戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年10月19日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
休みの日ぐらいは毎日更新したいと思っているものの、
ちょいと昨日はお出かけしてたので記事が上げられませんでした。
なんだか、締切りに追われ続ける売れないマンガ家みたいだな・・・

昨日のお出かけ報告も早めに済ませたいところですが、
この歴バナが一区切りつくまではそれもできません。
てか、あと何年分見てけばいいんだ


●延暦12年(793)


1月14日、39人の僧侶を宮中に呼んで初めて『薬師経』を読ませ、
また天下に7日間の殺生を禁じる。
1月15日、 遷都のため、藤原小黒麻呂と紀古佐美を山背国葛野郡宇太村
(京都市右京区宇多野)に派遣し視察させる。

1月17日、射場に不審事が起こったため、射礼(しゃらい:朝廷行事)を中止する。
1月21日、内裏の宮を解体することになったため、天皇が東院へ移る。

2月2日、賀茂大神に遷都を報告。
2月4日、天皇が栗前野で狩猟を行い、伊予親王の別荘に立ち寄る。
2月13日、天皇が水生野で狩猟。
2月17日、「征東使」を「征夷使」に改める。
2月21日、征夷副使・坂上田村麻呂が暇乞い。

3月1日、天皇が葛野へ行幸し、新京を視察。
3月3日、天皇が禊を行う。
3月7日、新京の宮城建設地に住んでいた住民に対し、収公の代価を支給する。
3月10日、伊勢神宮へ遷都の報告。
3月12日、一定以上の地位にある者に新京の工事に携わる役夫を提供させる。
3月25日、天智天皇・光仁天皇・施基皇子(桓武のジイちゃん)の各山稜に
遷都を報告。

4月3日、天皇が葛野へ行幸。
4月28日、年分度者(ねんぶんどしゃ:年ごとに定員が決められている得度者)は
漢音を学んでいなければ今後は得度させないとする。
5月11日、銭30万と長門・阿波の稲各千束を交野の百済寺へ施入する。
5月16日、山背・摂津で放生を行う。

6月8日、雨乞い。
6月22日、日照り継続中。
6月23日、諸国に命じて新宮の諸門を造営させる。

7月7日、天皇が相撲(すまい)を観覧。
7月15日、新京建設で口分田を収公された民衆に対する補償を指示。ただし、寺田には
補償しないとした。
7月19日、天皇が大原野で狩猟。
7月25日、天皇が新京を視察。

8月10日、新京周辺の諸山への死体埋葬と樹木の伐採を禁止する。
8月21日、天皇が大原野で狩猟。
夜、山辺春日と紀朝臣国が佐伯成人を殺害。 山辺らは逃走、翌日になって事件が発覚。
桓武は激怒し諸国に捜索を命じたところ、伊予で捕縛したと報告があり巨勢嶋人を派遣して
素手で山辺らを殴殺させる。山辺らの犯行の黒幕は安殿親王だと噂する者がいた。
8月24日、衛門府の壬生年が宮城の西門に登って首をくくり自殺する。原因は不明。
8月26日、天皇が京中を巡覧。
8月28日、天皇が葛野で狩猟。藤原継縄の別荘に立ち寄る。
8月30日、地震。

9月2日、使者を遣わして新京の宅地を班給。
9月7日、天皇が大原野で狩猟。
9月10日、現在の大臣と良家の子孫が三世以下の女王と結婚することを許可。ただし、
藤原氏は特別に二世以下の女王との結婚を許すとする勅を出す。
9月22日、天皇が栗前野で狩猟。伊予親王の屋敷に立ち寄る。

10月2日、日食。
10月6日、 深草王が父を殴ったので本来は死罪 とするところ、勅により隠岐への流罪に
減免する。
和気清麻呂が能登の墾田を神願寺(神護寺の前身)へ施入。
10月14日、 大安寺の僧・行秀に50戸を下賜する。
10月15日、地震。

11月2日、天皇が新京を巡覧。藤原継縄の別荘に立ち寄る。
11月5日、天皇が葛野で狩猟。
11月10日、天皇が交野で狩猟。
11月12日、大雪。
11月26日、天皇が栗倉野で狩猟。

12月7日、水鳥が太政官の正庁へ入り、捕らえられる。
12月10日、天皇が瑞野で狩猟。
12月18日、長岡京建設の際に立ち退いた百姓に支給した代価の返還を求めないことを決定。
12月19日、天皇が岡屋野で狩猟。



まずは小さいニュースから見ましょう。
この年はなんだかよくわからない出来事もありますが、


が、安殿親王は実は醜聞で有名な方。
「素手で殴殺」っていったって、フツー人間は一発殴ったぐらいじゃ死にません。
ボクサーの鋭いパンチとか、殴って倒れたところに石でもあって打ちどころが悪けりゃ
一発もアリかもしれませんが、そうそうないでしょう。

てことは、相当数殴った上での暴行死のようなもんで、
その残酷さに桓武の激怒ぶりもうかがえます。
当時から安殿親王が黒幕とウワサされてるあたり、成人の死は安殿親王の
女性問題に絡む事件の可能性もあるかと思います。

フツーなら皇族が殺人事件に関与したなんて正史に書き残さないと思いますが、
安殿親王の醜聞は周囲をも困らせたので、あえて控え目に残したのかもしれません。

個人的に食いついたのは、10月の深草王の事件。

親を殴ったら死罪!?と思って調べたら、確かに律令には目上の親類縁者を殺したら
死罪とあり、中でも親と祖父母は殴っただけでも死罪とありました。

一時期は家庭内暴力が社会問題になりましたが、親を殴ったら8世紀には死罪ですよ。
それだけ大悪とされた訳で、もし親を殴りたくなっても「昔なら死罪」と思って
こらえましょう


てことは、そこそこ平城京に残してきた大寺も尊重してたってことなのかな・・・
それから、相変わらず藤原氏が優遇されてるのもわかりますね。


さて、この年のトップニュースは何といっても第2次遷都。
延暦3年(784)の長岡遷都から10年めにして、
「せんとくん2号」は決断しました。

古代日本では天皇が代替わりするたびに宮を遷しておりまして、
死穢を避けるためだったとも言われます。
ゆえに古い時代の天皇はみんな「せんとくん」な訳ですが、
当時の遷都は現代の私達が思い浮かべるようなものではなく、
天皇の住まいが変わっても臣下たちはそのままで、
大ざっぱな言い方をすると天皇の代替わりによって勤務地が変わったというものでした。

そのスタイルが大きく変わったのが、持統天皇の時代、
持統8年(694)に藤原京ができてから。
いわゆる首都機能も兼ねた、日本初の「都」でした。

和銅3年(710)、元明天皇の時代に平城京へ遷都。
これは首都機能の移転も含むもので、必然的に大がかりな引っ越しとなります。
補助金を出すと言っても臣下は新たに新居を作らなければならないし、
新京の区割りで立ち退きを命じられた住民への補償もあるし、
人夫を提供しなければならない諸国も迷惑な話だし・・・

つまり遷都というのは官も民もかなりの負担を強いられるワケで、
実際大変なことです。

ゆえに、なぜ遷都に至ったのかということについて、
それぞれの遷都ごとに現代人があれこれ想像するのですが、
たとえば平城京への移転については、古くは藤原京が狭かったからというのが
通説だったようですが、『平城京の謎』(奈良大ブックレット/ナカニシヤ出版)
によると近年の発掘調査によって藤原京の区画は思っていたより広かったことが
判明して通説が根底から崩れたそうで、遷都の理由を探るのは
そう簡単なことではないようです。

で、「せんとくん1号」聖武天皇による恭仁京⇒難波京⇒紫香楽宮の
遷都ラッシュの後で最終的に聖武は平城京に戻り、桓武による長岡遷都まで
平城京は約74年にわたる「都」であり続けました。

その平城京をあっさり捨て、さらに10年という短期間での再遷都。
執拗とも言える蝦夷征伐の準備も始めており、この年2月には坂上田村麻呂が
遠征に出立してます。
いくら諸国に負担をさせていると言っても、こんな時期に遷都に取りかかるなんて
明らかに予算オーバーです。

世間で語られる長岡京からの遷都について、井沢元彦氏はこう紹介しています。

 1、種継暗殺の影響によるもの。造都責任者の藤原種継は母が秦氏の出身であり、
   種継はこの縁故により秦氏の本拠である山背国への遷都を進めていたが、
   暗殺されたためその援助が受けられなくなった。

 2、早良親王のタタリから逃れるために、都を遷した。

 3、長岡京を襲った二度の洪水(延暦11年の6月と8月)によって、適地とは
   看做されなくなった。
  (『逆説の日本史3』より)

2も世間一般で語られますが、3も根強いですね。
特に学者センセイには3をベースに現実的視点から遷都の理由を展開する方が
多いような気がします。

平城京遷都に関する本でも、学者センセイの語る内容というのは
とことん現実的な理由が多いですね。
まあ確かにそういう側面もあるにはあるんでしょうが、
そういう類のものだけを読んでると精神世界については全く出てこないので、
あまりに現実的すぎてわたくしはむしろ違和感を感じることの方が多いです。

井沢氏はもちろん2を採用していて、氏によると2と3は本質的には同じものだとします。
なぜって、昔は自然災害は単なる災害ではなく、天子の行いによるものだと
考えられていたからです。
まあ、そりゃそうだよな。

『逆説の日本史3』では学者センセイのお説をいくつか紹介してもいますが、
その中には20年ごとに行われる伊勢神宮の式年遷宮を引き合いに出して、
当時の建築耐用年数によって20年というタームが設けられたのだろうから、
その半分の長岡京10年というのもアリだとするお説もある。

いやいや、それはさすがにキビしくないかい?
だったら平城京はどうなるんだ?

長岡京は未完成のまま捨てられたと長いこと言われてきたらしいけど、
発掘調査の結果、9割方は出来上がっていたことが判明しているらしい。
難波宮や保良宮から移築したから大規模な都の造成がその程度の年数でできたんだろうけど、
耐用年数うんぬんて言うなら、移築なんてしないんじゃないか?

そもそも長岡遷都についても、副都であった難波宮と一体化することで
官の出費を抑えたというお説のセンセイもいらっしゃるようだけど、
節約効果を狙うなら難波に遷都したって良かったじゃないか。
もっと言うなら、平城京と一本化して難波宮を廃止すれば
最小限の出費で抑えられるじゃないか。

遷都に現実的理由が伴わなかったという気はありませんが、
2人の「せんとくん」・・・特に桓武については、それだけで説明するのは
どうも無理があるように感じます。


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最終更新日  2014年10月19日 23時41分10秒


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