戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年07月19日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
やあ、咳で眠れない夜が続きましたが、
耐えきれず民間療法の王道、「大根の蜂蜜漬け」にすがったところ、
ぱったり咳が止まってようやく夜中に目が覚めることなく
眠ることができようになりました。

あゆみちゃんも昨日返却しました。
診察はもうこれでおしまいかと思ったら、
まだあと2週レントゲンで経過観察するらしい。
てことは、自分ではもうだいぶ順調モードだったんだけど、骨は完全じゃないんだな。
8月終わり頃に完治だな(←予定)。


頑張ればその1000日記念日に記事も800件とキリ良く揃えられたんですが、
7月に入ってから何かと忙しかったもので、しょうがないよな。

また地道に頑張りますサァー。



さて、前回の続き。
蘇我稲目(いなめ)が向原に作った寺は日本最古の寺といわれる。

教科書によると、当時は和珥(わに)氏・物部氏・大伴氏・蘇我氏・
羽田(はた)氏・巨勢(こせ)氏・葛城氏・平群(へぐり)氏などの豪族が
ぐるっと取り巻くように勢力範囲を持っていたらしい。

それらの古い豪族の出自はあまりはっきりしてないようだけど、
前回の教科書の引用文にあったように少なくとも5世紀には
朝鮮半島から人や技術や文化が日本に入ってきていたので、


百済と高句麗の仏教公認は5世紀よりも早いから、
人が入ってきたのであればそれに伴って
仏教だって前回の日本書紀のエピソード以前にも入ってきていただろう。

稲目は初対面の百済王の使者の口上に一目ぼれしたんじゃなく、
受け入れるだけの素地があったのかもしれない。


百済王からヤマトの王へ正式な外交ルートを通じてもたらされた故に、
552年の出来事を「公伝」というそうな。
(公伝は538年の説もあり)


対する中臣氏は神事や祭祀を受け持っていたというから、
外来の仏教に反発するのはまあ当然だな。

実は物部氏は排仏派じゃなかったんじゃないかとする説もあるらしいけど、
ひとまず一般的には蘇我稲目VS.物部尾輿の仏教バトルは
それぞれの子の馬子・守屋に引き継がれたとされる。


ちなみに、仏教を日本に紹介したとされる百済の聖明王は
実はわたくしのブログの中で数回名前だけ出てきています。

半島とのつながりが深いといえば、はい、そうです。
わたくしの愛してやまない大内氏の記事の中で~す

大内氏の祖とされる琳聖太子は聖明王の第3王子だというのですよ。
( 「山口編(21)」 あたり参照のこと)

ただし、琳聖太子の存在はその在世中の時期の史料では確認できず、
琳聖太子が大内氏の祖だとする話は大内義弘(1356-1400)の代からなので、
今のところ実在の人物ではないと見られている。

山口県下松市の琳聖太子の伝説 では、太子は来日したあと
聖徳太子に会ったということになっているけど、
もし本当に百済の王子が日本に流れてきたのであれば、
周防なんかに住みつくだろうか・・・

大内氏が中央に参画して家運が上昇中の時に、
家系にハクを付けるのに誰を祖にしようか?って考えた義弘が
唯一知っていた百済人が聖明王なんじゃないかって気もするけど

大内氏の氏寺・興隆寺の創建は寺伝によると推古天皇21年(613)。
仏教公伝からは少し期間が開くけど、たとえば百済滅亡(660年)の時に
日本に流れてきた多くの百済人のうち、一部が大内氏の初期の本拠地、
山口市の大内御堀(みほり)に住みついて、あるいはその中には
百済の王子の嫁の弟の奥さんのいとこの娘のダンナ、程度の
王族とゆかりのある人も混ざっていたかもしれない。

興隆寺の寺伝ほど古い時期ではなかったとしても、
その他の伝承と合わせて考えるとひとケタ世紀のうちには
半島系帰化人は大内御堀に住みついていたんじゃないかと思うけどね。

琳聖太子の伝承はフィクションの可能性が限りなく高いものの、
仏教の伝来と大内氏が関わりがあるなんてちょっと楽しいよね(私だけか)。


んじゃ、次の代へ移ります。
まずはこちらの系図をご覧ください。


古代王朝系図(第1ラウンド)-2



物部さんちの方は色々説があって詳しいことはわからないんだけど、
ひとまず馬子の主だった子は尾輿の娘との間にできた子としてまとめてます。

まずはこれが第1ラウンドで、あまり詳しいことはわからないし、
当時の婚姻関係は複雑で近親婚も多々ありますが、
主だった部分のみ長幼の順を無視して書いてますのでご了承ください。
数字は天皇の順番です。


馬子の代でも、オヤジと似たような物部氏との仏教バトルがあったとされる。
すなわち、敏達天皇の時に馬子もまた仏像をもらい受けて熱心に拝み、
3人の女性を尼とした。

馬子が病にかかった時、その原因を占わせたところ、
オヤジの代で仏像が破壊されたことが原因との結果が出たため、
天皇に願い出て仏法を篤く祀る許可をもらったものの、
またまたタイミング良く疫病が発生。

ここで再び物部&中臣コンビが


仏像なんか祀るからですよ~!!」


と進言し、弾圧行動に出た。
ウィキペディアによると、

 【守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に
  投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、
  およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、
  海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。】

という。

女性を全裸にして公衆の面前で鞭打つなんて

「守屋よ、お主も好き者じゃのお~」

とついツッコミを入れたくなるものの、尾輿同様、守屋も手厳しい。

ただ、このエピソードから思うのは、なんで馬子は「尼」を作ったんだろうか?
ということ。

長い仏教の歴史の中では女性蔑視の時代もあったことを
「春の寛永寺(9)」 で軽く触れてますが、
日本に仏教が入ってきたのは、その成立から1000年以上経過した頃。

『日本仏教史入門-基礎史料で読む』の著者の1人、山折哲雄氏の名前を
御存知の方も多いでしょうが、この本の序文で山折氏は

 【ブッダの「教え」が時代を経るにつれていつのまにか天文学的な量の注釈と
  議論の山を築いていったいきさつを知らされることになった。そしてまさに、
  その注釈と議論の膨大な量の山そのものが仏教の歴史にほかならないという事実を
  つきつけられ、その山の前に首(こうべ)を垂れ、膝を屈するはめにおちいったので
  あった。(中略)

  その文献の山の背後から顔をのぞかせているのが、重要課題について論ずる人間たちの
  あくことをしらない知的好奇心、とどまることをしらない強靭な自己主張である。
  そんな自己主張や好奇心が、いつしか思考そのものの水域をはるかにこえて
  しまったためなのであろう、その熱気に冷水を浴びせようとする試みが企てられる。】

と語る。

寛永寺シリーズの天海の歴バナあたりでも論議について幾度か触れてますが、
仏教の誕生から2000年以上経っても、東の小島でそういう
あくなき探究心と自己主張を抱えた人間たちが
あーでもない、こーでもないって意見を闘わせてたってことなんだな。

まあ、馬子・守屋の時代には本場では高度な議論もさかんだったでしょうが、
日本ではまだアウトライン程度の基礎的なものしか入ってきてなかっただろうし、
そもそもの原始仏教では女性蔑視的なものはなかったようでもあるから、
女性に率先して得度させることに違和感とか抵抗はなかったのかもしれないな。



蘇我氏の祖はいちおう武内宿禰(たけうちのすくね)ってことになってるけど、
半島系帰化人の子孫の家系だと見る人もいる。
つまりはよくわかってないようなんだけど、稲目は娘を3人も天皇に嫁がせて
外戚としての地位を固め、馬子の代が絶頂期だとされる。


一方の物部氏。
『古事記』や『日本書紀』では、神武天皇が初代天皇とされる。
高千穂から東へ進軍した神武天皇は畿内において戦い、
先住の王であったニギハヤヒから譲位されて天皇になったというのが大まかな流れ。

が、物部氏の私記ともいわれる『先代旧事本紀』によると、
もとの王であるニギハヤヒも天照大神から、天神の子の証であり
大神から統治権を与えられた証を持っており、神武天皇とニギハヤヒはともに
同じものを持っていたとあるそうな。

だから、初代天皇は本当はニギハヤヒの方だろうと戸矢学氏は『ニギハヤヒ』(河出書房新社)
という本の中で力説しておられるが、それはともかく、神武天皇より先に
高天原から大和の地に下りてきたニギハヤヒは、多くの家臣を従えてきており、
その中に物部氏の祖もいた。
ちなみに、中臣氏の祖もいる。

戸矢氏は『ニギハヤヒ』の中で物部氏の名の由来について触れており、

 【そもそも物部の「もの」とは「うちもの」のことであって「刃物」「武器」を
  意味する。つまり「刃物部」である。】

で「もの」という言葉について辞書などの解説をひいた上で、

 【いずれにも共通するのは「鬼神」と「兵器」である。すなわち「祭祀」と「軍事」で
  ある。統治者の権力とは、古来「祭祀」と「軍事」と「経済」である。物部は、
  このうち実に二つまでも担っていたと思われる。これはもはや臣下ではないだろう。
  天皇(おおきみ)と一体の「王家」の者であり、一族であると理解しなければならない。】

とする。

氏の推測の正誤を問うつもりも知識もないし、『先代旧事本紀』も歴史の中では
「ウソくさい本」としての評価の方が長かったらしいので何とも言えない部分もあるものの、
『先代旧事本紀』がそれなりの史実を反映しているものだとしたら、
物部氏は蘇我氏よりも古く大和に土着したガイジンの家系であり、
また名族としてのプライドも高かったかもしれない、
そんな風に思った。



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最終更新日  2014年07月20日 22時00分33秒


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