戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年05月13日
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カテゴリ: 江戸めぐり
明暦3年(1657)1月18日の出火から始まった明暦の大火は、
3日間の火事。
山火事みたいに長々延々と燃え続けた訳じゃありません。
でも、大変な規模の大火災となりました。

だいたいどの辺が被害にあったのか?と思って今回読んだ
『明暦の大火』(黒木喬/新潮社現代新書)などを基に図にしてみました。


明暦の大火進路図



ものすごく大雑把ですけどね
まあ、こんな感じで江戸城の周りは驚くほど綺麗に焼けたようです。


それにしてもずいぶんと効率よく焼けたもんだと感心するほどです。


『明暦の大火』によると、江戸では次のどちらかの条件で大火が発生したそうな。

 ・冬から春さきに北ないし北西の冷たい季節風、つまり「空っ風」が
  吹きつづけ、数十日ものあいだ、一滴も雨が降らないばあい。

 ・春さき、または秋口、日本海を通る強い低気圧のため「春一番」と
  呼ばれる南風が吹くばあい。


関東にお住まいの方は、今も江戸期と気候条件が変わってないことに気づくでしょう。
このうち、明暦の大火はひとつめの条件に合致するそうな。

山川健次郎氏の分析によると、江戸の火災には季節的な傾向があるそうで、
太陽暦での7・8月には一件も火事が起こっていない。
9月以降火災の件数は増え3月が発生件数のピーク。


明暦2年の11月からは江戸では雨が降っていなかったらしく、
明暦3年は正月早々、元日、2日、4日、5日、9日と火事が相次いだ。

して、大火前日の1月17日は風が強く、翌18日朝頃には
さらに風速が増したらしい。


 【不思議なことには出火の確率と風速との関係はあまりないが、延焼速度とは

  (中略)この日の午後から翌19日の夜までの北西風の平均風速は毎秒27mに
  達していたであろうともいわれている(荒川秀俊『災害の歴史』)から、まさに
  小さな台風なみであった。】
  (『明暦の大火』より)


極度の乾燥と強風。
こうした条件の元で、まずは18日の昼頃、
当時は本郷丸山にあった本妙寺付近から出火。

湯島・神田をのみ込んだ火は風に乗って東へ、さらに南へ進み、
海をも越えて佃島まで火が飛んだ。
当時は防衛上の観点から大川にはずっと北の千住にしか橋がかかっておらず、
逃げ場を失った人々が多く火にのまれた。
中でも浅草橋と霊厳島では大惨事となった。

日が暮れてもまだ火勢はおさまらず、昼のような明るさだったという。
16歳の将軍・家綱は夜になって江戸城二の丸の櫓に上り、
火事を検分したそうな。
日が変わった19日の午前2時頃になって、ようやく第一陣がおさまった。



しかし、ほっとしたのもつかの間、今度は11時頃に小石川伝通院付近から出火。

小石川といえば後楽園、後楽園といえば水戸の黄門様のお庭。
この時はまだ頼房が水戸家当主で、頼房・光圀ともに江戸にいた。
第二陣の火は水戸屋敷に入り、焼け出された28歳の光圀は駒込の別荘に移り、
そこで『大日本史』の編纂を始める。

水戸屋敷を焼いた火は、続いて多くの著名人を被災者にした。

 ・千姫(家康の孫)
 ・鷹司孝子(家光の正室)
 ・松平綱重(家綱の弟。6代将軍家宣の父)
 ・松平綱吉(のちの5代将軍)
 ・酒井忠清(老中)

などなど・・・ 
智恵伊豆・松平信綱の屋敷も含め、多くの豪華な大名屋敷も灰塵に帰した。

江戸城には幕閣たちが詰めていた。
下っぱたちはさかんに寛永寺に家綱を避難させるべきだと言ったが、
保科正之 は

「本丸に火が入ったら西の丸に移ればいいんだし、
そこも焼けたら本丸の焼け跡に陣屋を建てればいいさ。
寛永寺に退くなんてとんでもない!!」


と叱りつけたという。

昼頃には天守に火が入り、地下の莫大な金のヘソクリが溶けた。
ついで弾薬庫などにも火が移り、城内は大変な状況になってきた。

家綱は本丸から西の丸に動座、重臣たちは徒歩で付き従った。 
やがて西の丸にも黒煙がかかるようになり、あまりの状況にさすがの信綱も
寛永寺への避難を勧めてみたが、阿部忠秋はひとり

「上様が城を出られても、ワシは、ワシだけはここに残りますぞ!」

と頑張った。これを受けて家綱も、

「豊後(忠秋)の言うことはもっともである。
将軍である私がこの城を出て、一体どこへ行くというのだ」

と腹を決め、よそへの避難はとりやめになった。
のちに忠秋さんが語ったところによると、紅葉山への動座も考えていたらしい。



城内にある大名屋敷が次々と燃える中、
上総久留里藩・土井利直(土井利勝の子)の屋敷も炎上。
土井家家臣の新井正済(まさなり)は臨月を迎えた妻をかばいながら
利直の外孫の屋敷へ避難した。

そこで避難生活を送る中、翌月の10日に無事に子は生まれた。
それがあの新井白石。
出生のエピソードから、白石の幼少期には「火の児(ひのこ)」と
あだ名されたという。
消えた多くの命あり、生まれる命あり・・・
ドラマだなあ。


午後4時ころには風が西風に変わり、江戸城全焼はまぬがれた。
その分、火は東へ移り、第一陣からここまでで天守を含む江戸城の東側、
城外では北から東にかけてが壊滅的な被害を受けた。

これだけだったのなら、江戸城の南西から南のエリアは被害を受けずに済んだ。
ところが、風向きが変わったちょうどその頃、麹町から新たな火の手が上がった。
これにより、ここまで無事だった西から南側にかけてが火にのまれた。

こちらも大名屋敷が多く、広島浅野家、福岡黒田家、萩毛利家、赤穂浅野家、
佐賀鍋島家、彦根井伊家、仙台伊達家などが炎上。
幕閣の阿部忠秋、稲葉正則、堀田正信の屋敷も全焼した。
現在の霞が関や日比谷あたりが劫火に包まれていたとご想像ください。

豪華な諸邸を焼いた火は海岸へぬけ、保科正之の屋敷も焼けた。
さらに増上寺にも移り、僧たちは慌てふためいてそのまま逃げたらしいが、
幸いにしてこの頃には風がおさまったので、秀忠の霊廟や本堂などは類焼を免れた。

大火の終焉は1月20日の午前8時ころ。
『むさしあぶみ』には焦土と化した江戸の光景を詠んだ狂歌がある。



     こもより出(いで)てこもへこそ入れ   

  丸焼けのつれなく見えしわが宿の 
     赤土ばかり浮きものはなし



多くの方が、元ネタの歌をすぐ思い浮かべるでしょう。
これを江戸っ子のセンスと見るか、なかばヤケと見るか・・・
わたくしは思わず笑っちゃいましたけどね。
本歌がわからない方は、記事のいちばん最後をご覧ください。


さて、死亡実数については史料によって差があり、正確な数はわかっていない。
一般的な明暦の大火の紹介では、死者10万とされる。
が、当時の江戸の町方の人口は28万ぐらいだそうで、
ちょっと10万は多すぎるだろ~とする人も多い。

『明暦の大火』では、史料としては信頼度の低い『元延実録』の
68,430余人という数字が案外実態に近いのではないかとしている。
なんにしても、かなりの数の江戸の住人が犠牲になった。


前回紹介した解説版には、家綱が身元不明の遺体を収容して
供養するように命じたとの解説があったけど、
『明暦の大火』にはこんな話が載っている。


保科正之が将軍の代参で増上寺へ赴いた帰り、京橋のあたりに
  焼死体が山積みになっているのを見て驚いた。そこで、家臣をやって
  様子を見に行かせたところ、浅草門の辺りまで同じような光景が続いている
  という報告を受けた。正之はさっそく登城して、井伊直孝や老中に


  「いや、京橋なんかホントすごくってさ・・・
   浅草門までずっとそんな感じらしいよ。
   それだけじゃなく、川筋や堀にも滅茶苦茶死体が浮かんでるってさ・・・

   この江戸には公方様がおられるので多くの民が江戸に集まることになって、
   その結果、この大火に巻き込まれて焼死したって考えるとかわいそすぎるよ。
   その上、数万にものぼる死者たちをこのまま外海へ流し捨てちゃうのも
   どんなもんだろう?

   ここは公儀からの命で、死者を一か所に集めて埋葬するようにしたらどうかと
   思うんだけど・・・」


一同は正之の意見に賛成して、町奉行に命じて死体を収容させた。


さすがは保科正之、と言いたいところだけど、
『明暦の大火』の著者・黒木氏はこの大火はどうも幕府による計画的犯行という
推測をしておられるようで、上のエピソードの後には

 【幕府はあとに述べるように、さまざまな救済事業に手をつけていたが、
  町方の死体だけは放置したままであった。保科正之の提議がなければ
  「ことごとく外海に流し捨て」たかもしれない。それをとどめえたのは、
  将軍のお膝元の江戸に死骸が充満している状態では幕政が批判され、
  幕府の威信低下にもつながりかねないという懸念であった。】

と続く。
まあ、確かにそういう面もあったかもしれないけどね。

集められた死体は船で牛島新田へ運ばれた。
「牛島新田」の位置が今ひとつはっきりしないんだけど、
どうもこれが現在の両国のことらしい。

『本所回向院記』によると10万8千人、
『回向院過去帳』によると2万2千人とあるそうで、
すでにここから数に大きな差がある

が、回向院には少なくとも2万2千が葬られたとは考えてよさそうだし、
そもそも回向院に運ばれたのは身元不明だったり引き取り手のいない死体。
つまりは大火の犠牲者で回向院以外に埋葬された人もいるはずだから、
焼死者の実数はもっと多いことになる。


ちなみに、以前の本妙寺の記事では大火の原因の説をいくつか紹介してますが、
少し勉強した今では「阿部忠秋邸が本当の火元」説や
「江戸再開発を目論んだ幕府による放火」説はないと思ってます。

阿部忠秋さんなら、幕府の体面うんぬんというよりソッコー切腹してるよ。
それに、幕府の中心人物は松平信綱。
江戸城以外を綺麗に焼き払うなんて都合のいいことはできないし、
実際江戸城は第二陣で大変なことになってしまった。
智恵伊豆が将軍を危険にさらすような、そんなことをするワケがない。

まあ、結果論からいえば大火以前から手を付け始めていた再開発は
やりやすくなった訳だし、本妙寺はお咎めなしとか不審な点も多いのは確かだし、
名将とか名政治家と後世に称えられる人は冷酷な面も持ち合わせてはいるけどね。



※大火後に詠まれたという狂歌の正解はこちら↓。

・武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ
・有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし


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最終更新日  2016年01月24日 15時23分16秒


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