戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年09月19日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
やべえ、前回の記事ちょっと間違えてました

広野が行表に弟子入りしたのは、宝亀9年でした。
前回の記事は修正したものの、時系列に見るなら今回の記事は本当は
前回書くべきものだったのですが、もう仕方がないので
1年さかのぼって宝亀9年の広野の出家の話から始めます。



最澄法統


耳慣れない名前が多いので再度以前の系図を載せますが、
12歳の三津首広野が弟子入りしたのは、行表(ぎょうひょう)。

宝亀9年に行表は近江国の大国師になったとされており、

叡山で買った『比叡山』(延暦寺発行)にもそう書かれている。
けど、『若き日の最澄とその時代』によるとそう単純でもないらしい。


まず近江国分寺の方ですが、聖武天皇が天平17年(745)に都と定めた紫香楽宮は
「春の寛永寺(16)」 の通り、挫折と言っていい形で廃されました。

あのまま平城京に戻らず紫香楽に大仏ができていたら、
あるいは紫香楽も世界各国から観光客が集う人気スポットになったかもしれない。
しかし、紫香楽の宮は放棄せざるを得ず、大仏造営プランも平城京に引っ越した。

もともと大仏を置くはずだった寺は、紫香楽宮の造営とあわせて創建された甲賀寺。
ところが、大仏プランごとごっそり平城京へ移してしまったので、
後に残された甲賀寺は近江の国分寺となった。

のち、天平勝宝3年(751)以降に国分寺は瀬田に移されたらしい。

見つかっているので、瀬田廃寺が近江国分寺だろうと推定されているとのこと。
が、広野が最初に出家したのは瀬田の国分寺じゃないようなんだな。

結論だけ紹介しますと、行表が近江の大国師になったのは
宝亀10年以降だと『若き日の最澄とその時代』の佐伯氏は語る。
つまり、広野が入門した当時はまだ行表は大国師ではなかった訳で、



行表は大国師となる前、崇福寺の住職を務めていたとされる。
崇福寺は今ではもうありませんが、「跡」は地図にも載ってます。(場所は こちら
前の図に上書きすると、大体の位置関係はこんなとこですかね↓。


最澄故地2



三津首氏の故地にも近い山の中です。
こういう立地なので、もともと行表と広野の父・百枝は親交があり、
広野の才能を見込んで行表がスカウトしたとも、
あるいは広野の才能を埋もれさせないようにとの周囲のすすめで
我が子に仏道を歩ませることを百枝が決断したとも言われる。

して、崇福寺で最初のステップ、沙弥(小僧)となった。

崇福寺は志賀山寺ともいわれ、天智天皇の勅願による創建とされる。
また、最初の山岳寺院的存在であるらしい。


広野の師の師である道センは天平8年(736)に
インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)らとともに来日した唐僧で、
天平勝宝4年(752)の まだ完成してない東大寺の大仏の開眼 の際は
菩提僊那が導師を務め、道センが呪願師を務めた。

晩年、道センは吉野の比蘇山寺(比蘇寺)に入る。
比蘇寺は現在の世尊寺の場所にあった寺で、わたくしのブログの中では
三井寺に移築された三重塔を紹介しております。( 「大津編(16)」 参照)

道センは禅の流れも受け継ぐ方で、『若き日の最澄とその時代』では
【道センが比蘇山寺に入ったのは、山中でもっぱら禅法を修するためであった】とし、
ウィキペディアでは【修禅に精励し、山岳修験者にも少なからぬ影響を与えたとされる】
とする。

そして道センは天台大師智ギ(ちぎ)の思想の影響を受けており、
【最澄は、師の行表を通じて道センの『註梵網経』によって、早くから天台大師智ギの
所説に接していたと考えられる。】(『若き日の最澄とその時代』より)

山岳寺院である崇福寺、天台の思想に影響を受け比蘇山寺に籠った道セン。
のちの最澄が辿る道すじが仏道に入った最初の段階から垣間見えるようです。


行表は道センの導きによって得度し、天平15年(743)に興福寺で受戒した。

 【行表の俗名は百戸(ももへ)といい、天平13年(741)12月14日の勅によって
  宮中において773人のうちの一人として得度した。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

天平13年は国分寺建立の詔が出された年で、この年の『続日本紀』には
12月14日の勅というのは見つけられなかったんだけど、
10月16日の記事には在家信者ら計750人を得度させたという記述がある。

この頃は大仏開眼に向けて僧侶作成推進運動が着々と進められていたと思われ、
その中には10月16日の条のように在家なども含まれアヤシイ人もいたようだけど、
行表のような人もその中にいたんだから、まさに玉石混交・・・

では小僧・広野の周辺についてはこのぐらいにして、
前回の続きに戻ります。



●宝亀11年(780)

1月14日、落雷があり京中の数ヵ寺で火災が起こる。新薬師寺の西塔や
葛城寺の塔・金堂などが全焼。
1月19日、大赦。また、この年の田租を免除。さらに宝亀10年以降、
不作による税の延滞がある場合はこれを免除。寺社の稲についても同様とした。

1月20日、勅。

「仁徳があり仏弟子たる王が仏法を広めれば、
みんなハッピーになると思うんだよね。
そうして現世と死後の世界が調和すれば、
鬼神が暴れることもないんじゃないかな。

ところが、近頃は寺に火災が集中している。
これは天の咎めによるものだと思うし、
朕の不徳の致すところでもあると思うけど、
仏門にある人たちはどうよ?

聞くところによると、最近の僧侶の行いは上は仏の教えに背き、
下は国の法律を犯して俗人と何ら変わるところがないらしいね。
上が率先して行いを正せば、下もそれに従うんじゃないかな。

また、寺院を管理する者たちはいいか悪いかの判断ではなく、
もっぱら権力のある者に私事を頼み込んでるし、
人ばっかり多くて損害が少なくない。
こういう不正はもう放置できないよ。

だから、僧たちはきちんと国を護る仏法を広めて
災いを福に転じさせるようないい因縁を広めるように。
これは僧たち全員によくよく言って聞かせるように。」

(by 光仁天皇)

1月26日、現・宮城県古川市に蝦夷の来襲があり民家を焼く。
官軍が追撃するが、双方に死者が出る。

2月1日、宝亀3年に祟りがあったと占いで出た伊勢の大神宮寺は渡会郡から
飯高郡に移していたが、まだ神郡(多気郡)に近く祟りがやまないため
飯野郡以外の都合のよい場所に移すと神祇官から奏上。

2月2日、船で敵地へ攻め込みたいのに近年の寒波により川が凍って船が出せず、
陸奥では蝦夷の襲来が絶えない。そこで、まずは敵の侵攻路をふさぎ、雪溶けを待って
兵3千で進軍し、胆沢の最前線の城を固めたいと陸奥から奏上がある。
光仁天皇もこれに賛成。

2月11日、1月26日の戦いを受けて、3月中旬の進軍の許可を求める知らせが
陸奥から入る。光仁天皇は現地の判断で自由に行動し、3千の兵をもって
賊を討ち滅ぼすよう指令を出す。

2月15日、新羅の使者が帰国する際、

「最近おたく、調子に乗って無礼じゃないかい?
アンタはうちに朝貢してる身分なんだから、
そこらへんよくわきまえてちゃんとしてよね」

という天皇の書状を持たせる。

3月、駿河で飢饉と疫病が起こる。
3月3日、厨子に入った金銅仏一体と白銅の香炉1つが出雲に漂着する。
3月16日、大宝令を制定した頃は役人は少数精鋭でしかも節約をしていたので
今より国の収入が少なくても余裕があった。ところが近年は役人の数ばかりが増え
浪費するので、役人を減らし農耕に努めるよう奏上があり、これを許可。

また、ろくに戦えないのに国のスネをかじる兵士が増えているので、
三関(伊勢・美濃・越前)および重要な国をのぞいて国の大小によって兵の数を決め、
富裕な農民層の中から弓馬に秀でた者を選び出し、軟弱者は農耕をさせるのがよいとの
奏上があり、これを許可。

3月22日、陸奥で反乱(宝亀の乱)。
5月、伊豆で飢饉。
5月8日、平城京と諸国にある鎧600を出羽に送る。
5月14日、軍事上の備えとして坂東諸国・能登・越中・越後に干し飯3万石を
備蓄するよう命じる。
5月16日、対蝦夷戦のために広く兵士を募り、努力次第では異例の抜擢を行うとする
通達を出す。
5月29日、伊勢神宮と大安寺の封戸を旧状に戻す。

6月5日、「思うところあって」秋篠寺に封戸を施入。本来の律令では食封の施入は
5年以内と定められているが、それを一代限りに変更。今後はこれを慣例とする。
6月16日、鈴鹿の関の西の内城で太鼓が一度だけ鳴る。


「5月に蝦夷の討伐をするって報告が来てから
もう2カ月が経つのに、あれから何も言って来ない。
朕は捕虜が都に連行されるのを心待ちにしているのに、
一体どーゆーことなのさ!
今後はマメに報告してよね!書状では限界があるというなら、
誰かよこして報告させてよね!!」

(by 光仁天皇)

7月15日、大宰府はもとより、沿海諸国の因幡・伯耆・出雲・石見・安芸・
周防・長門に警護を怠らないよう指令を出す。
7月21日、征東使から鎧1千領の請求が入り、尾張・三河などの5ヵ国に運ばせる。



にわかに東北の動きが活発になってきて長いので、
一旦ここでストップです。

6月5日の秋篠寺の記事は『続日本紀』ではあっさりしたものですが、
この辺りをもって秋篠寺が勅願寺だとするようです。
(前々回の記事も参照のこと)

近江の山寺で修行に励んでいた小僧・広野が
どこまで時事ニュースを聞いていたかはわかりませんが、
この年はまたもや仏教界に対する苦言から始まっており、
すべての僧に朕の考えを理解させよ、としているので、少なくともこの勅については
広野も聞いたことでしょう。

仏道に入って意気揚々と修行に励む多感な少年は、
前年から次々と伝えられる天皇のお小言を聞いてどう思ったのか・・・
あるいは理想と現実のギャップに心を痛め、ひそかに苦悩したかもしれません。


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最終更新日  2014年09月21日 15時23分13秒


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