戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年11月12日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
前回の延暦23年の続き・・・と行きたいところですが、
ここで一旦、遣唐使が御破算になった前々回の延暦22年に戻ります。


最澄と中央政界の流れをずっと見てきましたが、その過程で
延暦寺の創建と一般的にいわれる延暦7年(788)の年、
佐伯真魚が平城京に出てきたことも紹介しました。( 「叡山攻め(50)」 参照)

真魚はしばらく平城京で勉強したあと、最澄が内供奉十禅師になった頃に
大学に入ったようですが、その後は四国の山林で修行したとされ、
19歳の時に和泉で大安寺の 勤操

桓武が早良親王へ2度めの謝罪をした延暦16年(797)、
教海は23歳で『聾瞽指帰』(ろうこしいき)という著述をあらわす。
ここからしばらくの間、教海の詳しい足取りはわかっていないらしい。

が、遣唐使が延暦22年(803)に一旦中止になったちょうどその頃、
「出家」したという史料があるそうな。
延暦25年の太政官符がそれで、そこには

  ●学僧空海<俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口同姓真魚>
  右去延暦廿二年四月七日出家入●●

とある。
して、この「出家」の2日後、東大寺の戒壇院で具足戒を受けたとされる。

ともかく延暦22年4月9日には正式な僧・空海がこの世に存在していた。

空海が最澄と留学同期生だったことは有名な話ですが、
実は当初は空海さんは遣唐使のメンバーに入っていなかったらしい。
延暦22年は実年齢で空海29歳。
14歳の頃から本格的な勉強を始め、23歳で書いた『聾瞽指帰』は


  身につけ、あわせて並外れた文才を持っていたことを示している。】
  (『空海の入唐資格と末期の遣唐使』東野治之/奈良大学リポジトリより)

というもので才能あふれる人だったのに、29歳まで具足戒を受けていなかった。
東野氏は【おそらく優婆塞か私度僧の形で仏道の修行に努めたらしい】とする。
それが、このタイミングで急きょ正式な僧となったことがひっかかる。
ちょっと延暦22年の遣唐使の記事だけ拾ってみましょうか。


2月4日、遣唐大使以下、渡海するメンバーに身分に応じて手当を支給する。
3月18日、遣唐使らが朝堂院で天皇に挨拶。
3月29日、遣唐大使・副使のためにはなむけの宴を開く。

4月2日、遣唐大使・副使が暇乞いに参内し、天皇から節刀を授けられる。
4月7日、空海「出家」。
4月9日、空海、受戒。
4月14日、遣唐使一行が難波津で乗船。
4月16日、遣唐使一行が出航。途中、大雨と強風に襲われ船が大破し、多くの死者を出す。
4月23日、遣唐使船遭難の報が宮中に届く。
4月28日、使者を遣わし、遣唐使船と破損した物の調査をさせる。
5月22日、遣唐使船が破損して渡海できなくなったため、遣唐使が節刀を返還する。


・・・ふむ、ということは空海の受戒はまだ遣唐使一行が出発する前だから、
リベンジ船に乗ろうと画策してあわてて戒を受けたという訳でもなさそうだな。
しかし、あまりにもタイミングが良すぎるよな。


上の「叡山攻め(50)」のリンク先で奈良に上った真魚が入った寺は
佐伯今毛人(いまえみし)が建てた寺と紹介してますが、
今毛人は造東大寺長官・造西大寺長官・造長岡宮使など華々しい経歴の持ち主。
『水鏡』では早良親王が失脚した事件の発端は今毛人の昇進 ってことにもなってます。

つまりは今毛人は佐伯一族の中で輝かしい星であり、
宝亀8年(777)の遣唐大使にも選ばれてます。
ただし、 今毛人は途中で病気になった ため渡海はしてませんが。
今毛人が遣唐大使になった年は真魚は3歳の幼児だったものの、
この偉大な一族のおじさんの影響で、あるいは空海も
海の向こうへ憧れを抱いていたかもしれない。

東野氏の前掲論文では、面白い考察がなされている。
かいつまんで紹介しますと、天台僧・安然(あんねん:841?~915?)が記した
『真言宗教時義』に、興味深い記述があるそうな。
それは、最澄とともに空海は入唐したが、空海は「元、薬生」だったというもの。

「薬生」の解釈が問題となるようだけど、【遣唐使の随員中には、
実技を学ぶ一種の留学生として、某生と称する者がある】そうで、
たとえば「音声生」「鋳生」「細工生」などがいた。
ゆえに、「薬生」もこうした研修生の一種ではなかったかとする。

空海に医薬の知識はあったのか?
帰国後の空海の著述の中には医薬に関する豊富な知識をうかがわせるものがあるが、
『聾瞽指帰』の中にも薬に関する内容があり、

 【空海が若年時に道教に関心を持ち、その学習に努めたことは、『聾瞽指帰』そのものが
  証明するところであるが、道教は本来、医術や薬学の学に縁が深い。それに関連して
  空海は、医薬についての専門的な知識を獲得するに至ったのであろう。
  『聾瞽指帰』執筆の段階で、空海はすでに医薬に関して、相当な造詣を有していたと
  考えられる。即ち空海が、たとえ方便とはいえ、薬生に採用される条件は十分に
  存在したと言ってよかろう。】

遣唐使の選考基準の詳しいことはわかってないみたいだけど、
大使や一行の重要メンバーには厳しい審査基準が設けられていたようで、
ここから留学生や研修生にも派遣するにふさわしい者を選ぶための
それなりの審査があっただろうとする。

 【三十歳を目前にしながら正式な地位を持たない空海にとって、何らかの後ろ盾は
  あったにせよ、その選考や競争に正面から挑むには、かなりの困難があったのでは
  あるまいか。空海にとって薬生になることは、自己の知識を生かした苦肉の策で
  あったと考えられる。】

ということで、「元、薬生」の記述を採用するならば

「何であれ、メンバーに入っちまえば
こっちのもんさ」


とばかりに、空海さんが薬学の研修生として入唐資格を得ようとしたんじゃないか、
というのが東野氏の推測。
ただ、薬生になりすましたところで結局延暦22年のメンバーには
入れなかったってことになるよな。
「補欠にはなったけど、落選しました」みたいな?

なんでそうまでして、海を渡りたかったのか・・・
東野氏は、当時の遣唐使の派遣状況の冷静な分析と判断が影響したのだろうと見る。

少し前の記事で書いたけど、日本は海を隔てて遠いので「二十年一来」・・・
朝貢は20年にいっぺんでいいよってことになっていた。
が、だんだんと派遣の間隔も開く傾向にあった。
29歳で特段の地位も築いていない無名の僧・空海にとっては、
このチャンスを逃せば次は50歳前後くらいになってしまうので、
ヘタしたら入唐そのものを断念せざるを得なくなるかもしれない。

延暦の遣唐使派遣前の空海の状況を見れば、彼がそうした懸念を抱いたとしても
おかしくないので、なんとか入唐のチャンスを得ようと手を尽くしたのではないかと
東野氏は語る。

結局、延暦22年の派遣にはもれてしまったものの、
この時に派遣が中止されたことで再びチャンスがめぐってきた。
しかも、延暦22年に受戒していたことが効を奏して、
本人の希望通り「僧」として入唐する資格をめでたくゲットできた。

僧ではあっても、無名ということには変わりないので、
なぜ空海がメンバーに入れたのかは色々な説があるようだけど、
これだという定説はないらしい。
が、ひとつの要因として

 【当時、遣唐使船が難破すると、「縁起が悪い」ということから留学生は入れ替えられる
  習わしがあり、入唐を希望する空海にチャンスがめぐってきたのだ。】
  (『あなたの知らない最澄と天台宗』山折哲雄監修/洋泉社より)

ということがある。
延暦23年(804)の派遣の後は承和5年(838)で、
すでに空海はこの世の人ではない。

ということは、延暦22年の派遣に成功してれば空海は入唐はできず、
彼の運命はもとより日本仏教史も変わっていたかもしれない。
帰国の際も空海は思い切ったことをしており、彼はシビアに現状を分析し、
適切な判断を下しかつ行動力もあったということがうかがえる。

延暦22年の派遣の中止を空海が内心喜んだかはわかりませんが、
ともあれめでたく留学僧となり、翌年のリベンジでは遣唐大使の乗る第1船に乗船。
最澄は副使の乗る第2船に乗っての出航です。
で、ここから前回のタイムテーブルに戻りますよ~。

遣唐使はまず住吉大社に詣でて航海の安全を祈願することになっていたので、
この時も同じようにしたと思われるものの、またもや出航直後に嵐に見舞われる。
え~、延暦23年7月6日はグレゴリオ暦に換算して8月18日・・・
前年の出航よりもさらに条件が悪いじゃん

当時の船団は互いに火を焚いて交信してたようなんだけど、
出航の翌日にはバラバラになったとみえ、第3船と第4船の交信が途絶えてしまった。
ウィキペディアによると、【羅針盤などがないこの時代の航海技術において、
中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能】だそうで、
つまりただひたすら風まかせ?

で、7月16日には大宰府から第3船の消息についての報告が発せられてますが、
それによると第3船は4日に平戸から出航したものの、岩に船が挟まってしまい
船が浸水したため、乗っていた遣唐判官らは取るものもとりあえず脱出して
岸にたどり着くことができた。

助かった人がいてよかったと思いきや、報告に対する朝廷からの返信は無情だった。
遣唐判官たちは逃げるのに手一杯で、通交のための積み荷を下ろすことができなかった。

「通交の信書と物資を届けて国と国の間を結ぶのが
アンタ達の仕事なのに、自分の命を優先して
積み荷を放り出して船をカラッポにするとは何事か!
も~、アンタ達には遣唐使の資格ナシ!
よって、厳罰に処す!!」


遣唐判官たちが脱出した後の船には射手数人が残っていたらしいが、
ともづなが切れて船が流され、行方がわからなくなってしまったという。
第3船、踏んだり蹴ったり・・・

第4船の詳しいことはわからないものの、第4船の遣唐判官と見られる人物が
翌々年に唐で位階・官職をもらっているらしいので、海上を漂った末、
延暦24年の年末頃になってようやく唐へ着くことができたらしい。


空海と大使の乗った第1船もまさに風と波に翻弄される木の葉のようだった。
なんでも、舵が折れて操船ができなくなり、『浪に随って昇沈し、風に任せて南北す』
という状況で海上を漂って水も尽きてみんなが疲れ果てた頃、やっと岸にたどり着いた。
出航してから34日めの8月10日のことだった。

第1船は台湾のあたりまで流されたらしく、10月3日に州都に到着し、
藤原葛野麻呂は11月3日に長安へ向けて出発し、
1ヶ月半かかってようやく長安の都へ到着。
空海は葛野麻呂とは別行動でひたすら己の道を邁進する。


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最終更新日  2014年11月13日 08時56分01秒


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