戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年11月08日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
今日はちとお出かけしてきました~。
体調は相変わらず良くないんだけど、すでに年の瀬モードに入っているので
無理してでもスケジュールをこなさなければなりません。
少し前のお出かけと合わせて、最澄の歴バナが終わったら一気にご報告します。



さて、三論の名匠・善議が高雄講会のメインである天台の教えを絶賛したのには
いかなる理由があったのか?
前回の延暦21年の流れとあわせてご覧ください。

佐伯有清氏の解説を要約すると、まず三論宗と天台宗では
考え方に大きな差があるそうな。


お釈迦様に発する膨大かつ一連の「仏教」という大きな枠の中で、
どれをメインに持ってくるか、どの教えを重視するかという違いで、
ぜ~んぶ仏教です。
ので、宗派は違っても使うお経そのものは同じです。

これはつまるところ、時代の変化に合わせようとしてお経を作りすぎちゃったから
解釈の違いだとか色んな混乱が生まれたんじゃないかと思うけど
(唐代のお経の数は こちら )

まあ、大正期には 3,527 まで増えたっていうから
それに比べたらまだ唐代はマシな方だけど、それだって1,000部を越えてたら


その膨大なお経を天台大師・智ギ(538~597)は分類・整理し、体系づけた。
なんでも、お釈迦様が生涯に説いた順番に整理したのが

 1、華厳時
 2、鹿苑時
 3、方等時

 5、法華涅槃時

だそうで、そうすると智ギはお経のすべてを金口(唐代のお経の数のリンク先を参照)
と考えていたのか?って素朴な疑問も浮かびますが、まあ当時の中国人で
自発的に「大乗経典はお釈迦様の教えじゃない!」なんて言う人いるハズないしな。

まま、それはともかく、フツーに考えれば後の時期になればなるほど
ウィスキーのようにその教えはじっくりと熟成され、芳醇な香りを醸し出すべきなので、
智ギは第5段階を最上ランクと位置付け、『法華経』を根本経典とした。

三論宗の根本経典は『般若経』。
これは智ギの分類では第4期にあたり、高い位置づけといえる。

最澄は華厳宗の分類にも影響を受けていたそうで、華厳宗の中では
1:小乗教、2:大乗始教、3:大乗終教、4:頓教、5:円教という順番で
2番目の大乗始教はさらに三論・法相に分けられ、三論の方が法相よりも
評価が高かったんだそうな。

そして善議・勤操の属する大安寺は最澄の師・行表の本寺でもあり、
最澄ともゆかりが深い。

こうしたことから、最澄個人としては法相よりも三論が上位だと考え、
また大安寺の三論学派に好意を示していたという説があるようです。

ここ数年の勅から、三論と法相の争いは主上の頭痛のタネであり、
イケイケの法相に押されて三論が苦しい立場にあったことがうかがえますが、
そういう中で最澄の天台法会は行われました。

 【三論・法相両宗の争いという状況の中に高雄講会の意義をおいてみると、最澄による
  天台法華宗の宣揚は、三論宗側にとって、その立場を異にするといっても、百万の
  味方を得たようなものであった。善議らがその謝表のなかで、口をきわめて天台の
  教えを称賛している文面から善議らの高ぶった悦びに鼓動が伝わってくるのである。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

少し前の記事で展開した、最澄ナスの延暦アグリ劇場を蒸し返せば、
県大会を勝ち抜いて全国大会に出品されることになった最澄ナスは
善議という名の良い世話人に出会い、善議が最澄ナスをピカピカに磨き上げて
見栄え良くセッティングしてくれたことによって、審査委員長の眼に止まるようになった、
てな感じ?

審査委員長はもちろん桓武・・・
あれ、これじゃ農夫と2役になっちゃうな。
どうでもいいか、そんなこと(笑)。


9月6日、高雄講会においてあらたに『法華文句』の講義が始められた。
その翌日の9月7日、善議の喜びの報告を受けて天台の教えに期待を持った桓武は、
天台を興隆させるにはどうしたらいいか、和気弘世に下問した。

この報を受け取った弘世はすぐにそれを最澄に知らせ、
2人でその対応策について終日協議したという。
折しも前々回の延暦20年には遣唐大使と副使が任命され、
久々の遣唐使を送る準備に入っていた時期。
最澄と和気弘世はこの機に留学(るがく)僧と還学僧(げんがく)僧を
それぞれ1人ずつ派遣して、唐から最新の教学を直輸入することの提案を決め、
すぐに上表文を作成した。

その内容は、今の我が国に伝わっている法相と三論はともに「論」によっているもので
「経」によるものではない。
論は経の末ともいうべきもので、ただ天台だけが経による教えであるとし、

 【これは、最澄が高雄講会を通じて得た自信に裏うちされた天台法華宗の「特立宣言」
  ともいえるものであった。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

結局、この提案は半分受け入れられ、円基と妙澄という2人の最澄の弟子が
留学僧として派遣されることとなった。


遣唐使の日本側の目的は、先進国である唐からの技術やら経典やらの吸収。
これが外国側の記述になると、「朝貢」のためということになる。
延暦以前で近い時代の遣唐使の人数は5~600人だったというから、
今回の延暦の遣唐使も600人前後だったのだろうという。

それだけの大人数だから乗り込む人の職種は実にさまざまで、
正式な外交使節はもちろんのこと、絵師・仏僧のほか陰陽師もおり、
「射手」なんてのもいたらしい。

中国側の事情によっても違うと思うけど、あちらとしては基本的には
長期滞在を求めていたらしい。
が、日本側としては早期の帰国を望んでいた。
渡航費用は朝廷もち、あちらでの滞在費用はあちらが出してくれたそうな。

超大国・中国の認識では朝貢は年に1度が基本ルールだったが、
日本の場合は海に隔てられており遠いことを哀れんで20年に1度の割合でいいよ、
って寛大な措置が取られたらしい。

のちの明の時代になると、 10年に1度 という割合に縮まったようだけど、
「10年に1度でいいよ」っていうよりは「10年以内に来んじゃねえ!」って
意味合いが強いようにも思う

で、留学生(るがくしょう)という留学僧は約20年の留学期間・・・
これはつまり、次の遣唐使のお船に乗って帰るって意味だろうな。
それに対して還学僧は短期留学。
だから、来た船に乗って帰るということだろう。

本場でしっかり最新の仏教を学びつくして日本に持ち帰るという
本来の留学の視点からいえば、留学僧を派遣した方がいいように思うけど、
最澄は還学僧1人と留学僧1人を要請した。
まだ最澄だって30代なかばなんだけど、20年も待てないと思ったのかもしれない。

しかし、桓武の回答は留学僧2名を派遣するというもの。
これに対して最澄がどう思ったかはわからないけど、
和気弘世への下問からわずか5日後、桓武は

「考えたんだけどさ~、本場の天台を持ち帰るのに
これまで長らく修行してきた最澄たん以外に
適任者はいないと思うんだよね~。
だから、最澄たんを還学僧として送り出そうと思うんだ」


とあっさり前言を撤回して還学僧・最澄と留学僧・円基を派遣することになった。
その翌日の9月13日、最澄は

「わたくしは長く比叡山にこもっていたので、
身の振り方もわからず愚かな者でもございますが、
釈尊が悟りを求めるのに身をなげうった例にならって、
わたくしも命を賭して陛下の意に応えたいと思います」


と派遣の下命を受諾。

突然のドタキャンで留学できなくなってしまった妙澄(みょうちょう)さんは
さぞ腐ってしまっただろうと思いきや、のちのちまで最澄につき従い、
重要なお役目を果たしたりしている。

一方の円基さんは予定通り唐には渡ったらしいんだけど、
その後仮病を使ってすぐ日本に帰国して政治家だか官僚だかに転身。
最澄の元を離れただけではなく天台宗徒を恥辱までしたというから、
人の人生ってわからないもんです。


ここまでの最澄の人生を振り返ると、根底に最澄自身の努力と資質があったことは
もちろんだけど、実に多くのタイミングに恵まれている。

前に空海のことを根菜類かタケノコだろうとしましたが、
空海の場合はその類いまれな資質と強烈な個性によって、
いつどんな時代に生まれたとしてもカリスマとしての地位を確立したんじゃないだろうか
という印象があるからです。

では、ナスの方はどうか?
もちろん最澄にも非凡な能力はあるけど、もっと遅い時代に生まれて仏道に入っていたらば、
高僧としての名声は得たかもしれないけど、
あるいはもう少し知名度は落ちていたかもしれない。

最澄さんをおとしめようなんて気はさらっさらないので、誤解しないでね。
ただ、そう思いたくなるぐらい、最澄の前半生は順風に後押しされたものだったと
具体的な流れを見る中で感じただけです。
ま、それぐらいの強運の持ち主でないと新しい時代は切り開けないわな。
それに、多くの人の直接・間接の支援を受けた前半生をしっかり押さえた上で
帰国後の後半生を見ると、実際当時はどういう状況だったのか逆にわかるような気もします。


最澄この年36歳。
めでたく唐入りが決まったものの、現時点で中国語は話せないし、
現地で覚えるにも短期留学のためその時間はない。
そこで、ほぼ唐語を話せる弟子の義真(ぎしん)を通訳として連れていくことを申請。
これも認められたので、厚遇されていたんじゃなかろうか。

通訳のほか、2人の従者を従え、朝廷から既定の給料をもらって渡航の準備に入った。
高雄講会の終了がいつかはわからないけど、その前年の延暦20年に
七大寺から講師を招いて行った法華十講のように、高雄講会の模様も
記録していたに違いないと佐伯氏は推測する。

最澄の派遣を決めたのは桓武だけど、皇太子・安殿親王は『法華経』をはじめ
3種類の大乗経典を書道の達人に2部ずつ書写させ、最澄に渡した。
1部は唐へ持っていかせるためで、もう1部は最澄が比叡山寺の一切経蔵に収めた。
唐へ持っていった3種類のうち、『法華経』は金字で書かれたものだったという。

この3つをひとつの箱に収め、最澄が唐の天台山に着くまでは開封を厳禁とした。
さらに安殿親王は援助資金として金銀数百両を与えたそうな。
これは遣唐大使(金200両)・副使(金150両)よりも多かったというから、
安殿親王にも格別の思い入れがあったものと思われる。


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最終更新日  2014年11月08日 21時20分42秒


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