戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年11月09日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
●延暦22年(803)

1月26日、三論と法相の2宗が並び立つようにとの勅は出しているが、
得度に関して決めていなかったので、今後は三論・法相とも毎年5人得度させよとの
勅を出す。
2月4日、遣唐大使以下、渡海するメンバーに身分に応じて手当を支給する。
3月6日、天平勝宝4年(752)時の遣唐大使で、唐で死亡した藤原清河に
正二位を追贈する。
3月8日、大僧都・行賀が死亡。
3月14日、遣唐使に身分に応じて彩帛を下賜。
3月18日、遣唐使らが朝堂院で天皇に挨拶。
唐の情報を得るため、使者を新羅へ派遣することとする。
3月29日、遣唐大使・副使のためにはなむけの宴を開く。

4月2日、遣唐大使・副使が暇乞いに参内し、天皇から節刀を授けられる。
4月14日、遣唐使一行が難波津で乗船。
4月16日、遣唐使一行が出航。途中、大雨と強風に襲われ船が大破し、多くの死者を出す。
4月23日、遣唐使船遭難の報が宮中に届く。
4月28日、使者を遣わし、遣唐使船と破損した物の調査をさせる。
5月8日、相模の足柄峠越えの旧路を復活させる。
5月22日、遣唐使船が破損して渡海できなくなったため、遣唐使が節刀を返還する。

6月21日、長雨のため丹生神社に幣帛を捧げる。
10月25日、桓武の第11子・大徳親王が6歳で死去。
閏10月23日、遣唐使の成功を祈念して最澄が大宰府の竃門山寺で薬師仏4体を造る。
12月2日、夜、宮中で野生のキツネが鳴く。



かなり内容を絞ってますので、ほとんどが遣唐使関連のニュースですが、
まずは1月の記述から。

これもまた三論と法相の争いを反映したもので、依然形勢不利な三論の保護のために
得度の定員枠が設定されたもののようです。

で、遣唐使を送る準備が進められていきますが、
そうした中で過去の遣唐使のことをふと思い出したのか(笑)、
とっくの昔の宝亀9年(778)に唐で亡くなっていた遣唐大使・藤原清河に
位を追贈してます。


便乗組では玄奘にかわいがられた道昭、金光明最勝王経を持ち帰った道慈、
そのほか有名どころでは 山上憶良・阿倍仲麻呂・吉備真備などゴーカな顔ぶれ。

時には留学生を除いて全員が無事に帰国できたというラッキーな回もあったようですが、
船が難破して死亡した人も多くいたし、日本に帰れずに異郷で死を迎えた人もいた。
また、逆に唐から日本入りして帰国できず、そのまま帰化した唐人もいた。

阿倍仲麻呂って何した人か知らないのに、何で名前を知ってるんだろ?と思ったら、
小倉百人一首第7番、

天の原ふりさけみれば春日なる  三笠の山にいでし月かも

「(広々とした)大空をはるか遠く(望み)見ると(美しい月が見える、ああ、
あの月は、以前)春日にある三笠山に出た月だなあ」


・・・って、コレ、長安で詠んだ歌らしいじゃないですかあ~!!
いやあ、知らないってホント罪・・・

じゃなくて、阿倍仲麻呂はなんとあちらで科挙を受け合格し、任官。
仲麻呂の遣唐留学生同期には吉備真備や僧・玄ボウがいる。
(玄ボウの「ボウ」は日へんに「方」の字)


第1船だけが日本に着いたんだそうな。
仲麻呂は一緒には帰らず、引き続き唐で出世の道を歩むが、
唐に流れ着いた第2船の帰国に奔走し、第2船は1年遅れで帰国、
チャンパ国に漂着した第3船は5年遅れでようやっと帰国している。

そのあと天平18年(746)に派遣が計画されるも中止。
その次が天平勝宝4年(752)の第12次で、大使は藤原清河、
副使が吉備真備と大伴古麻呂。

すでに在唐35年を数えていた仲麻呂は唐で真備と再会し、
清河の船に乗って帰国の途に着くが、暴風雨にあいベトナムに漂着。
当初は仲麻呂死亡のニュースが飛び交ったそうで、あの李白が仲麻呂を悼む歌を
詠んでいるそうな。

第12次の帰国船には鑑真さんも乗っていた。
鑑真はこれまで5回の来日を試みるが、いずれも失敗。
6度めの正直も玄宗皇帝が許可しなかったため、清河は鑑真の同行を諦めるが
副使が独断で鑑真を乗せ、念願叶ってやっと日本の地を踏むことができた。
ちなみに吉備真備は2度目の渡航も無事に帰って、その後道鏡とともに
称徳天皇を支えるんだから、なんという強運の持ち主

一方、ベトナムに流れ着いた清河と仲麻呂は唐へ戻るが、
運悪く安禄山の乱とバッティングしたため、日本から迎えの船が着くも
帰国はかなわず、仲麻呂・清河ともに現地で任官した。
仲麻呂は宝亀元年(770)に現地で死亡、
宝亀8年 (777)に次の遣唐使が来るが、清河も翌年現地で死亡。
唐で生まれた清河の娘が遣唐使船に乗って来日した。


3月8日の記事の大僧都・行賀(ぎょうが)もまた、
清河の第12次船に乗って渡航した1人だった。

行賀は留学僧で、帰国した後に東大寺の僧から腕試しに難しい質問を浴びせられたが、
まごまごして答えることができなかったという。

「ちょっとちょっとお~!
日本と唐に面倒を見てもらっていながらこれってどうよ?
31年間もあっちで何してたワケえ~!?」


ってバカにされ、行賀は恥じ入ってただ泣くばかりだった・・・
ただこれにはオチがあり、在唐期間が長すぎたために
日本語を忘れてしまったんだそうな
でもバカにされたことはわかったのか・・・ってちょっとツッコミを入れてみる。

その後行賀は努力して大僧都にまで出世するんだけど、
前々回の延暦21年2月3日の記事で元興寺・薬師寺・弘福寺・東大寺の
43人の僧への褒賞は、

 【当時の僧綱は、行賀、善謝、勝虞ら法相宗の僧侶によって牛耳られていたようで
  あって、三論宗よりも強く法相宗に対抗する意識をいだいていた最澄の講会を
  牽制する意図が、僧への特別褒賞にかくされていたとも思われるのである。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

と佐伯氏は推測する。


最澄の留学同期生には三筆の1人・橘逸勢(はやなり)がいる。
逸勢は留学生だったようだけど、中国語が苦手だったそうで、
しかも唐側からの援助資金が少ないので学校で思うように勉強が進まないと嘆いたとされ、
「言葉の壁」の少ない書と琴を学ぶことになる。
結局、逸勢は留学を2年で切り上げて帰国するが、
その後は書での第一人者となるんだから、何が幸いするかわからない(笑)。

まあ、遣唐留学生は時代をしょって立つ秀才たちがそろっており、
彼等はみな文章としての「漢文」は読めたはずだと思うけど、
言葉を自在に操るのと読むのとは別。
逸勢の例を見るに「言葉の壁」というのは想像以上に厚かったようだから、
最澄があらかじめ通訳を用意しておいたのは大正解だったといえるだろう。



こんな風に遣唐使はまさに命がけで苦労も多かったので、
3月29日に開いた送別の宴は海を渡る大使と副使のためにすべて唐風にセッティングされ、
宴たけなわになって桓武は大使の藤原葛野麻呂を呼んで酒を与え、

  この酒は大(おお)にはあらず平良(たいら)かに
         帰り来ませと斎(いわ)いたる酒


「この酒はただの酒ではない。無事帰国できるよう祈りを込めた酒である」
(『日本後紀』森田悌氏の訳によるもの)という和歌を贈った。
葛野麻呂は雨のような涙を流し、参列している群臣たちもみな涙を流したという。


帰ってこいよ~
帰ってこ~い~よ~

(by 松村和子)

と歌ってはいるものの、もうほとんど水さかずき状態・・・
この宴で2人は前回紹介したお金をもらっているので、
安殿親王から別口で金銀をもらった最澄は特別扱いだったことがわかる。

さて、4月に入って遣唐使一行は難波津から出航した。
が、その直後に不運に見舞われる。
海に投げ出されて行方不明になった人の中には、大学教授の豊村家長もいた。

4月16日はグレゴリオ暦で5月14日にあたる。
まだ台風の頻発する時期ではないけど、遣唐使は朝貢という性格上、
入国にも帰国にも好きな時期を選べないという問題があり、
必然的に往復とも天候の不安定な時期に船を出さざるを得なかったそうな。

また、当時の船団は4艘仕立て。
5~600人の大所帯ともなれば、1艘に100人以上が乗る計算になる。
こうした事情から、ひとたび問題が起これば被害が大きくなりがちなのは
致し方のないところだろう。

結局、この年の派遣は中止となった。
んで、閏10月23日に最澄の記事があるのに色を変えてませんが、
実はこれ、『日本後紀』にある記述なんです。
最澄が正史に顔を出すのはこれが初めて。
いや、出世したもんです。
つか、遣唐使は重要な外交使節で、その成功を祈願したものだったから
登場したものだとは思いますが。


遣唐使が中止になった直後の最澄の詳しい動向はわからない。
可能性としては、最澄の乗った第2船だけはどうにか九州へ辿り着いたので、
そこでみんなを待ったものか、あるいは別の船を用意して先に九州入りしたものか。

いずれにせよ、薬師仏を奉納すると同時に大乗経典の講説を数回行い、
願文を作ったという。
この願文はかなりの長文のようなんだけど、あいにく現存はしていないらしい。

入唐前の九州でのエピソードが『叡山大師伝』にある。
豊前の賀春(かわら)山の麓で一夜を過ごした際、夢に梵僧が現われた。
その体は、左半身は人に似ていたが、右半身は石のようだった。
梵僧は最澄に言った。

「ボク、賀春。
和尚を見込んでお願いがあるんだ。
ボクの業道の苦患からボクを救ってくれたら、
和尚の求法を助けて昼も夜も守護してあげるよ」


朝、目を覚ました最澄が賀春山を見ると、山体の右側が崩れ木がなくなっており、
あたかも夢に見た梵僧の体のようになっていた。
そこで最澄は夢に見た梵僧が賀春山の神だったと知り、
法華院を建てて法華経を唱えてやった。

これが『叡山大師伝』が書かれた当時「賀春神宮院」と呼ばれた寺のなれそめで、
神宮院は今も福岡県田川郡香春町にあるようです。
山崩れを起こした賀春山はしばらくして木が生え、年々生い茂るようにまでなり、
地元のジジババで驚かない者はいなかったという・・・

佐伯氏によると、最澄が賀春山のふもとに寺を建て読経したことは事実らしい。
『叡山大師伝』での上のエピソードには続きがある。

託宣にいわく、

「もし海での危難があれば、ボクが必ず助けるからね。
ボクに助けて欲しいと念じれば、光になって助けてあげる」

して、渡海の際には実際に光が現われて難を逃れたので、
託宣はウソではなかったと知った・・・

この次に「乃大師本願」とあるので、水難の霊験のある賀春山の神に
何としても海を渡って本場の天台をじかに学びた~い!!
という願かけをしたのかもしれない。


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最終更新日  2014年11月09日 22時45分14秒


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