などが
都と定めた歴史を持つらしい。

聖武天皇の代では、まず神亀3年(726)に藤原宇合をして
難波京の造営に着手させ、副都としていたそうな。
ウィキペディアだと難波京への遷都は天平15年とも16年ともある。

それでも聖武の中には紫香楽宮への熱い思いがあったらしく、
11月には紫香楽の甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられ、
いよいよ工事が始まった。

一方の国分寺は、あらたな費用プランを捻出するが、
それでも資金不足で工事はなかなか進まない。


え~、この年10月2日には道慈さんが亡くなってますね。
なかなか厳格な人だったようで、唐と違って戒律が守られてない日本の現状を憂い、
唐から戒師を迎えることを提案。
これを受けてはるばる海を越え、幾多の苦難を乗り越えてやって来るのが
あの鑑真さんです。

ここまで何度も活用されてきた金光明最勝王経を持ち帰った道慈さんは、
本場仕込みゆえに最勝王経の第一人者であったと思われますが、
世紀の大イベントの金銅仏に盧舎那仏が選ばれたことがちょっと引っかかる。

道慈の享年も死因もわからないけど、あるいは最後はしばらく病床に伏していて、
代わって良弁がより頭角を現してきたのかな・・・なんて想像もしました。

当時、紫香楽はかなり辺鄙な場所であり、聖武が紫香楽を選んだのは
良弁のアドバイスによるものだったという説もあるらしい。


良弁で引っかかるのが、盧舎那仏。
盧舎那仏(毘盧舎那仏)は『華厳経』に詳しく書かれている仏だそうで、
密教では「大日如来」と呼ばれ、サンスクリットでは「ヴァイローチャナ」・・・

はい、 「春の寛永寺(5)」 でアスラの過去を紹介してますが、
アスラ族のトップの神がヴァイローチャナなんですよ。

良弁は金鍾山房が金光明寺となっても引き続き金光明寺に住持していたらしく、
天平17年には律師となり、聖武天皇の発願した仏像建立にも
深く関わっている。

『アシュラブック』の著者・北氏は興福寺西金堂のアシュランと
金鍾山房羂索堂の不空羂索観音像をつなぐのは、
良弁の本尊・執金堂神像だと推測した。
視点こそ異なるものの、私も北氏の推測には同意する。

そして、国を挙げての金銅仏建立にも良弁が関係しており、
しかもそれは元・アスラ族の神だった・・・

ここは急いで自分なりの結論は求めませんが、
どうも羂索堂&興福寺西金堂と金銅仏には連続性がある気がしてならない。

推測のお好きな方は、ご自分でもちょっと考えてみてくださいね。
私は、ここは今後の課題とします

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最終更新日  2014年04月06日 22時41分42秒


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