戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年05月14日
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カテゴリ: 江戸めぐり
牛島に運ばれた遺体は、20間(約36.4m)四方の穴に埋められた。

いやでも、焼死体が多かっただろうから多少サイズは小さくなってたカモ・・・
いや待てよ、大火の犠牲者は焼死だけじゃなく、大川をはじめとする水辺での
死者も相当数いたはずだしな。

火から逃れようと堀や川に飛び込んだものの、
おそらく石垣だったら垂直なラインじゃなく下方が張り出してるから、
石垣に激突して死んだ衆も多くいたようでね。
あと、溺死もいるしね。


見つけたので、そこまでの距離を見やって思わず穴のサイズを目測しました(笑)。
結構、デカいね。
ただ、万単位の人間が収まるものか・・・
かなり深く掘らないと、難しいだろうなあ。


回向の任に当たったのは増上寺。
明暦当時の立場を考えたら、適任だな。
寛永寺が徳川の菩提寺となるのは、家綱・綱吉が続けて
寛永寺に葬られて以降の話だからね。( 「上野第一編(4)」 参照)

幕府は寺社奉行を増上寺に派遣して大火の犠牲者の法要を営むように命じ、
300両の経費もあわせて下賜。

無縁寺と呼ばれたこれが、回向院のスタート。

2月26日からは増上寺23世遵誉(じゅんよ)上人貴屋(きおく)が
一山を率いて盛大な法要を行った。
貴屋は小石川智香寺の信誉上人貞存を無縁寺の住職に指名。
貞存は貴屋を開山に戴いて、みずからは2世を名乗った。


無縁寺・・・というか埋葬地が完成するまでの間、
山と積まれた死体のある牛島に簡素な小屋を設けて、そこで昼夜を問わず
鉦を鳴らしながら死体の山の前で何日も念仏を唱えていたという。

万を超える死者の宗派はそれぞれ違っていたので、
はじめ諸宗山回向院無縁寺と称し、のち増上寺に組み込まれて
山号を国豊山にあらためた。
現在ではまた元の諸宗山に戻したみたいだけどね。

『明暦の大火』に掲載されている『むさしあぶみ』の絵を見ると、
土饅頭どころじゃないくらい高く盛られたデカい土の塚が描かれている。
茶碗の深さと同じくらいご飯をぺたぺたと盛り上げたお茶碗の真ん中に
箸をまっつぐ突き立てた画をご想像ください。
茶碗部分を除いたあれのデカいバージョンが埋葬塚の形状です。

無縁寺ができると、毎月18日・19日の大火発生日、つまり犠牲者の月命日には
江戸の庶民がこぞって参詣に訪れ、塚に五輪卒塔婆を並べたり
声高に念仏を唱える姿などが多く見られたという。



大火の後には大雪も降り、まともに寒さをしのげる家もない状況で
凍死する者も出たらしい。
誰もが不安と絶望で失意のうちにある中で、幕府は炊き出しや
インフレの抑制など様々な手を打った。

先代の家光時代の重臣たちが家光に殉死せず生き残ったことは
大きなプラスになったと思う。
中でも、松平信綱の冴えわたる頭脳と機転は随所で大活躍をした。

戦国を好きになって最初の頃は、戦国はホントに層が厚いなあ~と思っていたけど、
あの時代は厳しい環境の中で自分の中に眠る能力を最大限発揮して奮闘しなければ
生き残れなかった。

智恵伊豆・信綱ももともと頭のいい人ではあったんでしょうけど、
大ピンチにこそその能力が余すところなく生かされたんだから、
やっぱり時代が人を育てるんだろうな、って思うようになった。

名だたる武将や大政治家が現代の平和な日本に生まれていたら、
案外ぱっとしない平凡なサラリーマンで終わったかもね(笑)。
いやいや、平和が悪い訳じゃないですよ、もちろん。



さて、そういう信綱率いる幕府は、大火の後処理をする一方で
大火以前から構想のあった江戸大改造に着手した。
多くの大名家や寺社、それから町方も移転されることになり、
防火のために道路を拡張するなど、防災にも注意を払った都市計画が次々と実行された。

しかし、これまでの江戸市中の範囲ではすでに飽和状態となっていたのに、
「城の近くから出ていけ」と言われたところで、どうしようもない。
そこで登場するのが、大川を挟んだ対岸にある本所周辺。

『江戸東京地形の謎』(芳賀ひらく/二見書房)によると、
7000年前ころの縄文時代には今よりも海面が3mほど高く、
低い土地である本所なんかはすっぽり飲み込んで
かなり北の埼玉あたりまで巨大な入り江が広がっていたという。

海岸線が後退するにつれて、北から次第に陸地となり、
また入り江に注ぐ河川が運ぶ土砂の堆積により、陸地化が加速されたそうな。

明暦の頃には陸地部分がだいぶ増えていたものの、
寛永19年(1642)頃の古絵図を見ると、
本所には一部住居なども描かれているが、「田」が多い。

江戸博で買った復刻地図の中には寛永期のものと明暦のものがあるんだけど、
後代の地図に比べると簡素なもので、どちらも大川の東は絵図に描かれていない。
つまりはその程度の土地利用しかされてなかったんだろうけど、
明暦以前はまだ大川の東は下総国だったことも関係してるのかもしれない。


全然関係ないけど、西の方の旧国名って筑前・筑後のように前後の国名が多いのに、
なんで総(ふさ)の国は上下なんだろう?ってふと疑問に思いました。
うう?
でも毛野(けぬ)の国も上野(こうずけ:群馬県)と
下野(しもつけ:栃木県)だしな・・・

東国は上下方式なのかと思ったら、上下の付く国名は総の国と毛野の国しかない・・・
仕事中にとある場所に電話をかけたところ、えらい長く待たされたので
待ってる間、ネットで検索してみました(←まじめに仕事しろよ)。

どうも、上下方式と前後方式に分かれてる理由はわかってないらしいんだけど、
今までそんなの考えたこともなかったので、ちょっと面白いなと思いました

ま、それはともかく、 榛稲荷神社 の古碑には「総国当亀澤村」ともあったし、
確かに古くは大川の東は総の国に所属していた。

それを幕府が接収したのが大火の翌年の万治元年(1658)ごろで、
さらにその翌年には排水工事が始められたという。
やっぱし、かなり水っぽい地域だったんだな。

回向院のすぐ南には、東西にまっつぐ延びる細い川がある。
事前に調べている時、この川と垂直に交差する川なんかもあることを知った。

見るからに人工的な直線で、堀の役目を果たしていたのかと思ったら、
これは排水の役目もあったらしい。

排水工事は寛文3年(1663)のスカイツリー付近から大川へと通じる
源森川の開削で終了となった。
本所の干拓には掘割工事で出た土砂を当てたが、それでも足りなかったらしい。
相当広い地域の工事をしたってことだよな。

万治3年(1660)にはそれまで整地にあたっていた2人が本所奉行に任命され、
宅地化が着々と進められていった。
古くは海だった地域なら、真水は出たのか?と思ったら、
万治2年に亀有上水が本所の武家屋敷の飲料水として引かれたらしい。

万治3年には松平綱吉(のちの徳川綱吉)が本所に屋敷地をもらって
蔵屋敷を建てたので、輸送に関わる商人なども移り住んできた。

寛文元年(1661)はひとまず干拓が終了したようで、
この年から武家屋敷の建設ラッシュが始まった。

もともと本所の干拓は武家地とする目的があったので、
初めのころは町方が移転してくるのは幕府の再開発によって
追い出された町がほとんどだったという。

それでも、大火から5年が過ぎる頃には浅草の9町を上回る
14町が本所に成立したという。
そして、おそらくこの頃に下総国から武蔵国に所属が変わったものと思われる。



とゆーことで、前々回両国付近は意外に歩きやすかったと書きましたが、
歴史を知ればそれも道理。
初めから大規模新興住宅地として開発された土地だったからのようですね。

ウィキペディアによると、無縁寺ができた場所は
それまでは処刑地だったとある。
江戸の外れにあった本所エリアは、水っぽくて草ボーボーの
さみしい土地だったのかもしれないと思った。

が、空前の大災害となった明暦の大火はさみしかったイナカの本所を一新させ、
江戸随一の繁華街を作り上げた。


ここまでの記事でも色々な事を書いてきましたが、
本所両国を構成する主な要素がこれで出揃いました。

本シリーズもぼちぼち終わりに近づいてきましたが、
この後も主要構成要素が顔を出しますので、
皆様がそれぞれに脳内メーカーならぬ本所メーカーを作り上げて
歴史が作り上げた両国をお楽しみいただければ嬉しいです。


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最終更新日  2014年06月29日 08時49分53秒


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