戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年06月23日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
彰義隊の墓のすぐ南、山王台の先っぽは人気のスポット。


上野3・西郷隆盛像



ガイジンも日本人も、みんなここで写真を撮ってます。
もうおわかりですね。


上野3・西郷隆盛像6



散歩中のむさしま・・・じゃねえ、西郷(せご)どんの銅像です。

ここには「旧 上野恩賜公園」についての解説版がありますが、
寛永寺時代から公園化までの大まかな歴史はこれまでの記事で書いてますので、
恩賜公園についてだけ紹介します。



  下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など
  我が国有数の都市型公園として整備された。面積62万平方メートル余り。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 


西郷どんの載る台座には、略歴が書かれている。
少し長いですが、全文紹介します。


 【西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に
  生まれた。通称吉之助、南州はその号である。若くして、藩主島津斉彬に重用され、
  幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流される
  こと2回。元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて
  一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年
  (1867年)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、


  その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、
  江戸を戦禍から救ったことは余りにも有名である。その後は故郷に退隠したが、
  明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、
  参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果した。

  然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣に

  内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。
  私学校を興して後進青年の育成に努めた。

  明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、
  転戦7カ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。
  そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を
  除かれ、正三位を追贈された。

  この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を
  表わすべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を
  得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村高雲の作である。

  西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の
  所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに
  在るのである。】
  (漢数字は戦国ジジイが変換)


西郷どんの写真といえば、ぎょろりと大きな目にでっぷりした身体が特徴的だけど、
そもそも西郷どんというお人は写真が大ッキライだったそうで、
あの有名な写真も実は近親者のパーツを合成したものだとかいうし、
この銅像の除幕式で妻のイトさんが

「あたいのダーリンはこげな顔じゃねわ!」

って絶叫したとかいうし、彰義隊士の霊魂を封じるためにこの山王台に置かれたとか
呪術的でウソくさい話まで、とにかくこの像にはいろんなエピソードが
ございますが、ひとまずここでは浦井氏の『上野寛永寺 将軍家の葬儀』から
あまり知られていないんじゃないかというお話をご紹介しましょう。


この銅像のスケジュールは明治26年(1893)、

 3月15日 立案・届出
 3月22日 東京都知事の決裁が下り、宮内大臣・土方久元へ提出
 4月11日 大臣・次官以下の決裁が下り、建立が許可される

という、届出からひと月経たないうちに許可されるという異例のスピード。
が、浦井氏が入手した「上野公園内関係記録写」によると、
その前段階があったらしい。
それによると、

 明治23年8月8日  建立の出願。建設予定地は上野ではなく、「宮城正門外」。
            つまり、皇居前だったそうな。
 同24年9月14日  建立の許可が正式に下りる。
 同25年12月8日  突然、却下。通達には「右は詮議の次第これあり取消候
            出願人に相達すべし。但し上野公園地内に建設の望み
            これあり候えば博物館長に協議の上場所撰定更に出願
            致さすべし」

という流れで、突然の却下にもめげず「上野ならいいよ」という但し書きを踏まえて
再出願したのが明治26年なんだそうな。
一旦許可が下りてるものだから、スムーズに話が進んだってことかな。

して、明治26年の許可書には

  右取り調べ候処、故西郷隆盛儀はかつて中興の元勲、国家の柱石として
  内外の許す所にこれあり、不幸末路大筋を誤り、一旦賊名を負い候とも、
  天恩隆渥、いくばくもなく朝廷その罪を赦し、ついてまた贈位の御沙汰も
  ありなされ云々
  (通達部分はいずれも『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より。
   少し読みやすくしてます)

とあるそうで、西南の役で朝敵となったことがネックだったらしい。


それに、このラフな姿ね。
現代の私達にはどう見てもくつろいだ散歩姿にしか見えないけど、
犬の散歩じゃなく、ウサギ狩りの姿らしいです。
が、明治の元勲の銅像にしてはどうも・・・

ウィキペディアによると、

 【この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、
  西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い
  本来の姿にこそあるとして発案した。】

という深い考えが基にあるらしいけど、

 【上記大山巌の言い分も、まだ西郷への反感を持つ政治家が多かった時代、
  明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景に
  あったと考えられる。】

というもっともな推測も書かれている。

イトのセリフは、顔が似てないというよりも、
こんな普段着で人様の前に出るような礼儀知らずな夫じゃない、
という解釈もあるそうな。


西郷どんを盟主に押し立てて士族が反乱を起こした
西南の役は明治10年(1877)。
当初は軍服姿の騎馬像にするという計画もあったらしいが、
まだ西南の役が記憶に新しい時期では、ちょっとインパクトがありすぎるだろう。

ウィキペディアには、西郷どんが連れてる愛犬「ツン」は
本当は女の子だったのに、オスの実在の犬をモデルにして作ったとか
西郷どんの像に紙玉を投げつけるという不届きな行為が流行り、
鼻に当たると出世するといわれたとか笑えるエピソードも色々書かれてるけど、
この風貌でこの姿だからこそ「上野の西郷さん」として
今も庶民に親しまれ、愛されていることは疑いのない事実だろう。


西郷どんの像の近くの植え込みにも石碑がある↓。


上野3・西郷隆盛像4



この石碑の正面にはベンチが置かれていて、
あいにくカップルが座っていたのでやむなく脇から撮るにとどめました。
ちょっと、ベンチの場所、考えてほしいんだけど・・・
ウラ↓。


上野3・西郷隆盛像3



 【大正12年9月15日 摂政殿下大震災の惨状御視察に際し、畏くも此地より
  御展望遊され被害の情況を聞召さる。越えて7歳昭和5年3月24日天皇陛下
  此に臨御あらせられ親しく街●の復興を曫はせ給ふ。乃て石を此處に樹て以て
  聖恩を不朽に傳へんとす】
  (漢数字は戦国ジジイが変換)


「摂政殿下」は昭和天皇のことで、まだ即位前ですね。

関東大震災当時の摂政宮の動向は、昭和天皇記念館と宮内庁の公文書館の共催による
「摂政宮と関東大震災」の図録に詳しい。
それによると、震災当時、宮は皇居におられたが、
皇居内でも火事があったのかすみやかに滞在していた赤坂離宮へ避難されたそうな。

その直後から、摂政として情報の収集や対策を伝達するなど、
忙しくしておられたらしい。

この石碑にある9月15日からは各地を視察。
市ヶ谷、九段、水道橋、日本橋、半蔵門、四谷など皇居周辺を回られた。

 【摂政・皇太子の立場にある方が、発災直後に直接現地を視察されることは
  明治以来初めてのことであった。】
  (「摂政宮と関東大震災」より)

午前6時に少数の供を連れて、赤坂を出て上野に着いた宮は
馬から降りて被害状況の報告を受けたという。

 【上野公園の高台からは市街地が一面焼け野原であった様子を眺望された。
  また、上野公園への避難者は、最大で3、40万人にも及んだと言われており、
  罹災者のバラックが所狭しとひしめいていた。安定した環境が確保されて
  いるとは到底言えぬなかでの行啓であった。】
  (「摂政宮と関東大震災」より)


うん、やっぱ寛永寺からの江戸の眺めはよかったんだな~・・・じゃなくて、
混乱の中で皇太子の立場にある、というかおそらく皇族初の罹災地の
現地視察になるんじゃないのかな。

この宮の姿勢が、災害が発生すると皇族が現地へお見舞いに向かうという
現在の状況にも引き継がれているのだから、
西郷どんの近くにあるこの碑はそのスタート記念とも言える。

ちなみに、宮の御婚儀はこの年11月下旬と決まっていたんだそうな。
上野を視察した翌日は下町などを視察。
婚儀を延期するか否かで意見が割れていたため、
16日の視察から帰った宮に意向を聞いたところ、




というお言葉だったので、翌年の1月に持ち越され、
さらに質素なものに抑えたんだそうな。

その他にも、御下賜金を振る舞ったり、御料地を開放したり、
御料林の木材の伐採の許可、炊き出し・・・
など宮内省を含め様々な対策が打たれたらしい。

その間の儀式はどうしてたのかなど、
「摂政宮と関東大震災」には興味深い内容が多く書かれているので、
興味のある方はぜひそちらをご覧ください(ネットで見られます)。

で、昭和5年3月24日、各地で復興記念のイベントが開かれ、
上野にも行幸されたことを記念してこの石碑ができたようです。

終戦直後の全国への行幸も大変なものだったと思うけど、
未曾有の大災害直後の、しかも初の試みだったんだから、
もう少し詳しい解説版でも置いていいんじゃないかと思うけどね。

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最終更新日  2014年06月28日 11時40分28秒


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