戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年10月07日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
さて、延暦5年は最澄が山籠りを始めてから2年目にあたりますが、
叡山に入ってから「願文」という決意表明のようなものをしたためております。

これは延暦4年のところで書くべきかとも思いましたが、
4年の記事が長引くのもなんだし、内容的に入山した直後に書いたものか
ちょっと悩ましい部分があったので、後回しにしました。
が、決意表明なんだからそこそこ早い段階で書いたものだろうと思われます。

この「願文」、長いんです。
ネットでは主要な5か条の部分だけ紹介してる方がほとんどですが、
あえて全文ご紹介します。


読み下し文を多少漢字を置き替えてさらに読みやすくしました。
ここまでの中央政界や仏教界、民間の世情なども思い合わせながら
青年僧・最澄になったつもりで「願文」を読んでみてはいかがでしょう。


            願   文

  悠々たる三界はもっぱら苦にして安きことなく、擾々(じょうじょう)たる四生は
  ただ患いにして楽しからざるなり。牟尼の日、久しく隠れて慈尊の月いまだ照らさず。
  三災の危うきに近づき、五濁(ごじょく)の深きに沈む。

  しかのみならず、風命保ちがたく、露体消えやすし。草堂楽しみなしといえども、
  老少白骨(びゃっこつ)を散じさらし、土室暗く狭しといえども、しかも貴賎
  魂魄を争い宿す。彼を見、おのれを省みるにこの理、必定せり。仙丸いまだ得ず
  死辰(ししん)いつとか定めん。生ける時、善をなさずんば死する日、獄の薪とならん。

  得がたくして移り易きはそれ人身なり。発し(おこし)がたくして忘れ易きはこれ
  善心なり。ここをもって法皇牟尼は大海の針、妙高の糸を借りて人身の得難きを喩况
  (ゆきょう)し、古賢禹王は一寸の時、半寸の暇を惜しみて、一生の空しく過ぐるを
  嘆勧せり。

  因なくして果を得る、このことわり有ることなく、善なくして苦を免る、このことわり
  有ることなし。伏して己が行迹(ぎょうしゃく)を尋ね思うに、無戒にしてひそかに
  四事のいたわりを受け、愚癡(ぐち)にしてまた四生のあだとなる。この故に未曾有
  因縁経にいわく、施す者は天に生まれ、受くる者は獄に入ると。提韋(だいい)女人の
  四事の供えは末利夫人の福(さいわい)と表れ、貧著(とんじゃく)利養の五衆の果ては
  石女担輿の罪と顕わる。

  明らかなるかな、善悪の因果誰か有慚(うざん)の人にして、この典(のり)を
  信ぜざらん。然ればすなわち、苦因を知りてしかも苦果を畏れざるを釈尊は闡提
  (せんだい)と遮したまい、人身を得ていたずらに善業を成さざるを、聖教には空手と
  責めたまう。

  ここにおいて、愚の中の極愚、狂(おう)が中の極狂、塵禿(じんとく)の有情、底下
  (ていげ)の最澄、上は諸仏に違し、なかごろは皇法に背き、下は孝礼を欠く。つつしみて
  迷狂の心に従い、三二の願をおこす。無所得をもって方便となし、無上第一義のために
  金剛不壊不退の心願をおこす。

  我いまだ六根相似の位を得ざるよりこのかた、出仮(しゅっけ)せじ。その一。
  いまだ理を照らすの心を得ざるよりこのかた、才芸あらじ。その二。
  いまだ浄戒を具足し得ざるよりこのかた、檀主の法会に預からじ。その三。
  いまだ般若の心を得ざるよりこのかた、世間の人事縁務に著(じゃく)せじ、
  相似の位を除く。その四。
  三際の中間に修するところの功徳は独り己が身に受けず、あまねく有識に回施(えせ)して
  ことごとく無上菩提を得しめん。その五。

  伏して願わくは、解脱の味独り飲まず、安楽の果独り証せず、法界の衆生と同じく妙覚に
  登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん。もしこの願力によって六根相似の位に至り、もし
  五神通を得ん時、必ず自度を取らず、正位を証せず、一切に著せざらん。願わくは必ず今生
  無作無縁の四弘(しぐ)誓願に引導せられて、あまねく法界を巡り、あまねく六道に入り、
  仏国土を清め衆生を成就し、未来際を尽くしてつねに仏事をなさん。



天海の東照宮縁起なんかもそうだけど、知識豊富な坊様の書く文章というのは
経典だとか故事から引いた言葉をさらりと使っているので、
正確に意味を読み取ろうとすればそれなりの解説も必要になってくるものですが、
大ざっぱなO型のわたくしに言わせると、素直に読んで感じ取れるニュアンスで
いいんじゃないかな~って思います。

「生きてるうちになんかやらなアカン!!」

そういう思いに突き動かされて己の決意を縷々とつづったものがこの願文かと思いますが、
佐伯有清氏は


  流麗な文章に、これまでの最澄の修学によって培われた教養が滲みでており、また僧と
  してのこれからの生きざまの真摯な決意が躍如としている。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

と絶賛する。
え~、はたち・・・


最澄が残した文章にはあの玄奘の影響が見て取れると佐伯氏は語るが、
願文の中に含まれる語句からは天台大師智ギの著作の影響があるんだそうな。
ところが、最澄の弟子によると思われる『叡山大師伝』では、

  願文を書いた後、大師は天台の教えを指南とし、注釈書などを見ては1人感動して
  涙を流しておったんじゃが、天台大師の著作を読むすべはなかったんじゃ~。


てな感じの話になっている。

これが正しければ願文を書いた時点ではまだ最澄は智ギの書は読んでいなかったことになる。
しかし、直接智ギの書を読んではいなくても、天台の思想に基づいた文章を書くことは
可能だったそうな。

さて、ここでずるっと 天平宝字5年(761) へ戻りますよ~。

一般にはあまり知られてないと思うけど、最澄が日本天台宗を開く前から
日本に天台宗は入ってきていた。
上記リンク先の簡単な法統の系図に出てくる方は、多くが天台の影響を受けている。

して、名前を覚えてねと書いた法進が重要なカギを握るようです。
以前の記事では「善俊が法進に著作を勧めたりもしたらしい」と簡単に書きましたが、
勧められて法進が書いたとされるのが『沙弥十戒ならびに威儀経疏』(しゃみじっかい
ならびにいぎきょうしょ:「ならびに」も漢字ですが楽天ブログでは使えず)。

この書は智ギの著述『摩訶止観』の要点をまとめた『天台小止観』からの引用が
多いんだそうな。

歴バナ最初の記事が今になってようやく生きてくる訳ですが、
淳仁天皇の行幸に従って来た法進が滞在したのが国昌寺。
この国昌寺は、 「叡山攻め(43)」 で瀬田の近江国分寺が焼失した後、
代行を務めていたと思われる寺であり、東大寺で受戒を済ませた最澄が
籍を置いただろうと紹介した、あの国昌寺です。
そこで法進は自分の著作について弟子らに講義をしている。

 【この法進の講説にあたって、国昌寺の僧たちも聴講したことは、当然考えられるし、
  また『沙弥十戒ならびに威儀経疏』が国昌寺において書写され、その写本が国昌寺に
  伝えられていた可能性は、きわめて高いと思われる。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

国昌寺に籍を置いたとはいっても、最澄は奈良からそのまま叡山へ直行したと
されているので、「国昌寺で法進の著作を読んだ」と単純には言えないものの、接点はある。
のちに最澄は南都仏教界と激しいバトルを交わすんだけど、

 【最澄自身、『天台法華宗付法縁起』において、鑑真に先だって天平8(736)年に
  日本に律蔵をもたらした唐僧・道セン(702~760)と法進とを、自身に先行する
  天台の名匠として高く評価する。】
  (『奈良仏教と古代社会』冨樫進/東北大学出版会より)

だそうな。
道センはある意味師の師だから当然かもしれないけど、法進も尊敬の対象とするあたり、
法進の著作に多大な影響を受けていた可能性は充分に考えられる。

そういう、自身の周辺にある土壌から養分を吸収して、
山で修行しつつ方向性を固めていったようです。


で願文に戻りますが、目を引くのは「愚の中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」
という箇所。
ここについては言葉通りに読んではいけないようです。

 【「愚」は、禅定、すなわち精神を集中させ、心に安定をもたらし、また福徳、すなわち
  一切の善行によってうる福利を修めて、智慧、すなわち物事を正しくとらえ、真理を
  見きわめることを学ばないことをいうのであり、「狂」は、「愚」とは逆に智慧を学んで
  禅定福徳を修めないことをいうのである。最澄は、このような意味を持っている「愚」の
  なかの、きわめつけの「愚」であり、「狂」のなかの、はなはだ度をこえた「狂」であると
  言い切り、心の荒れたつまらぬ人間、かつ最低の人間であると断言する。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

そういう冷徹な分析と厳しい自己批判をベースに、今後の方針を打ち立てたのが
続く5ヶ条。

佐伯氏によると、「六根相似(ろっこんそうじ)の位」とは【眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの
機官が、仏と同様に清浄になった段階のこと】だそうで、パーリ仏典風に言うならば
感覚器官から生じる欲望と感情をよくコントロールできるようになった状態、
てな感じでしょうか。

5ヶ条のうちの語句については見解の分かれるところもあるようですが、
大体の意味としては、自分をよくコントロールできるようになるまでは、
医術・画・書・呪術などの各種技能や人との交流、世間の俗事には関わらず、
檀越の催す法会には参加しないというのが第4まで。

第5はおおむね読んだままだけども、さらに続く文において言い換えているので、
佐伯氏はここをもって

 【すなわち、これが、まさしく最澄の本願であったのである。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

とする。

実年齢で19歳の最澄がひとり山に分け入ってキヨラカで壮大な願文を打ち立てたことは
感動にも価する。

蓮の花は泥の中から生まれながら、泥に染まらず清らかな花を咲かせることから
悟りを象徴するものとして仏教では特別な存在。
この頃の世間は殺したり金に執着したり戦争の準備をしたりと実にわやわやとした時期。
汚泥と表現しても誰も文句は言わないような世間の中から、
一輪の小さなハスが叡山に咲いた。

ただ、そうは言っても「六根相似の位を得るまでは」としているあたりが
わたくしの興味をひく。

汚い俗世間から逃れてただひたすら死ぬまで自分の悟りだけを
追求しようとした訳ではないらしい。
もちろんそれは、大乗の精神にのっとってあまねく衆生を救うという
最終目標があるからこそ、必然的に世俗と関わらざるを得ないんだけれども、
権力をかたくなに否定する訳じゃないんだな・・・とも思った。

このあと、彼はひょんなことから権力と関わっていくようになるが、
まだ本人はそんなこと夢にも思わず静かに修行と勉学を重ねていく。


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最終更新日  2014年10月08日 21時44分28秒


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