戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年10月21日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
え~、本ブログ、本日より4年目に突入です。

自称・戦国ジジイでありながら、
ここ1年ばかりは戦国関係の記事をロクに書いておりません

ちょうど1年前、 3年目に突入した時の記事 を読み返すと
福山編が終わりたてでちょろりと日光写真館と雑談を挟んだすぐ後から
寛永寺シリーズを始めてますので、天平歴バナと両国編を除いては
ほぼ1年間仏教関係の記事を書き続けてきたことになります。
まあ、寛永寺シリーズは内容的には仏教というより江戸初期の話がほとんどですが。


知らないことを勉強するのは楽しいし、歴史というのは意外なとこでつながってるので
無駄なことは何一つないと思っております。

おかげさまでこの1年間にアクセス数もだいぶ伸びまして、
最近本ブログを読み始めた方は「なんでこれで戦国ジジイなんだ?」と思うかもしれませんが、
前々から読み続けて下さっている方々はわたくしの興味がとんでもない方向へ
飛んでいっても変わらず読み続けていただいているようですので、
これはホントにいつも感謝しております


さて、前回はようやく再遷都のところまで来ましたが、
ここは重要なので今回も引き続き遷都について書きたいと思います。

井沢元彦氏は桓武の遷都についても独自の説を展開しておられるので、
『逆説の日本史3』から簡単に紹介しましょうか。


 【奈良の大仏は、(中略)当時の日本にとって国家財政のかなりの部分をつぎ込んだ
  大事業であった。そして、それが何のために造仏されたかといえば、うち続く凶作・
  兵乱、疫病から国家を鎮護し、その国家の中枢たる天皇家を安泰ならしめるためである。

  しかし、これを「合理的な目」で見れば、こんな無駄なことはない。(中略)しかし、
  聖武天皇や光明皇后は、そうは考えなかった。彼等は当時の人々なりに「合理的」に考え、

  そして、聖武・光明夫妻の思い立ちの中には、自分たちが子宝(男子)に恵まれないこと、
  聖武自身が病弱であること、そして天武(持統)王朝では代々後継ぎの男子が早死にして
  いることを、仏の功力でなんとかしたいという気は当然あったはずだ。】

しかし、結果はご存じの通り。
一旦は男の天皇(淳仁天皇)が立ったものの、孝謙太政天皇に倒され、
称徳女帝の代で天武系の天皇の時代が終わってしまった。

天智と天武が本当に兄弟だったのなら、別系統と分けて考えることは
あまり意味がないかもしれない。
が、井沢氏は2人は兄弟ではないとし、天武は本来であれば天皇になれるような
立場ではなかったんじゃないかとする。

天智と天武のテンテンコンビが兄弟でなかったとすれば、
天武系から天智系へ皇統が戻ったことは当時の人からすれば大変な驚きだったろう。
んにゃ、光仁天皇の時にはまだ天武系が返り咲くチャンスはあった。
しかし、フジワラムシのバックアップを得た光仁&桓武の親子が
最後の仕上げをして綺麗にその芽を摘み取った。

人為的な力が加わってるといっても、天智系が奇跡の大逆転を果たしたといえる。

これを桓武の側から見れば、天武系が断絶してしまったので結局

「大仏、役に立たないじゃん」

てことになるというのが井沢理論。
仮に大仏が怨霊対策としての科学的装置じゃなかったとしても、
聖武&光明子夫妻が長屋王の怨霊におびえてたというのは正史からもうかがえること。
なので、

 【簡単に言えば、平城京は天皇家にとって「家相が悪い家」だったのである。】

と来る。

井沢氏は長岡遷都と平安遷都は同じ流れだとするものの、
あいにく長岡遷都についての直接的な動機については触れてない。
家相が悪いから引っ越すのはいいとして、何らかの「きっかけ」もあるんじゃないかと
思うんだけどね。

で、長岡遷都までの流れを見てみると、まず第一に 井上内親王&他戸親王親子の
怨霊問題
が浮かぶ。
『続日本紀』には井上内親王の墓を改葬したいう程度にしか書かれてませんが、
桓武が再遷都した後でも新京で母子を祀っているので、井上母子の怨霊に対する恐怖は
かなりのものがあったんじゃないかと思われます。
ただ、ちょっと遷都までの期間が空いてるけどな・・・

わたくし的には、長岡遷都の直前に氷上川継を政治的に葬ったことが気になる。
川継を殺さなかったのは正解だったね。
でなければ、罪の意識から川継の怨霊にもおびえなきゃならなかっただろうからね。

じゃなくて、天武系の有力ライバルをすべて潰し終えた時点で区切りがついて、
「天武さんちの家」と役に立たない大仏とは綺麗さっぱりオサラバして
新しい自分ちで偉大なるご先祖様の天智天皇とパパの光仁天皇を押し戴いて
あらたな輝かしい一歩を踏み出そうとしたのかな・・・
てのが、現段階での想像。



今度は平安遷都ですが、こちらは長岡よりはわかりやすい。

せっかく新天地での再出発を図ったのに、欲を出して遷都反対派・・・
つまり自分の方針に逆らう者(とフジワラムシの邪魔になる者)および
皇太子・早良親王を排除して自分の子を皇太子としたのが裏目に出て、
またもや怨霊を生み出してしまい、自分で自分の首を絞める結果となった。
井沢氏はこれを

 【聖武たちとは血統の違う桓武がその「不運の家(平城京)」を捨てようとしたのは
  当然だ。そして長岡京に「家を新築」しようと思ったが、それにも「洪水」という
  「ケチがつき」、調べてみると「怨霊の仕業」であることがわかった。ならば、
  もっといい所、すなわち「家相の良い家」に引っ越そうと考えるのは当然ではないか。】

と表現する。

前回、生意気にも学者センセイのお説にちょっとたてついてみましたが、
占いの結果、安殿親王の病気が早良親王のタタリだとわかったと正史に書いてあっても、
平安遷都に怨霊の影は認めないとするセンセイが多いようです。

ま、わたくしのようなイチ歴史ファンと違って研究者ともなれば

「正史には怨霊のせいで遷都したとは書いてないけどさ~、
ボクは個人的に怨霊が原因だと思うんだよね~」


なんて軽々しく言おうものなら、

「個人的憶測で物を言うな!
論拠を示せ、論拠を!!」


ってご同輩から集中砲火を浴びるかもしれないし、
そう考えるとセンセイも大変だよな~なんて思ったりもしますが、
庶民レベルではやはり早良親王の怨霊の影響と見る人が多いと思います。

佐伯有清氏は延暦11年の最初の洪水のあとの8月に
長岡京の近くの山に死体の埋葬を禁じているので、
あわただしい遷都には怨霊が影を落としているのだろうと著書で語る。

それで、遷都を発表する前年の延暦11年に狂ったように狩猟に出かけてたのは
あるいは遷都の候補地を検分する目的も含まれてたんじゃないかとも思ったんだけど、
遷都を決めた後も変わらず狩猟にいそしんでるので考えすぎかもしれないな

平安遷都といえば、四神相応の地だからそこに決めたという風水説がハバをきかせてますが、
わたくしはどーもこの説になじめません。
後付けのような気がしないでもないんだけどな・・・
井沢氏は風水説を支持しておられるようです。

 【怨霊の力に対抗するには二つの方法がある。一つは怨霊に直接働きかけること。もう一つは
  怨霊が近寄らないように「魔除け」をすることだ。「魔除け」とは具体的にはどうするのか
  といえば、「家相の良い家」に住み、悪霊が入ってこないように様々な守護神を祀ることで
  ある。では、「家相の良い家」つまり「家相の良い都」は何によって判断されるか?
  それが四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)相応の地ということなのだ。】
  (ここまですべて前掲書より)

う~んう~ん・・・
でもね、結局は井上内親王母子や早良親王など、桓武君ゆかりの怨霊をごっそり引き連れて
新京内で丁重に祀ってるんだよね。
これってどうなんだろ?

確かに少しでも「家相の良い」場所は探したかもしれないけど、
とりあえず「逃げるが勝ち」であわてて引っ越したような感がなきにしもあらずのような・・・

しかし、『若き日の最澄とその時代』を読むと少し頭もすっきりする。
平城京へ遷都する前の和銅元年(708)の詔に四神相応の思想によって
新都を選定したという内容があり、平安遷都の際にも延暦13年(794)などに
同じような内容があるので、桓武の再遷都にあたって四神相応という思想が
取り入れられたことは通説通りでOKらしい。

そもそも風水と言ってもかなり漠然としたイメージしかないので
そこらへんが混乱の元かとも思うんだけど、あらためてウィキペディアを見てみると
風水は中国で生まれたものが日本に伝わったものだが、その完成は宋から元の時代らしい。

日本には中国での完成の前のかなり古い時代から入ってきており、
中国で未完成のものが日本で独自の発展を遂げたんだそうな。

 【特にそれは陰陽道や家相として発展した。平城京・平安京の立地が風水に則っていると
  されるが、その当時採用された「四神相応」は、四神の方角が固定化されているなど、
  すでに日本独自の理論となっていたものであり、現代的な「風水」とは全く関係が無い
  ことに留意すべきである。】
  (ウィキより)

『逆説の日本史3』では平安京が風水に基づくものだと証明した黄永融氏の
『風水思想における原則性から見た平安京を中心とする日本古代宮都計画の分析研究』という
論文をかいつまんで紹介している。

要点だけをわかりやすく解説してくれていても、寛永寺シリーズでも書いたように
そのテの話は脳ミソが受け付けてくれませんので、お知りになりたい方は
原文か『逆説の日本史3』をお読みいただくとして(笑)、井沢氏は

 【黄氏は「怨霊の祟りを防御するために、つぎの新都の造営については大量の陰陽術を
  取り入れて計画したのも十分納得できるのではないであろうか」と述べている。つまり、
  平安京への遷都(平安遷都)は、「怨霊の祟りを防御するために」実行されたという
  ことなのである。この風水のことを日本では「陰陽道」といい、それを司る人々を
  陰陽師と呼ぶ。】

とする。

ふむ、なるほど。
一般には「平安京は風水思想によって選ばれた地」と言われるけど、
「陰陽道に基づく選定だった」と表現する方が事実に近いワケね。

風水でも陰陽道でもどっちでもいいっちゃいいいんですが(←大ざっぱ)
ここはなにげに重要です。
なぜって、この後の流れにもかかってきますのでね。



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最終更新日  2014年10月21日 22時32分51秒


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