戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年07月10日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
さて、現地の紹介に入る前にちょっと歴バナ入れま~す。

叡山の歴史でもなく、延暦寺を開いた最澄の話でもありません。
時代は少しさかのぼりまして、奈良時代のラストです。

実はそんな話、書かなくても旅日記は進められます。
私だってその辺のことは井沢元彦氏の『逆説の日本史』ぐらいしか読んでないので、
書かない方がラクなんです。

ここで書かなくても他に書くチャンスもいくつかありそうですが、
ここで書きたいんです。
なんとなく。


「奈良」と『逆説の日本史』で少し前の記事を思い出した方も多いでしょう。

そうです、アシュラン(興福寺阿修羅像)に端を発して書いた、
天平の歴バナのその後について、『逆説の日本史』から再び紹介したいと思います。

ただ、今回はかいつまんで流れを紹介するにとどめます。
ちゃんとした井沢理論を知りたい方は、『逆説の日本史3』をご覧になってください。

聖武天皇&藤原光明子夫妻を中心とする天平の歴バナをおさらいしたい方は
「春の寛永寺(7)」 ~ 「春の寛永寺(17)」 をご覧ください。


井沢氏は藤原氏のことを「寄生虫」だと表現した。

 【寄生虫(藤原氏)が本来宿主(日本国)に行くべき養分を途中で吸い取ってしまう。
  そのことによって宿主は痩せ衰え死にかけるのだが、寄生虫は宿主がどうなろうと

  (『逆説の日本史3』/小学館より)


これは公地公民制を骨ヌキにした脱税の一手、
墾田永年私財法について述べたものだけど、なかなかうまい例えだと思う。

ただ、寄生虫がどんなに肥え太ろうとも、寄生虫が宿主に取って代わることはない。
あくまで、あ~く~ま~で藤原氏は天皇家および日本国に取りついた


そもそも「藤原氏」という名前も絶妙らしい。
藤原氏のシンボルは藤の花、その氏神である春日大社の神紋も「下がり藤」。

 【藤原氏のシンボルが「藤」であることに注意しなければならない、と述べたのは
  梅原猛氏だった。これは卓見である。(中略)他物にからんで成長するのが、
  藤なのである。つまり、「からみつくための他物」が無いと藤は生きられないのだ。

  あくまで「他物」を主とし、自らは「従」となる。これが藤原氏の行動原理である。
  その行動原理を、まさに「藤」というシンボルは見事に体現しているのだ。】
  (『逆説の日本史3』より)

では、これを踏まえて先へ進めます。
今回は聖武&光明子の娘で父の跡を継いで女帝となった阿倍内親王、
およびその周辺にうごめく寄生虫たちが主役です。



藤原氏の血をひく阿倍内親王は、父・聖武天皇が譲位したことにより
天平勝宝元年(749)に31歳で即位し、孝謙天皇となった。
もちろん独身です。

本人の意思に関係なく、周囲の事情で勝手に結婚できなくされた彼女は
ストレスの塊となり、愛人をそばに置いた、と世間では多く語られるらしい。
愛人説こそ否定するものの、井沢氏でさえ嫁に行けなくなったことが
孝謙天皇の心にストレスとなってのしかかっただろうという見方をしている。

のちの彼女の頑張りを見るに、それも男性の立場ならではの偏見じゃないかとも
思うんだけど、それはともかく、井沢氏によると世間一般の解釈は

 【称徳天皇(孝謙天皇のこと:ジジイ註)は多情な「惚れっぽい」女だった。
  初めは藤原仲麻呂と愛人関係にあり、「恵美押勝」(恵美は「見るたびに
  微笑ましい」という意味=『水鏡』)という名前まで与えて太師(太政大臣)
  に任じ重用した。しかし、そのうちに道鏡と急接近し、仲麻呂は俗にいう
  「振られた」形となり、反乱を起こし殺された。

  そして、そのことに不満を抱いた淳仁天皇も廃位された上に抹殺された。
  そして女帝は「愛人」の道鏡に皇位を譲ろうとしたが果たせず、失意のうちに
  死去した。】
  (『逆説の日本史3』より)

だそうな。

井沢氏はこの通説に疑問を持ち、2人の「愛人」を検証している。

まずは藤原仲麻呂。


天平後半系図-2



「春の寛永寺」で使った系図ですが、藤原四兄弟の長男・武智麻呂の子が仲麻呂。
光明子には甥に当たり、孝謙天皇から見れば母方のいとこに当たります。

実は仲麻呂さんは 「春の寛永寺(16)」 にも登場してます。
安積親王の殺害犯と言われる人です。

安積親王の殺害にはどう見たって光明子の思惑が絡んでいる。
その意を受けて仲麻呂が実行に及んだとしたなら、
仲麻呂と光明子は親密な間柄だろうと見るのが自然。

孝謙天皇が即位した時、母である光明子が後見に付いたらしい。
仲麻呂愛人説のもっとも大きな理由としては、
彼が異例の出世を遂げたことだそうだけど、井沢氏によるとこれは
孝謙天皇の引き立てではなく、光明子によるものだという。

まずは紫微中台(しびちゅうだい)という新たに設置された役所の長官となった。
これは元々あった皇后を補佐する直属の役職を改めたものらしいが、
単に名称を変えただけではなく、【皇太后となった光明子が新たに即位した
孝謙天皇を補佐して大政を行うための機関】(『人物叢書 藤原仲麻呂』)だそうで、
娘の補佐と言いながら、その実権は光明子が握っており、
仲麻呂はその役所のトップに就いた。

 【この紫微中台という役所は、律令の規定にない令下官(りょうげのかん)である。
  (中略)つまり、紫微中台とは「天皇になれなかった皇后」光明子が、正式な
  政府である太政官から権力を奪うために設けた機関であるということだ。】
 (『逆説の日本史3』より)


こうして出世街道を走り始めた仲麻呂は、実の兄である右大臣を追い落とす。
こういう状況に危機感を抱いた橘奈良麻呂は天平宝字元年(757)に
乱を計画するものの、あっさりバレた。
乱に加担したと見なされた者は過酷な処分を受け、皇族でさえも容赦せず
幾人も獄死したという。

獄死したとされる人の中には道祖王(ふなどおう)がいた。
この人は聖武天皇の遺言により皇太子となったが、
奈良麻呂の乱の4ヶ月前に素行不良を理由に廃太子された。

道祖王に代わってあらたな皇太子に立てられたのは、
仲麻呂の息のかかった大炊王(おおいおう)。
大炊王の立太子によって、仲麻呂の権力も当然増大する。


奈良麻呂の乱ののち、孝謙天皇は譲位して大炊王が淳仁天皇となった。
井沢氏はこの時期は光明子&仲麻呂と孝謙天皇&太政官の二極構造になっており、
ゆえに仲麻呂は孝謙天皇の愛人どころかライバルだったとする。

もし本当に仲麻呂が愛人だったのなら、太政官の権力を削ぐような令外官なんか
設けずとも、右大臣やら左大臣に引き上げていただろうというのだ。

して、邪魔者の孝謙天皇が退位したあと仲麻呂の権力はピークに達し、
貨幣鋳造権と税徴収権という大権を淳仁天皇から与えられた。
そして、朝廷の役職をすべて中国風の名称に改めた。
井沢氏によると、仲麻呂は重度の「中国かぶれ」だったらしくてね。

淳仁天皇の即位の2年後には、平民出身で初の太政大臣に就任した。
同じ頃、仲麻呂が壮大な野心を抱く出来事が大陸で起こっていた。


海を挟んだ当時の中国は、唐。

どこから聖女伝説なんて生まれてきたんだって笑えるぐらい、
ギラギラした光明子を中心に日本が血なまぐさいバトルをしてた時期、
お隣の大国では有名なラブロマンスが進行中だった。

唐のロマンスといえば、玄宗皇帝と楊貴妃ですよ。
世界の中心(=中華)で愛を叫んだ結果、安禄山などが反乱を起こして大混乱となった。

天平宝字2年(758)にこの報告を受けた仲麻呂は、大宰府に防備を固めさせた。
と同時に、唐の影響力の低下した新羅への征討を計画する。

なぜ新羅を討伐するのか?
当時の超大国、「中華」であった唐へは周辺諸国が朝貢していた。
唐と地続きで、海を隔てた日本よりも唐の影響が強い新羅も
当然朝貢しており、唐に対して臣下の礼を取っていた。

が、柔軟な政策を取っていた当時の新羅は、日本にも朝貢をしていたらしい。
しかし、元々日本に心服してそうなった訳でなし、
唐の勢力が強くなるに従って日本への朝貢をサボるようになっていったそうな。

「春の寛永寺(14)」 で、天平の頃にも新羅との関係が悪化したと
少し書いてますが、こういう事情が関係してるんだろうな。

朝貢してるくせに生意気な新羅をこらしめちゃお~・・・
と他人様の不幸につけ込んで「征討」に胸膨らむ仲麻呂は、
天平宝字6年(762)を来たるべきXイヤーと定め、
500艘の船を作らせるなどの準備に取り掛かった。

 【この時代からほんの百年前、天智天皇は白村江で唐・新羅連合軍と戦って
  大敗北を喫し、亡国の危機すら招いた。そしてそのことが天智王朝の「滅亡」の
  原因となったのである。

  「また同じ過ちを繰り返すのか」と、当時の人々は考えたに違いない。仮に新羅を
  服属させられたとしても、唐が安禄山を倒して立ち直れば、その後は唐との
  全面戦争になる。当時の朝廷の関係者はこのまま仲麻呂政権を続けさせてはならない、
  と思ったはずだ。】
  (『逆説の日本史3』より)


しかし出兵前の天平宝字4年(760)、光明子が死去。
仲麻呂には大きすぎる痛手。

出兵予定の年の天平宝字6年(762)、上皇となっていた孝謙天皇は
それまで住んでいた近江の宮を出て平城京に戻り、淳仁天皇から実権を奪い返した。

 【昔の歴史では、この一連の動きを、「女帝は初め愛人の仲麻呂を愛していたが、
  そのうち道鏡が出現したので仲麻呂を捨てた。それに怒った仲麻呂が反乱を
  起こしたのだ」と説明していた。(中略)だが、これは単なる「色恋沙汰」に
  基づく政変ではない。日本の基本的な外交方針をどうするかという、「国策」の
  問題だったのだ。】
  (『逆説の日本史3』より)


孝謙天皇のクーデターにより、海外遠征は中止。
その2年後の天平宝字8年(764)、巻き返しを図る仲麻呂は乱を起こし、敗死。
乱の翌月には淳仁天皇をリコールして孝謙天皇が重祚し、称徳天皇となった。

淳仁天皇は淡路に流されたが、淳仁の復帰を目論む輩が通うなどの不審な動きもあり、
翌年に逃亡して捕らえられ、その翌日に死去。

 【公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が
  行われたことを示す記録も存在していない。】
  (ウィキペディアより)

仲麻呂と組んで国のピンチを招いた淳仁に対する称徳天皇の目は厳しく、
廃位された後は「上皇」とは呼ばれなかったし、それどころか諡(おくりな)すら
与えられなかった。

「淳仁」という諡号は、なんと明治に入ってから明治政府が贈ったものだという。



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最終更新日  2014年10月07日 09時28分26秒


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