戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年04月27日
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カテゴリ: 江戸めぐり
今回はもう少し、大内氏と一切経について詳しく見ていきましょう。

幸いです。


前回紹介した解説から、増上寺所蔵の元版の一切経は応永27年(1420)には
大内氏の氏寺・興隆寺(山口市)にあったことがわかる。
この当時、国内には一切経の版木は存在せず、
しかも元版てわかってるんだから、応永27年以前に輸入されたこともわかる。

この一切経がどういう経緯を辿ったものなのか少しでも理解したくて、
まずは大陸との交易のセンから攻めてみました。




それが中国にわたると2世紀後半から漢訳が始まって、11世紀の末まで続いたそうな。
漢訳に伴い、経典の真偽判定や収集・分類が進められ、ウィキペディアによると

 【これらの衆経ないし三蔵を、北朝の北魏(386~534)で「一切経」と呼び、
  南朝の梁(502~557)で「大蔵経」と呼んだといい、隋・唐初に及んで
  両者の名称が確立し、写経の書式も1行17字前後と定着した。】
  (カッコ内は戦国ジジイが追加)

だそうで、日本には天平7年(735)には持ち込まれていたことがわかっている。
アシュランが興福寺西金堂に納まった翌年ですね。

最初の一切経の刊本は北宋時代。
971年~977年にかけて版木が彫られたそうで、これが北宋版と呼ばれる。
その後の王朝でも新たな版木が作られたりして、元の時代にも補刻が行われたという。


鎌倉時代は1185年頃~1333年。
鎌倉期にも元との交易はあり、経典の輸入はあったらしい。

その後の室町幕府も交易のために元に向けて天竜寺船を出したりしている。
この天竜寺船に乗っていたのが、ミワラの佛通寺を開いた 愚中周及 。


結局上陸できたのは11人だけらしい。
おそらく、その11人は周及のように(推定)違法な手口を使ったりの
大変な努力をしたんだろうし、中には一切経を持ち帰った人もいたかもしれない。

ともかく、元が存続している間に元版の一切経が輸入された可能性はある。
ただし、元王朝の時代のほとんどを大内氏は地方公務員として過ごしており、
鎌倉幕府が滅んでも最初は南朝方だった。

ので、元時代に大内氏が自力で元版の一切経を輸入した可能性は低く、
ひろよん(大内弘世)が守護デビューを果たしてから
それ以前に輸入された一切経を国内のどこかから手に入れた可能性はあるものの、
貴重品である一切経をそう簡単に入手できるとも考えにくい。

とすると、元が滅んで以降に手に入れたものか?

大内氏が中国との直接貿易をするのは、義興さん(1477~1529)の
代になってから。
けど、増上寺の一切経は1420年に興隆寺にあったんだから、
どうやら直接中国から仕入れたものではないらしい。

輸入先が中国でないなら、どこから仕入れたのか?
そこで大内氏と古くから関係の深い朝鮮が浮かぶ。


永和2年(1376)、大内義弘が石見守護になる。
永和3年(1377)、盛見が生まれる。
そうか、義弘と盛見って結構年が離れてたんだな・・・

じゃなくて、この頃が倭寇による高麗侵入のピークで、
はじめ高麗側は室町幕府へ倭寇鎮圧を要請しようとしたのが、
役に立たないことがわかったので交渉相手を九州探題である今川了俊に変更した。

義弘もこれに協力して兵を出し、倭寇を討伐。
翌年には高麗から義弘へ再び鎮圧の要請があり、186人を出したものの
大敗して50人ほどしか帰国できなかったという。

その後、今川了俊が探題を解任されると、義弘が対高麗の交渉のトップに
躍り出て、高麗が朝鮮に変わっても引き続き良好な関係を築いて
応永2年(1395)には独自で朝鮮への交易船を出した。


これ以前の大内氏の対外貿易は私は知らない。
ウィキペディアには義弘は明とも独自に交易したとあるけど、
それは私は知らないのでひとまずここでは置いておきます。

まあ、地理的な関係で私的な交易はあったのかもしれないけど、
それでもせいぜいのところ、ひろよんが防長の守護になって以降の話だと思うし、
私的な交易で一切経が手に入れられたのかは疑問がある。
色んな意味で、ひろよんの代にはまだそこまでの余裕はなかったんじゃないかとも
思うんだけど。

義弘の代での朝鮮交易は都合5回。
うち、応永3年(1396)には一切経の一部を手に入れている。


 【こうした大内氏の立場は、朝鮮王国との間に正式な国交を樹立できないままで
  いた室町幕府にも利用された。室町幕府第三代将軍足利義光は、大内義弘を
  仲介に立てる事で、正式に朝鮮との国交を築く事に初めて成功した。
  大内義弘は、いわば朝鮮王国と室町幕府とのパイプ役を果たしたといえる。(中略)

  大内氏は、外国に向けられた日本の顔、或いは正面玄関としての役割を担っていたと
  いえる。このような関係から、朝鮮王国では大内氏の使節(これを朝鮮側では
  大内殿使と呼称した)は非常に高いランクで接待された。】
  (『大内氏の国際展開』より)


こういう立場だったからこそ、個別に一切経を手に入れることができたんじゃないかと
思うんだけどね。
ともかく、これを機に室町幕府も朝鮮交易に乗り出し、
多くの一切経を輸入するに至る。


応永6年(1399)に義弘が滅ぼされた後、
家督争いを制した盛見は応永10年(1403)から朝鮮交易を再開させる。

応永14年(1407)、盛見が朝鮮に一切経を求め
応永15年(1408)、一切経の一部を手に入れる。
応永16年(1409)、興隆寺に輪蔵を建てて一切経を納める。

これ以降もしばらくは毎年のように朝鮮交易を行っていて、
大内氏とゆかりの深い寺にはいくつか一切経を所蔵しているところもあるから
盛見が数回一切経を輸入した可能性があるけど、
問題の応永27年(1420)以前にはっきりと一切経を輸入したことが
わかっているのは応永14年の申し入れのみで、しかもそれを興隆寺へ寄進している。

大内氏が一切経をいの一番に寄進するのは、やっぱり興隆寺だと思うんだよね。
ただ、応永14年までの間、義弘のゲットした一切経はどこにあったんだ?
って疑問もあるけど、それはひとまず置いといて、
義弘が輸入したのは高麗版の一切経らしい。

なんでそれがわかるかってーと、盛見が応永14年に朝鮮に送った文書の控えに
あるからです。
それによると、先年義弘が賜った高麗の本の不足を補って付け合わせもして
より完全な本にしたいから、中国系の本が欲しいってお願いをしてるっぽい。

高麗でも1010年に版木が起こされ、それが焼失した後の1236年に
再び版木が造られたそうで、これが高麗版。

ということで、盛見が応永16年に興隆寺に納めた一切経は
高麗版と中国版とのミックスだった可能性が高い。
ただし、数種類ある中国版のうちのどれをもらったのかは不明。

ちなみに、増上寺の元版一切経というのも元版の完本ではないらしく、
国指定文化財等データベースによると、南宋・元・高麗のミックスらしい。
なぜそれを元版というのか・・・
食品の成分表示が割合の多い順に表記していくのと同じように、
元版部分の割合が多いってことなのかな?



応永24年(1417)頃には興隆寺の一切経の供養会が行われたらしい。
どういう趣旨で供養会が行われたのかは手持ちの資料からはわからないけど、
大内氏の領国内にまだそんなに一切経がゴロゴロあった訳でもないだろうから、
この時に2つ目の一切経を興隆寺に寄進したとは考えにくい。

う~ん・・・
興隆寺のはこれ以上詳しいことはわからんなあ・・・

現在も興隆寺に一切経が残っているのかがまずわからないので、
思い切って興隆寺の住職様に電話で突撃インタビューを試みようかと思ってたけど、
今日は具合が悪くて昼寝してるうちに夕方になってしまったので、
それは断念しました。

興隆寺の住職様はお優しい方なので、電話でも答えて頂けるかなと思ったんだよね。
(興隆寺の訪問記は 「山口編(23)」 以降をご覧ください)

けど、恐らく今の興隆寺では盛見の一切経は所蔵してないと思う。
だってもしあれば重文クラスだけど、山口県の指定文化財一覧を見ても
載ってないんだもん。
であれば、増上寺の元版一切経は義弘の高麗版に盛見が中国版を
追加したものだって可能性は十分あるよな。


大内氏の領国内の寺社で他に一切経を所蔵していたのは、
『大内氏の国際展開』によると永興寺(岩国)、松崎天神(現在の防府天満宮)、
それから国清寺(山口市)。
ここまでは盛見による寄進だという。

永興寺はひろよんのパパ・弘幸の菩提寺。
松崎天神は大内家歴代当主も篤く保護し、ひろよんが本堂を再建したり
盛見が三重塔を寄進したりと大内家との縁も深い。
国清寺は盛見が応永11年(1404)に創建した寺で、
盛見の菩提寺となった寺といずれも大内家にゆかりの深い寺社。

ただ、史料は残っていないんだろうけど、これ以外にも盛見は一切経を
ゆかりの寺社へ寄進しているだろうと私は思う。


まずは乗福寺。
ここは大内家の祖とされる琳聖太子の墓があり、ひろよんとそのじい様の
重弘の墓もある。
乗福寺の住職は京・南禅寺から迎え、勅願寺となるなど寺格の高い寺だったので
一切経を奉納してしかるべきと思われる。

けど、1520年に火災で伽藍がことごとく焼失したというので、
その時に一切経も燃えちゃったかもしれない。
後から義隆が補充したかもしれないけど、大内氏滅亡後は
毛利家が乗福寺を解体してしまったので、補充があったとしても
これまたよそへ流された可能性がある。


それから、香積寺(現在の瑠璃光寺)。
盛見が非業の死を遂げた兄・義弘のために建てた五重塔内部には
一切経が納められていた・・・というか、こちらは現在も2,500冊を所蔵している。
が、その瑠璃光寺一切経は江戸期の天和元年(1681)に国内で開版された
鉄眼版というもので、瑠璃光寺第23世和尚の発願により納められたものだという。

一見、大内氏とは何の関係もなさそうだけど、毛利家が萩に本拠を移して以降、
打ち捨てられた都のようだった山口の、しかも大内一族とゆかりの深い寺が
いきなり一切経を手に入れたいと思うもんだろうか?

それより、元々五重塔には盛見、あるいはその後の持世か教弘が納めた一切経があり、
毛利家が香積寺のほとんどを萩に移す際、一切経も持ち去ってしまい、
からっぽになった経箱入れを悼んでのちの住職が再び一切経を納めようとしたと
考える方が自然なんじゃないのか。

ただし、瑠璃光寺の前の一切経の寄進者にはもうひとつの可能性がある。

乗福寺と香積寺は何の根拠もない個人的推測ですが、
この2つはあってしかるべき寺なので、あながち間違っているとも思いません。

で、これらの大内氏領国内の一切経のうち、行き先が明確にわかっているのは
国清寺だけ。
それでも、大内氏との関連が推測されている一切経はいくつか現存します。
次回はその辺を見ていきましょう。
そう、まだ続くのよ


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最終更新日  2014年04月27日 23時36分11秒


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