戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年07月16日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
あ~、また更新が遅くなりまして申し訳ございません。
日曜からずっとカゼで寝込んでおりまして、今日まで仕事もお休みしてたもので。

今年は私の職場では、長引くカゼが流行っております。
みんなひどく咳こむタイプで、私のは単に寝冷えで職場でうつされた訳じゃないですが、
それでもやはりノドがやられまして、昨日の日中なんかは
薬が切れてくると咳で苦しい思いをしましたし、
夜はせき込んで眠れなかったので、皆様も夏カゼにはご注意くだされ。

ところで、今回もらった薬の袋の裏側にはこんなことが書いてありました↓。


おくすりぶくろ



昼に薬を飲んだ時にこれを見つけて、
一体どういう意味なんだろうかといまだその真意がわからずにおります




で、前回は愛人1号・・・どころか称徳(孝謙)天皇のマジなライバルだった
藤原仲麻呂と淳仁天皇が倒れるところで終わりました。

ウワサの愛人2号は、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)。
こちらは愛人としての知名度は仲麻呂よりはるかに高く、そして根強い。

単に愛人というだけでなく、「巨根の人」というイメージが世間では非常に強く、
すまほで「道鏡の画像」を何気に見ていたら、
巨根伝説に由来すると思われる男性性器をかたどったオブジェの数々・・・

歴史ファンでも、みんな当たり前のように道鏡の巨根説を
面白おかしく書いてる人が多いことに今さらながら驚きました。


もしかしたら愛人説を否定しているのは今もって井沢元彦氏ぐらいかもしれない。

まあ、私も詳しいことは知らないし、色んな見方があっていいとは思うんだけど、
井沢氏の語る道鏡像については私はおおむね支持しているので、
引き続き『逆説の日本史3』から仲麻呂の後についてご紹介します。

本当は、本シリーズに多少関係するのは愛人2号の方。

1号はどうしても外せない存在なので、ついでに書いたようなもんです(笑)。

でも、聖武&光明子の後がどんなバトルを経て
奈良から平安へ移行するのか、天平歴バナの続編という意味では
前回の話は無意味じゃないんだけどね。


え~と、それでここからさっくりと道鏡さんの話に移りたいんですが、
その前にちと簡単に日本における仏教史なぞ。

毎度のことながら回り道の多いわたくしのブログですが、
ま、叡山が主役のシリーズでもあるしね。
少しずつ仏教についても勉強していかないとね。


学生の頃は世界史の方ばかりやっていましたが、
歴史好きのゆえか、ろくな勉強をしなかった日本史の教科書も
今もって大事にとってあります。

教科書だけ読んでても歴史の流れってスムーズにつかめないんだけど、
この数日、寝込んでいる間に日本史の教科書を少し読んでみたところ、
多少の個別の知識を持ったあとに読んでみると、
さすがにポイントは押さえているな~と思って(当たり前です)、
読んでて面白かった。

ので、せっかくだから手持ちの古い教科書、
『高等学校 日本史』(清水書院)からも少し引用しつつ話を進めますね。



邪馬台国、ヤマト政権の研究って現在はどうなってるんだろ?
ま、私がこの教科書を使ってたのは大昔の話なので、
最新の研究結果とズレがあったとしてもご容赦ください。

ところで、「やまと」勢力の表記ひとつでも随分もめてるらしいですね。
私の持ってる教科書では「大和政権」ってあるけど、
同義語として使われる「大和朝廷」なんて言葉もそぐわないとか、
興味のない人には「どうでもよくね?」って議論が真剣に交わされているらしい。
ひとまずここでは引用部分以外は「ヤマト政権」としておきます。

清水書院の教科書では、4世紀の初めに高句麗が強大になり、
半島の南部では韓族が統一国家の形成を進め、
4世紀中頃に百済と新羅が成立。
同じ頃、呼応するかのように日本でもヤマト政権による支配国家が成立したとある。

 【4世紀前半、畿内地方に集中して出現した大規模な前方後円墳は、豊富な副葬品を
  ともなっている。このことから、かなり大きな権力をもった複数の豪族(王:きみ)
  がいたことが推定される。(中略)このような畿内地方の豪族たちが、しだいに
  もっとも有力な豪族(大王:おおきみ)のもとに連合して形成したのが、
  大和政権であったと考えられている。(中略)

  5世紀の巨大古墳の築造に用いられた土木技術や、大陸系の副葬品などは、朝鮮半島
  からもたらされたものであった。(中略)5世紀には、5人の倭国の王(倭の五王)が
  中国の南朝に朝貢してその冊封を受け、朝鮮における政治的立場を強めようとした。 

  倭の五王の意図は、必ずしも成功しなかったが、4,5世紀の対外活動を通じて、
  朝鮮とくに百済から日本に移住してくる渡来人が増え、中国南朝や朝鮮の文化が移入
  されて、大和政権の国内統一は、いちだんと進んだ。また、統一の進展にともなって、
  朝廷は、5世紀ころから氏姓制度という独自の支配組織をととのえながら、各地の
  豪族を支配下に組み入れていった。】
  (『高等学校 日本史』/清水書院より)


と、こういう背景のもと、仏教が日本にやって参ります。

え~、 「春の寛永寺(5)」 では仏教が誕生した後、イランやインドでの
先住の神々との争いの神話なぞ紹介しましたが、紀元前6世紀にインドで生まれた仏教は
1世紀頃にシルクロードを通じて中国へ入った。
ところが、

 【中国では仏教は胡族(辺境の異民族)の信仰だった。仏教が広まるのは
  容易ではなかった。】
  (『日本仏教史入門-基礎史料で読む』山折哲雄・大角修著/角川選書より)

だそうな。

1世紀というと、後漢の時代で漢民族の王朝だけど、
この後は五胡十六国の長い分裂時代に入って、
中華の人の言う胡族による支配もばんばん出てくるので、

 【その五胡諸国の王たちは、同じく外来の仏教に宥和的で、中華文明圏での
  国家仏教への道を開いた。】
   (『日本仏教史入門-基礎史料で読む』より)


中国が仏教を受け入れたとなると、地続きの朝鮮半島でも追従する動きが見られ、
高句麗が372年、百済が384年、新羅は少し遅れて528年に
国家による仏教の公認がなされた。

して、『日本書紀』に書かれる仏教伝来が552年。
関係する部分だけ、いつもの超現代語訳でご紹介します。


   欽明天皇13年10月、百済の聖明王(あるいは聖王)が使者を遣わして
   金銅の釈迦仏像1体といくつかの荘厳具、経論数巻を献上した。
   使者が称えて言うに、


「これは多くの法の中でも最も優れたものですよっ!
    こんなの簡単に出会えるもんじゃありません。
    なんせアナタ、かの周の賢王も、孔子も知ることができなかったんですからね。

    この法は実に広大無辺で無上の安息が得られます。妙法に祈り願えば、
    何でも思いのままです。ゆえに、天竺から百済・新羅・高句麗の三韓に至るまで、
    この教えに帰依してない国はないんです。

    ですから、帝(天皇)の臣下であるわたくし(聖明王)は家臣を遣わし、
    帝の国に仏法をお伝えしてその教えを広め、『我が法は東に伝わる』と
    仏が予言されたことを果たしま~す!」



しかし、中国でもすぐには受け入れられなかったし、
キリスト教も国教に昇進するまでは長い迫害の時期があった。
それと同じように、どんなに言葉を尽くしてその素晴らしさを称えようと、
日本でもすぐに受け入れられた訳じゃない。

使者の口上を聞いたあと、欽明天皇は

「ほ~、そんな素晴らしい教えを私は今まで聞いたことがない。
でも、自分では決めないでおくよ」


と話を列席の臣下たちに振った。

「どう?この仏の美しさ。
今までこんなの見たことないよ。
で、どうする?これ拝む?」


自分で決めないあたり、やっぱりまだこの頃の天皇は
豪族の集合体の頭に乗っかってるだけで、豪族の力が強かったことが窺える。
天皇の権威と権力が増すのは、大化の改新あたりを待たないとダメだな。
で、ここから有名な崇仏論争が始まります。

とりあえず、日本書紀の続きを紹介しちゃいますかね。




  「百済より西の国ではみ~んな仏に帰依してるんですよっ!
    ウチだけ帰依しないってことはないでしょ」


   物部尾輿と中臣鎌子は言った。

   「我が国の天下を治める天皇は、天地におわす180もの神々を年中祀って
    ずっと拝んできたんですよっ!ここで外国の神なんか拝んだら、我が国の
    神々の怒りを招くでしょう。あ~コワッ!!」


   天皇はこれを受けて、

 「じゃあ、稲目は乗り気だから、稲目に仏像を授けて拝ませてみよっか」

   稲目はうやうやしく仏像を賜り、小墾田(おはりだ)の自邸に安置した。
   のち、向原(むくはら)に仏像を移し、家を清めて寺とした。

   しばらくすると、国中に疫病が流行り、多くの者がばたばたと死んだ。
   疫病は長く続き、死者は増える一方だった。
   物部尾輿と中臣鎌子は


   「ホレ見なさい!だからワシらが言ったでしょーが!!
    今からでも遅くはありません。一刻も早く仏像を投げ捨てて、元のように
    神々をねんごろに祀りましょうよ。
    そうすれば、必ずいい方に向かいますってば!」


  と言ったので、天皇は

   「そうだね、そうしよう」

   と仰せになった。
   尾輿と鎌子らはすぐ仏像を大阪湾の湿地の水路へと投げ捨てた。
   ついで稲目の向原の寺に放火して全焼させた。
   すると、空に雷雲も出てないのに皇居に火災が起こった。 



単純に蘇我氏=崇仏、物部&中臣=神道信奉者で廃仏、
みたいな図式になってるけど、なにせ古い時代のことなので、
現代の私達がイメージする神道とは違うようで、『日本仏教史入門』では

 【そのころは氏族がそれぞれ氏神や山川の神をまつり、大王(天皇)の神=
  『古事記』『日本書紀』の天孫神話のもとに統合されていく過程にあった。】

と解説し、教科書では

 【仏教などの外来文化を受容し、その影響を受けながらも神祇信仰は、日本人の
  伝統的な民族宗教として、その後の社会や思想に大きな影響をおよぼした。】

とする。
てことは、見方によっては外来の宗教である仏教が入ってきたことによって、
祖先と自然物を祀る神道の「かたち」が整えられていったとも言えそうだよな。



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最終更新日  2014年07月16日 22時23分13秒


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