戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年06月22日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
清水観音堂のすぐ東には、彰義隊の墓がある。



上野3・彰義隊の墓5



真ん中の植え込みの奥にちらりと見えてる赤いのが、観音堂。
で、ベンチの脇に、アスファルトの地べたにシートを敷いて
彰義隊の墓への入口にも関わらず他人の迷惑かえりみず弁当食ってる
カップルがいますが、なにもあんなとこで食べんでも・・・
山内は広いので、動物園でなくても色んな人間がいます。
て、いっか~ん、まだ毒舌自粛中のハズだった(笑)。 



上野3・彰義隊の墓



 【彰義隊の墓(台東区有形文化財)

  江戸幕府15代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて
  江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、
  慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に
  同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを
  目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。

  慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は
  同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置
  されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。

  正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が
  密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治14年

  明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、
  旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。

  平成2年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


解説版はもうひとつある。



  (1868)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために
  同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への
  不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、
  やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦5月15日の上野戦争は、
  武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。

  生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874)年にようやく新政府の許可を得て、
  激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。
  なお、遺骨の一部は南千住円通寺に合葬されている。以後、120年余りに渡り、
  小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は
  東京都に移されている。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


上野3・彰義隊の墓4-2



↑こちらが2つめの解説版にある「彰義隊奮戦之図」で、
【小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、
史実に忠実な絵と伝えられている】との解説がある。

んで、こちらが墓石のアップ↓。


上野3・彰義隊の墓2



江戸には山岡鉄舟の書の石碑が多いなあ。

大きな墓石の「お前立て」のようになっちゃってるのが、
1つめの解説で「寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が
密かに付近の地中に埋納したもの」とあるものと思われ、
「彰義隊戦死之墓」と刻まれている。

解説によると、まさにこの場所で戦死者の火葬が行われたようだけど、
それをしたのは寛永寺の僧ではなく、円通寺住職の仏磨(ぶつま)さんと
三河屋幸三郎さんだそうな。

なんで寛永寺がノータッチなのか、 「上野第一編(13)」 なぞを
思い出してほしいんですが、上野戦争の時点では寛永寺関係者はすべて
山内から退去させられており、明治2年2月26日まで
戻ることができなかったからです。

浦井正明氏の本にはさすがにこの点について詳しいので、
『上野寛永寺 将軍家の葬儀』(吉川弘文館)を参考に
少し経緯を補足します。


上野のお山でも南にシッポのように突き出たこのあたりは、
山王台と呼ばれる。
かつてはこの場所に山王社があり、そこからの名称と思われる。

長州人・大村益次郎の立てた作戦にのっとって薩長軍は3方からの攻撃を開始。
寛永寺の正門ともいうべき南の黒門は西郷(せご)どんが指揮を取り、
彰義隊側は山王台から砲撃して応戦した。

この黒門から山王台付近が上野戦争での最大の激戦地と一般に言われるが、
浦井氏はこの説については懐疑的だという。

それはともかく、ひとまず荼毘に付されて供養はされたものの、
墓石のようなものは当初はなかったらしい。

で、寛永寺関係者の帰山が許されると、寒松院の住職・多田孝泉と
護国院の住職・清水谷慶順の両氏がさっそく供養に乗り出したらしいが、
その当時はまだ朝敵であった彰義隊士の弔いは禁止されていたので、
ごく小さな石に建立者の名前として寒松院・護国院からそれぞれ一字を取って
「沙門松国」(しゃもんしょうこく)という匿名を刻んでこの火葬の地に埋めた。
これが初代の墓石にあたるという。


明治7年になると、2つめの解説にあるように小川興郷らの発案によって
墓所建立のための募金活動が行われた。

上野戦争後、明治政府は彰義隊および彼らに加担した人までも朝敵として、
それらに関する報道を厳しく規制した。

とは言っても、江戸っ子に彰義隊の人気は高く、
元禄赤穂事件が「忠臣蔵」というフィクションに置き換えられて
演劇や浮世絵となって世の人気を博したように、
上野戦争も本能寺の変や本願寺の石山合戦などに設定を置き替えて、
作者も版元も匿名で錦絵として出版されていたそうな。

その報道規制が解かれた時期というのははっきりしていないらしいが、
浦井氏は墓所建立の許可が下りた明治7年だろうと推測しておられる。
というのも、同じ明治7年には、政府の検閲の跡が見られながらも、
正面から彰義隊を扱った出版物が出ているんだそうな。

さらに、彰義隊士の親族や友人・知人による祭祀が
初めて許可された年でもあるという。
そして、めでたく青銅製・宝塔型の大きく立派な2代目の墓が建立された。

ところが、どうも集まった資金に見合ったものを作ったのではなく、
先に立派なものを建ててしまったようで、せっかくの立派な墓は
その後借金のカタとして没収、さらに解体されてしまったそうな。

『上野寛永寺 将軍家の葬儀』には三代・歌川広重が描いた
2代目の墓の絵が載っている。
小高い場所に基壇を高く造り、その上に大きな宝塔が載っている。
浦井氏は

 【おそらく、当時の人びとは明治政府をはばかって、積極的な援助を
  しなかったのであろう。】
  (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)

と語る。


して、明治14年、3代目の墓が建立され、
地中に埋められていた初代の墓石も掘り返され3代目の前に置かれた。
これが、現在見ることのできる墓です。

明治7年以降、政府は彰義隊周辺に関する報道規制を
少しずつゆるめていったらしいが、

 【ただ、そうはいっても、旧幕府側の気兼ねがこの段階で一掃されたわけ
  ではない。明治十四年に建てられた三代墓の表面の山岡鉄舟になる文字が、
  ただ「戦死之墓」とのみ書かれ、そこに「彰義隊」の文字がまったく
  見られないことは、なによりもこのことをよく物語っているといえよう。】
  (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)


なるほどね。
そういうことであれば、2代目の墓石に十分な資金が集まらなかったのも
無理はないよな。

ここにはこんな水盤らしきものがあったんだけど↓


上野3・彰義隊の墓3



正面に彫られているのは紋かと思ったら、彰義隊の「義」の字にも見えるなあ。
とすると、水盤自体は結構古そうにも見えるけど、
3代目の墓石が建立された後、しばらく経ってからのものかもしれないな。

表面は一部剥離してるようだけど、銘が見られるか
清水観音堂へのお礼参りの後にでも確認してこよう。


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最終更新日  2014年06月22日 22時11分59秒


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