戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年11月14日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
さて、最澄たんと副使の石川道益の乗った遣唐使船第2船。

『叡山大師伝』によると、海に漕ぎ出して西を目指したところ、
にわかに黒雲が沸き起こってただならぬ状況に陥った。
第2船に乗っている人はみな生きた心地もせず悲嘆にくれた。
ここで大師が種々の願を発して大悲の心で持っていた仏舎利を海に投げ入れ
海龍王に捧げたところ、すぐに大風はやんでようやく順風が吹くようになり、
ほどなくして台州の近境にある明州のボウ県へ着岸した、という。

波に翻弄される海上にあって、祈祷の力で波をおさめ無事航海を乗り切ったというのは
海を渡った高僧にありがちな話ですね。
行きも帰りも似たようなエピソード があったしね。

ただ、佐伯氏は最澄が仏舎利を海龍王に施して航海の安全を祈願したのは
ありえないことではない、とする。

ふむ。
考えようによっては、留学僧は地位の有無に関わらず才能のある人が選ばれてるハズ。
遣唐使船は旅客船じゃないから、乗っている留学生たちはお客様じゃない。
しかも、航海には危険が伴うということは初めからわかってる。
あるものは有効に活用しようというコンセプトで、
こーゆー時のために僧侶は各船に分散させておいた可能性もあるかもな、と思った。

それでなくても当時の航海は風まかせ波まかせだったから、
ひとたび嵐に遭遇すればもうひたすら祈るしかない。

誰に頼まれなくても必死で持てる力をふり絞って祈祷を続けただろう。
きっと、暗い海の中で揺れまくる船からは風雨や波の音に負けないくらいの
読経の声が鳴り響いていたんだろうな(笑)。

もし「遣唐使ゲーム」なるものがあったら、
荒れ狂う海の中に敵役の海龍王が海坊主よろしく姿を現し、

「仏舎利、置いてけ~
置いてけ~」




どうしますか?

  素直に海に投げ入れる
  絶対イヤ。自力で渡ってみせると大見栄切る
  できれば渡したくないので、まず海龍王に説教してみる


てなイベント発生ってカンジかな。
2番を選んだら船が転覆してゲームオーバーだ

いやいや、ゲームの構想練ってる場合じゃありまへん。

最澄が仏舎利を持っていたというのは本当か?
『叡山大師伝』には、まだ最澄が小僧の頃、叡山のふもとの神宮禅院で
懺悔の行を行っていた時に香炉の中に仏舎利があるのを見つけたという
かなりマユツバなエピソードがある。
あるいは、安殿親王あたりからもらったものかもしれないよな。

最澄の所持品の中には高さ1尺の水天菩薩像があり、
これは航海の安全を祈願してお守り代わりに持っていったのだろうという
推測があるらしいが、佐伯氏は水天は当時、西を守護する神として認識されており、
天台山への奉納品として持っていってるのだから、
天台山の安泰と加護を祈る意味で水天を選んだのだろうとしている。


第2船が大陸に着いた正確な日付はわかっていない。
が、明州よりももっと南へ流された第1船が8月10日に到着しているし、
第2船の使節一行が長安へ出発しているのが9月1日だから、
入京の手続きにかかる期間を考慮すると7月下旬から8月上旬の間頃だろうという。

この「使節一行」に副使の石川道益の姿はない。
道益は到着した直後に死去したらしい。
道益、この年42歳。
あ~、男の厄年だな

他の船よりは比較的スムーズな航海だったと思うものの、
荒れ狂う海の中で体力と精神力をすり減らしたのかもしれない。
最澄も無事に大陸の地を踏めたものの、ちょっと体調を崩していたらしいから
道中の過酷さがうかがえるエピソードと申せましょう。
9月1日に出発する一行を見送って、最澄が動き出すのは9月12日。
少し休養を取っていたのかもしれません。
ただ、のんびり静養している時間はない。

9月12日、最澄が天台山への巡礼の許可を求める書状を明州の官吏へ提出。
これは許可され、途中の県では船と荷物の運搬人を手配してもらえることになった。
して、9月15日に天台山目指して明州を出発。
同じ頃の日本では行方不明の第3船と第4船の捜索を新羅へ依頼している。

そんな本国の大騒ぎはつゆ知らず、9月26日、最澄および義真と従者は
天台山のある台州へと到着した。
『若き日の最澄とその時代』によると、最澄は台州刺史の陸淳(りくじゅん)へ

 ・金15両    ・筑紫の斐紙200張    ・筑紫の筆2管
 ・筑紫の墨4挺  ・刀子1          ・加斑のくみひも2
 ・火鉄      ・火石8          ・蘭木9
 ・水精珠1

を献上したそうな。
袖の下・・・
いやいや、物事を円滑に進めるためには御進物は必要です。
なかなかソツのない御仁でございます。

日本での最澄はここまで直接・間接に多くの人の温かい支援を受けてきましたが、
海の向こうでも良い出会いと縁に恵まれた。
トップバッターが陸淳で、彼は9つの品は受け取ったが金は受け取らなかった。

そこで、返してもらったその金で最澄は紙を買い、
智ギの『摩訶止観』を書写したいと陸淳に申し入れた。
『叡山大師伝』には、最澄の志を喜んだ陸淳は道邃(どうずい)に命じて
チームを作り、『摩訶止観』の書写をさせたとある。

道邃は中国天台宗の第6祖・湛然(たんねん)の門弟で、
のち第7祖とあおがれる名僧。
この時道邃はちょうど台州に来ていて、しかも『摩訶止観』の講説を
しているところだったというから、ナイスタイミング。
道邃も、はるばる海の向こうの小島から天台を学びに来た最澄の話を聞いて
さぞ喜んだことだろう。



10月6日、最澄一行は天台山へ到着して仏隴(ぶつろう)寺の行満(ぎょうまん)に会う。
行満は道邃と同じく湛然に学んだ僧侶。
最澄に会った行満は、

「その昔、智者大師は弟子たちに、自分の死後200年ほどして
初めて東国で自分の仏法が興隆するだろうと語ったというが、
大師の言葉は失われず、今、この人に会うことができた」


と言って喜び、自分が読み終えた多くの書を与え、そのうちの1冊に自ら「手書」を
書き付けたそうな。
その内容は、自分のこれまでの経歴を振り返り、師の湛然の死後、その墓を守り
20年あまりをここで過ごしてきたが、多くの事はいまだ成し遂げていない、というもの。

この出会いの際に最澄は熱っぽく己の決意を語ったとみえ、
身を忘れて朝も晩も勉強に励みます、と最澄が言ったという内容も
「手書」に記されている。

それから、最澄は持参した品を天台大師・智ギの霊前に捧げただろうと佐伯氏はいう。
まずは 安殿親王から託された金字の『法華経』を含む大乗経典の入った箱 。
水晶の念珠10貫。
高さ1尺の水天菩薩像1躯。

さらに、『屈十大徳疏』(十大徳を屈するの疏)10巻、
『本国大徳諍論』(本国大徳の諍論)2巻。
『屈十大徳疏』は七大寺バージョン法華十講の記録で、
『本国大徳諍論』の方は

 【高雄山寺で天台の教義が開講された折、三論宗、またとくに法相宗から提起された
  諸大徳の異論をまとめた記録であろう。最澄が、この両書を天台山へ携えていったのは、
  天台山の諸僧からの批評を受け、自己の天台の教えについての理解の程度を確認する
  ためであったと思われる。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

ということで、高雄講会の記録をわざわざ持っていったようです。
これについて佐伯氏は【最澄は、まことに用意周到な人物であった】とする。

自分の理解の程度を推し量る目的もあったかもしれないけど、
のちのバトルを見越して南都六宗からの攻勢に対して本場の意見を聞くことで
理論武装に磨きをかけたって見方もできるよな、と思った。


ところで、安殿親王が最澄を特別に遇し、経典を持たせたのはなぜか?
これは鑑真さんの周辺で8世紀後半から語られていた伝承に関係するもののようで、
佐伯氏はその論考に多くのページを割いていますが、伝承をごく大ざっぱに紹介すると、

「天台大師・智ギの師であり中国天台宗の第2祖と崇められた慧思(えし)は
日本で生まれ変わって聖徳太子となった。太子が遣隋使を送った際、小野妹子に
我の所持品である法華経・錫杖・鉢を取ってくるように伝え、妹子は教えに従って
天台山へ行き、太子指定の品を持ち帰ってきた。」

という内容。
これはもちろん日本で起こった伝承だけど、それが中国に逆輸入されたらしく、
慧思が所持していた経典の中には金字の『法華経』などもあったので、
伝承がさらに伝承を生んで、聖徳太子が取ってこさせたのは金字の『法華経』だという話が
唐僧によって書かれてもいるそうな。

話題を呼んだ高雄講会の模様は善議の謝表によって桓武へ届いたが、
同じく講会に参加し、その内容に感銘を受けたと思われる内記の山辺全成(またなり)
という人が発言した、天台の法脈を受け伝えなければならないと言葉が
安殿親王の元にも届いた。

安殿親王はさっそく使者を善議らに遣わして講会の盛況を喜び、天台の教えを尊重していく
という意欲を伝えた。
これに感激した善議がまた感謝のお手紙を送り、その中には
「それ聖徳皇子は持経を大唐に取りて、妙旨を本朝に疏したまう」
という言葉も入っていた。

同じような内容は桓武への謝表にも含まれていたが、
かの聖徳太子が仏教の興隆に力を尽くしたことをアピールすることで桓武父子に

「アンタ達も見習いなさいよ」

って言いたかったのかもしれない。
要するに、安殿親王は聖徳太子を意識して最澄へ金字の経典や金を下賜したのだろう、
ってことらしいです。
おそらく、桓武にも同じような思惑はあったのでしょう。

最澄が入唐したのは、もちろん純粋な信仰と熱意によるものだった。
しかし、その世話をした桓武父子の意図はまた別のところにあった。

 【この両者が最澄に期待したのは、おそらく天台宗という新しい学派とその経論が
  最澄の手によって唐からじかに日本にもたらされ、同時に天台大師智ギの霊位に
  最澄をして礼拝せしめ、早良親王の怨霊を鎮めたいということであったろう。】
  (前掲書より)

これはすごい推測だな。
怨霊対策がついに海を越えてしまいました
でも、あり得ない話じゃないよな。

外護者との意識のギャップがあることは最澄もうすうす気づいてはいただろうけど、
最澄も聖徳太子の慧思後身伝説を強く意識していたらしく、
また念願の天台山での修行が始まってワクワクしていただろうし、
智ギの霊前では早良親王のことなんかちいとも思い出さなかったかもしれない(笑)。


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最終更新日  2014年11月15日 16時52分24秒


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