戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年10月15日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
●延暦9年(790)

1月15日、皇太后・高野新笠を大枝山陵に埋葬。
新笠は生前の位だと本来は皇太夫人だが、この年「皇太后」を追贈される。
1月30日、すべての官人が喪服を脱いで大祓。
2月18日、藤原浜成(京家)が死去。享年66歳。

3月、伯耆・紀伊・淡路・三河・飛騨・美作で飢饉。
閏3月1日、清橋女王が死去。
閏3月4日、蝦夷征伐のため、東海道では駿河より東の国々、東山道では信濃より東の
国々にそれぞれ割り当てをし、3年以内に革の鎧のべ2千領を作るよう命じる。
閏3月10日、皇后・乙牟漏が病気のため200人を出家させ、左右京と畿内5ヶ国の
ビンボー人など自活できない者すべてに物を施す。
乙牟漏死去。享年30歳。
閏3月11日、天皇は内裏から近衛府に移り、皇后の葬儀・埋葬にあたる者を指名し、
この月18日から末日まで畿内と7道諸国に白い喪服を着るよう命じる。

閏3月16日、相次ぐ訃報や天変地異のため、大赦を行う。
閏3月28日、皇后を長岡山陵に埋葬。
閏3月29日、蝦夷征伐のため、東海道は相模より東の国々に、東山道は上野より東の
諸国に干し飯14万石を準備させる。
閏3月30日、すべての官人が喪服を脱いで大祓。

4月、備前・阿波・和泉・三河・遠江・近江・美濃・上野・丹後・伯耆・播磨・美作・
備中・紀伊・淡路で飢饉。
4月5日、大宰府に命じて鉄の甲冑2900領を作らせる。
5月3日、大蔵卿・石川豊人が死去。
5月21日、畿内5ヶ国で雨乞い。
5月29日、先月より日照りが続いているので、畿内の名神に幣帛を奉納して雨乞い。

6月13日、皇太后・皇后の死などが続いたので、本来内裏で行う神今食(じんこんじき)の
儀式を神祇官の庁舎で行う。
7月21日、坂上又子(桓武の子を産んでいる女官)が死去。
8月21日、大宰府管轄下に飢えた民が8万8千人いるので、援助物資の申請が入る。

9月3日、皇太子・安殿親王が病気のため、長岡京内の7寺に読経させる。
9月11日、伊勢神宮に相嘗(あいにえ)祭のための幣帛を捧げる。服喪期間につき、
通常の儀式は行われなかった。
9月13日、勅。

「朕は徳の薄い愚かな者だけど、みんなの幸せを願って
頑張ってるんだ・・・
なのに、日照りのために田畑は荒れて、聞くところによると
京と畿内の不作は他の国よりひどく、疫病や飢饉に苦しんでるって
言うじゃない。
この責任は朕にあるんだよね。
ので、左右京と畿内5ヶ国の今年の田租は免除とするよ」

(by 桓武天皇)

10月2日、延暦元年に廃止されていた鋳銭司(貨幣鋳造を司る機関)を設置する。
10月3日、佐伯今毛人が死去。享年71歳。
10月14日、天皇は122歳の道守臣東人を引見し、衣服を与えた。
10月19日、先の蝦夷征伐で功のあった者4840人あまりに褒賞を与える。
10月21日、蝦夷との長い戦いに坂東諸国は疲れており、それ以外の国も
もともと軍役とは無関係だったのに徴発されるなど、同じ皇民の間でも
負担に差があるので、左右京・畿内5ヶ国・7道の経済力のある者を調べて
それぞれの財に応じて任意に甲冑を作らせては、との太政官の奏上があり、
そのように決定する。

11月3日、正税の不足分の補填についてあらたな取り決めを行う。
11月15日、午前8時と午前10時に地震。
11月16日、皇后・乙牟漏を失った悲しみがいまだ大きいので、来年の新年の儀礼は
中止とする勅が出される。
11月17日、新嘗祭。まだ天皇の服喪が明けないので、天皇は参加せず神祇官で執り行う。
11月27日、坂東諸国は軍役の上に疫病・旱魃の被害があったので、今年の田租を免除。

12月1日、天皇のすでに亡くなっている親族でまだ追贈していない人に対し、
称号や位階を追贈する。
12月13日、地震。
12月28日、皇太后の1周忌。大安寺で法会を行う。

この年、秋から冬にかけて天然痘が流行し、京畿内の30歳以下の男女のほとんどが
病気となった。病が重い場合は死に至り、天下の諸国でしばしば発生した。



ふっ、ふふっ・・・

まるで「せんとくん1号」の時代に逆戻りしたかのような年ですね。
この年、日食はないけど、地震・旱魃・飢饉・疫病、そして相次ぐ訃報。

天平の歴バナでは話が長くなるのを避けて蝦夷征伐については書いてませんが、
あの頃も実は征討にかかずらわっておりまして、
天智天皇を慕うハズの桓武君はまるで聖武君の追っかけみたいなことしております

特に母・高野新笠の死から間もない時期にまだ若い乙牟漏を失ったことは

200人もにわかボーズを作ったのにね(笑)。

その一方で、122歳という天海もまっつぁおの長生きジジイがいたりする・・・
これ、ホントかよ?
122歳じゃなくて112歳としている写本もあるらしいけど、
全国に疫病の嵐が吹き荒れて若いモンがおおむね天然痘にかかってるというのに、
驚異的な生命力。

いや待てよ、112歳だとしても天武天皇の時代(!!)だから、
天平の天然痘流行を乗り越えたことで免疫付いてるのカモ

天平の大騒動には、長屋王の影がありましたね。
では今回は?
今回はなんざましょ・・・




1月18日、蝦夷征伐の準備のために百済王俊哲と坂上田村麻呂を東海道に、
藤原真鷲を東山道に遣わし、兵士の選出と武具の点検をさせる。
2月13日、類焼を防ぐための措置として、諸国に倉を新しく建てる際は1棟ごとに
10丈離すようにし、場所の広さに応じて便宜的に建てるようにという勅を出す。
2月21日、文室大原に鎮守副将軍を兼任させる。
これまで、五位以上の官人が死亡した場合、支給していた田は1年間は子に支給し、
子がない場合は官人の死亡した年に没収としていたが、子の有無に関わらず1年間は
等しく与えることとする。

3月6日、神護景雲3年(769)に吉備真備らによって改定された律令を、
この年になって初めて用いることにした。
3月17日、右大臣以下五位以上の官人に対し、それぞれの地位に応じて甲冑を作らせる。
3月23日、太政官の奏上により、古い先祖の国忌(その日は天皇は仕事せず斎会を行う)
を廃することにする。
3月26日、京・畿内・7道諸国の国司・郡司に命じて、国の規模にあわせて甲冑を
作るよう指示する。

4月10日、越前の雨夜神と大虫神に従五位下を授ける。
4月15日、越前の大虫神に従四位下を、足羽神に従五位下を授ける。
4月18日、山背国の諸寺の塔の破損がひどいので、勅によって修理させる。

5月、豊後・日向・大隅・紀伊で飢饉。
5月6日、天下諸国がたびたび疫病と旱魃に苦しんでいるので、端午の節句を中止する。
5月20日、藤原菅継(式家:宇合の孫)が死去。
5月29日、来年は班田が行われるので、これまで皇族・貴族などのセレブ層が
人民から取り上げていた良い田を天平14年頃までにさかのぼって是正させる。

6月1日、日食。
6月3日、皇后・乙牟漏の1周忌。
6月10日、諸国に命じて鉄の甲冑3千領を新式で修理させる。
6月25日、延暦3年に皇族・貴族・諸官庁・寺院などに対し山野の独占を禁じていたが、
この年になって山背国に使者を遣わして公私の土地を調べ境界を設け、人民が自由に
使用できるようにした。
6月26日、日照りのため、丹生川上神に黒馬を奉納。

7月13日、大伴弟麻呂を征夷大使とし、坂上田村麻呂ら4名を副使に任じる。
7月27日、鷹飼戸(たかかいべ)を廃止する。
7月29日、百済王仁貞が死去。

8月3日、夜、伊勢神宮に盗賊が入り、正殿1棟、財殿2棟、御門3棟、瑞垣1重が焼かれる。
8月14日、参議・神祇伯らを伊勢神宮に遣わし、放火されたことについて謝罪し、修理を行う。
9月16日、諸国に命じて平城京の諸門を長岡に移築させる。
東海・北陸の国々で人民が牛を殺して漢(あや)神に捧げ祀っているのでこれを禁止。
9月22日、征夷副使・百済王俊哲に陸奥鎮守将軍を兼任させる。

10月10日、天皇が交野で鷹狩り。
10月13日、天皇が還御。
10月25日、東海道・東山道の諸国に命じて戦に用いる矢3万4千5百余を作らせる。
10月27日、以前から皇太子・安殿親王は長く患っていたが、病気平癒のため自ら
伊勢神宮に向かう。

11月3日、坂東諸国に命じて干し飯12万石余を準備させる。
佐伯真守が死去。
11月11日、皇太子が伊勢から帰還。

12月28日、最澄、修行入位(僧位の最下位の位)の位を授けられる。


この年のメインは蝦夷征伐の準備。

桓武はかなり鷹狩りが好きだったようで、平安時代には皇室の狩猟地となる交野で
この年も鷹狩りを行ってますが、鷹飼戸を廃止するなど一見緊縮財政を狙ってる風も
あるものの、戦争準備にかけるカネは鷹狩りの比じゃない。

特に陸奥に近い坂東諸国をはじめ、東海道・東山道の負担は相当なものだったろう。

悪政を恨む民衆による放火って可能性を考えるのはわたくしだけじゃないでしょう。

軍需物資を諸国に準備させる一方、征討の新メンバーも任命。
いよいよ坂上田村麻呂の登場です。


この年はあまり疫病や自然災害系の記事はありませんが、
戦争準備に燃える裏で前年に引き続きそれなりの被害があったろうことが
わずかな記事の中からうかがえます。

6月26日には例によって丹生川上神へ黒馬を奉納してますが、
4月に越前の神社へあれこれ位階を授けてますね。
どういう意図でこれらの処遇をしたかはわかりませんが、
たとえば「雨夜神」はその名の通り雨を降らせてくれそうだし、
「大虫神」はウィキペディアによると【垂仁天皇の時代にイナゴが大発生したが、
当社に祈願した所たちまちイナゴは退散した】といういわれがあるそうで、
霊験があると評判の神様へ日照りや不作の回避を願ったんじゃないかって想像もできる。

一部の国で牛を殺して漢神を祀ることが流行っていたようだけど、
『福井県史』によると、漢神は恵みの雨をもたらす一方、病気をもたらす祟る神として
恐れられていたようで、大陸系の信仰によるものではないかという。

この時は病気も日照りもあった訳だからね。
越前あたりではこういう祭祀が盛んだったようでこれまでも行われてきたんだろうけど、
ここで禁制が出るあたり、社会不安も手伝ってこの頃かなり流行っていたのかもしれない。

この年、疫病の被害状況については書かれていないけど、
久しく患っているという安殿親王はついにみずから伊勢に向かいます。
伊勢大神宮の霊験やいかに?


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最終更新日  2014年10月15日 23時38分29秒


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