戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年10月09日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
最澄は1人で叡山に入ったが、それ以前から叡山には先輩の修行者がいたともいい、


基本的には世俗との関わりは絶っていたはずだけど、
最澄の願文を読んだ僧侶がいた。
それが、内供奉禅師・寿興(じゅこう)。

「禅師」は 「叡山攻め(44)」 で覚えておいてね、としましたが、
たとえば道鏡は山での厳しい修行が認められて称徳女帝の看病禅師になったとされる。

もともといた禅師を10人ピックアップして終身の朝廷お抱えとしたのが、
宝亀3年(772) 。
これが「十禅師」とも呼ばれた内供奉禅師の始まりで、選定の基準としては
「深山に住し、苦行輩(ともがら)に超ゆる」(『新儀式』)行いの清らかな者を
対象としたらしい。

寿興についての詳しいことはわかってないみたいだけど、
内供奉禅師であったのなら寿興も山での厳しい修行を積んだ僧とはいえるだろうし、
志を同じくする高潔な山林修行者の情報にアンテナを張っていたのかもしれない。
「行いの良い者は正しく高く評価せよ」という桓武の方針も手伝ってたかもね。

して、『叡山大師伝』では「同和金蘭」・・・
つまり、願文に感銘を受けた寿興と最澄はがっちり厚い友情をはぐくんだという。



ところで、なにゆえ修行者は山に入るのか?


完全な脱却(解脱)を図るためには、出家が必要だと考えておられた。

仏バナの最後でテーラワーダ仏教徒宣言をしたわたくしも、
あれからたいして日が経過していないにも関わらず、
日常生活によって生じるもろもろの悪感情に相変わらず翻弄される日々を送っております。
俗世にあっては、心身のコントロールというのは実際難しいです。


確かに必要なことであり、それはお釈迦様の在世中からの伝統とも言えます。

中国においても山林修行は行われていた。
が、仏教的な視点もさることながら、道教的な側面もあったらしい。
水墨画などでは、画面いっぱいに大きく山水の風景が描かれ、
その隅っちょの高台に置かれた亭建築にちいちゃく人間が描かれてたりしますが、
イメージとしてはあんな感じの神仙思想風な目的での山林修行も
あったらしいんだな。

して、日本。
伝統的な仏教の修行方法としてももちろん重視されただろうけど、
中国に神仙思想という土着の考え方にもとづく入山があったように、
日本にも日本ならではの意味合いがあるんじゃないかと思った。

今回、日本人と山の関係の本なぞも少し読んでみましたが、
日本人にとって山とは何であったのか、なんでみんな山へ分け入ろうとするのか、
漠然と自分なりのイメージを描くことができた気がしますので、少々紹介します。


まだ日本史を好きになる前でだいぶ以前の話になりますが、
『国民の歴史』(西尾幹二/扶桑社)を読んだ時、
縄文期は豊かな恵みをもたらす山とごく近しい関係にあり、
そこから自然崇拝が生まれた、てな感じの内容にすごく納得した。

昔は(マンガの影響で)遊牧民族の自然崇拝などにも関心を持っていたので、
自分が持っていた自然崇拝のイメージと合致するものがあったのが
西尾氏の説に共感を持った一番の理由だった。
ゆえに、日本的自然崇拝のイメージの原点は西尾説だった。

で、『修験道と日本宗教』(宮家準/春秋社)と『朝日百科 日本の歴史3』(朝日新聞社)
が語る「山」をいくつか挙げると、

 ・「里」が俗なる空間であるのに対し、「山」は聖なる空間。

 ・山岳は精霊や神々が住む聖地であり、また死霊や祖霊が住む他界とも考えられ、
  聖地や他界へ至るための通路と信じられることもあった。

 ・水田稲作をする農民にとって山は水源地であり、農耕の神。航海の目印となることから
  漁師たちには航海の安全を祈る対象となり、山中で仕事をする木こりにとっては木の神、
  マタギにとっては獲物を支配する神。そうした面から山での安全や豊猟を祈願するなどの
  各種信仰が生まれ、里人の山に対する信仰はこの世に生を受けた時から死ぬまで
  生活のあらゆる面に浸透している。

国土の多くを山林が占める日本、といっても関東平野のど真ん中に生まれ育ち、
よほど条件のいい時だけ、それも高い場所から富士山か筑波山が見える程度の
山と無縁の生活をしているわたくしには今ひとつピンと来ませんが、
日本のあちこちを旅行してみると、山がまったく見えない平野の方が
むしろ特殊な環境なんだということにあらためて気付かされる。

北海道にも広い平野はあるけど、結構遠くの方に山が見えたりするんだよね。

つまり、日本のほとんどの場所ではすぐそばに山があり、
山と密接な関係を持ちながら生活をしてきた。
ところが、古代では

 【山岳は神霊や魔物のすまう所として怖れられ、里人がそこに入ることはほとんど
  見られなかった。わずかに狩猟者などが山中に入っていくにすぎなかったのである。】

という。
そういうわずかな入山者から、宗教者となって山を開く者も現れた。

 【やがて仏教の頭陀行や道教の入山修行の影響を受けた宗教者や帰化人が山岳に入って
  修行をするようになっていった。彼らが修行した山岳は、一般の里人たちからは、
  死霊、祖霊、邪霊、神々などの鎮まる他界としてとらえられ、人々の一生、年間の行事
  などの超自然的な影響を与えるものとして畏敬されていた。それゆえこうした山岳で
  修行した宗教者が山岳の霊威を体得した修行者として崇められたことは充分推測
  されるのである。】

ふうむ、なるほど・・・
てことは、神道が古くは茫漠としたものだったのが仏教の流入などで触発されて
より高度な「宗教」として体系立てられていった(と思われる)ように、ここでも外来の宗教が
古来のタブーを乗り越えて新たな道を切り拓いていったとも言えるのかな。

そう考えてみると、仏教というのはこれまで思っていたよりも
はるかに多くの影響を日本にもたらしたとも言えそうだな。

 【奈良時代の山岳修行は山中で法華経を誦し、陀羅尼を唱えて修行することによって、
  超自然力を獲得し、出峰後はその力を用いて呪術宗教的な活動を行った。もっとも彼らの
  大部分は半僧半俗の優婆塞・優婆夷で政府から公認されぬ私度僧であった。のちに修験道の
  開祖に仮託された役小角にしても、こうした宗教者の一人にすぎなかったのである。】

ハア、役小角・・・
彼は小鬼を使役したとかのイメージばっかりが先行して
あまり実在の人物ってカンジしないんだけど、そう考えるとちょっとリアリティ涌くな。

ただ、確かに山岳修行者は私度僧が多かったかもしれないけど、
官僧がいなかった訳じゃないし、寺サイドでも官僧の山林修行そのものを
否定した訳じゃない。
あるいは時代が下るごとに山林修行推奨の方向性が強くなったのかもしれない。

ウィキペディアによる役小角の生没年は634~701年。
修行で呪力を得たっていうと、個人的嗜好によりわたくしは真っ先に良弁さんを
思い浮かべるんだけど、同じくウィキによる良弁さんの生没年は689~774年。
あら、この2人、カブってる時期あるんだ。
なら、良弁さんも古い時代の山岳修行者と言えるよな。

 【平安時代に入ると最澄、空海によって山岳仏教が提唱され、比叡山、高野山などの
  山岳寺院が修行道場として重視された。天台・真言の密教僧たちは山岳に籠って激しい
  修行にいそしんだのである。修行者はもちろん、信者の間でも、山岳で修行すれば
  呪験力をえ、すぐれた密教僧になりうるとの信仰が生み出されていった。山岳修行に
  よって験をおさめた密教僧(験者)は加持祈祷の効果がいちじるしいと信じられもした。
  験を修めることが修験と呼ばれ、験を修めた宗教者は修験者と呼ばれたのである。】
  (【】内はここまですべて『修験道と日本宗教』より)

ハア、「修験」てそーゆーことなの!?
修験道ってゆーと、山伏が山で何かするって漠然どころじゃない程度の
イメージしかなかったんだけど、仏教と関わりあるものだったんだ・・・

といっても、別に修験道の何がわかった訳でもなく、
むしろ仏教と密接すぎてさらによくわからなくなった感もありますが
たぶん神仏分離が「よくわからん」感を加速させたんだろうな。

ただ、ここまで見てきたように最澄が一人前の僧となる以前から
崇福寺・梵釈寺などの山岳寺院は日本にもあったし、仏僧は山に入ってもいたけどね。

ともかく、古来からの思想として山に対する畏敬・畏怖があったからこそ、
そのタブーを克服して山で修行を積み、験を修めた者に呪力が備わったという
信仰が生まれたようです。


奈良時代の終わり、聖地であり霊域である山へ修行者が分け入っていったのは、
なにも畿内周辺に限ったことではありません。

最澄・空海の開いた大道場と同じく世界遺産に登録されている霊場でも
同じ時期、不屈の精神を持って険しい山へ入っていった1人の修行者がおりました。
彼の名は、勝道(しょうどう)。
はい、日光を開いたとされるあの勝道上人様ですよ~( 『輪王寺1』 参照)。

輪王寺の寺伝によると、まず入山が天平神護2年(766)。
同じ年、西では道教が法皇になり最澄が生まれてます。

勝道が山内に四本龍寺を建て、男体山を祀ったとされるのが翌年の神護景雲元年(767)。
氷上川継の乱が起き、元号を延暦に改元した天応2年(782)には
勝道が男体山への初登頂を果たしてます。
長岡京に遷都した延暦3年(784)は勝道が中禅寺湖の湖畔に中禅寺を創建。

ね?
完全に同時期の出来事なんですよ。
今は延暦5年まで見てきたところだから、最澄がこつこつと叡山で頑張ってる頃、
日光では年上の勝道が着々と堂宇の整備などに励んでいたか、
リベンジにリベンジを重ねてやっと登頂できた男体山に再び登って
山頂で修法などをこらしていたかもしれない。

そうしてみると、ちょうどこの頃から最澄・空海が華々しく活躍するあたりまでが
日本における本格的山岳修行時代の幕開けと言えるかもしれないな。

まあ、そうは言ってももう少し前の時期から山中での修行は行われており、
渡来僧の神叡は吉野の比蘇寺に20年もこもって修行したという。
比蘇寺へは道センも晩年に入ってるんだよね( 「叡山攻め(37)」 参照)。

師の師が山でのおこもりを始めたことも、あるいは最澄に影響を与えたかもしれません。


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最終更新日  2014年10月10日 08時54分32秒


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