戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年12月03日
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カテゴリ: 江戸めぐり
さてと、それでは『高野山の名宝』展でわたくしの目を引いたものやお気に入り、
それから歴史に思いをはせてニヤついたものをいくつかご紹介しましょう。

展示室に入るとまず空海さんの木像がお出迎えしてくれますが、
その次に出るのが『 聾瞽指帰 』(ろうこしいき)。
空海さんの真筆です。
国宝です。

おお、いっきなりすげえの出すな~と思って少し読んでみたのですが、
書体の評価なんかはできないものの、戦国期のくずし字なんかよりは


その先はしばし小物が続くので、ガラスケースの前には
少々人だかりができていた。
ここで展示されていたのが、密教の法具。

わたくしもこれには日光で長年お世話になってますので、
一般人の中でも普通の人よりは密教法具を見慣れてる方じゃないかと思いますが、
日光輪王寺で見るものとはだいぶ雰囲気が違う。

ま、見慣れてると言ってもいつもは少し離れたところからぼんやり見てるだけなので
細かい比較ができる訳じゃないんですが、洗練された後代の法具よりも
もっとずっしり感がある。
なんつーの、輪王寺で見てるものを女性的とするならば、
展示品はもっとずんぐりしてしごく男性的とゆーか。


展示品はずんぐりしてる割に先っぽがものすごく鋭利だったりして、
確かにこれは武器だなと思った。
企画展の図録によると、やっぱりこのテの法具の起源は武器らしい。

表面はピカピカのキラキラじゃないしこのスタイルだし、
これは相当古いものじゃないだろうか・・・

と思って帰ってから図録の解説を読んだら、「中国・唐または平安時代 8~9世紀」
とあって、空海が唐から請来したものとの伝承もあるらしい。

いくつかある法具の中で最も気に入ったものが独鈷杵(とっこしょ)で、
これは【日本における独鈷杵の現存最古例として貴重】なんだそうな。
重文。


図録を眺めていたら、空海が高雄山寺において弘仁3年(812)に
潅頂を授けた人の名簿のようなものがあった。
その筆頭にある名が「僧最澄」・・・

えええ~、こんなの見てないよお~!!

どうやらこれは入れ替え対象だったらしい・・・
これから行く方はこれが見られます

そうそう、法具のあたりにはこれもあったな↓。
図録の写真は載せられませんが、自分の記事で紹介したいと思ってたものが
結構チラシに載ってたので、チラシなら誰でもタダで手に入れられるからまあいいかな、
ってことで、チラシの方から写真をいくつか載せます。


高野山出稼ぎ・パンフ2


国宝「諸尊仏龕」(しょそんぶつがん)。
これね、実物はすごく小さいの。
江戸の時代劇で頭をちょこんと乗せるだけの高い枕を見かけますが、
あれと同じくらいの大きさと思ってください。
枕を観音開きにするとこの形になります。

うおお、すげえな。こんなの見たことない・・・
と持参した双眼鏡で細部を鑑賞しようとしたものの、小さすぎてろくに見えず
図録の方は超デカい写真が載ってますが、こっちの方がよく見えるわ。

トーハクの東洋館 で仏像の顔にも民族性があることを学んだので、
あの中の顔に当てはめると大和民族というよりは中国っぽい顔してるよな、と思った。

で図録を見ると、空海が恵果から後継者の証として授けられたものの中に
「刻白檀佛菩薩金剛等像一龕」なるものがあるので、この展示品がそれではないかと
議論もされたらしい。
その議論に決着がついたのかはわからないけど、「中国・唐時代 8世紀」とあるので、
恵果からもらったものではないにせよ、留学の収穫物とはいえるのだろう。

ちなみにこの龕、通称は「枕本尊」だそうな。
留蓋を「かがみもち」と呼んだりと普段からわたくしのレベルの低さに
苦笑している読者様も多いかもしれませんが、龕を見た時に

「閉じたら枕だよな」

って思った今回の直感は世間の支持を得られたようです


その次の展示は密教的なものへと移っていく。
大きな曼荼羅とか、いかにも密教~ってものが色々ありましたが、
ここで目を引いたのが紺紙に金字で書かれた『般若理趣経』。

理趣経(りしゅきょう)・・・
この名前、覚えてますか?
「叡山攻め(27)」 で紹介した、ハレンチなあのお経ですよ(笑)。
いやいや、ハレンチなんつったら怒られるな。

わたくしがここで理趣経が出ていたのを喜んだのは、
もちろん不届きな理由からではありません。
このお経は一般に最澄たんと空海たんの仲に亀裂が入った理由とされておるのです。

空海が持ち帰った密教がホンモノだと認めた最澄は、空海に弟子入りする。
その後は幾度となく空海に密教経典のレンタルを申し入れ、
空海もそれに快く応じて2人の親密な関係はしばらく続いた。

ところが弘仁4年(813)11月、最澄が「理趣釈経を来月まで貸してください」と
申し入れたところ、空海はそれを断った。

理趣経は仏バナで簡単に紹介した通り、字ヅラだけ読んだらとんでもないことが書いてあるし、
そもそも密教は言葉ですべてを伝える性質のものではないので、
密教の知識の浅い最澄がそれを読んだだけでとても理解できるシロモノではない。
そこで、最澄のために渾身の長文をしたためて説得するんだけど、
とにかくこの手紙はかなり長いです。
くどいのが身上(?)の毛利元就もまっつぁおの長さです。

ありがたいことに、「密教21フォーラム」様のサイトには全文のわかりやすい訳文が
載せられているので、ぜひそちらもご覧になってください。
(「最澄宛、空海の返書-理趣の答案-」へのリンクは こちら )

ま~、とにかく長いし、本質的な部分はやはり難しいのですが、
訳文を書いた北尾克三郎氏の最後の言葉が印象的です。

 【空海のつぶやきが聞こえる。
  「真理をさとっていれば、すでに文章は不要である。それなのにどうして
  最澄和上は次々と経典の借覧をお求めになるのですか」と。】
  (エンサイクロメディア空海「最澄宛、空海の返書-理趣の答案-」より)

これを読んだ最澄がどう思ったかはわからないけど、以後2人は別々の道を歩む。
空海から本をレンタルした時は最澄みずから出向いたのではなく、
弟子をお使いにやらせた。
別に空海を軽んじていた訳じゃない。
最澄だって比叡山寺を大きくしたり弟子を育てたり、やることは山ほどあって
忙しかったのだ。

ただ、お使いに行った泰範(たいはん)という弟子が空海の元に行ったきり
帰ってこないことがあった。
そうしたこともあって2人は決別した、と一般によく言われる。
そういうエピソードだけ読んでると、

「ちょっと、空海たん!
泰範返してよ~!!」


「泰範はウチのがいいってさ。
諦めなよ、最澄たん。ふふん。」


で2人は絶交した、みたいな下世話なイメージが浮かんでくるけど、
それは直接的な理由じゃないんじゃないかな~と思う。
というのも、

 【空海から潅頂を受ける以前に最澄は病にかかり、比叡山の事務総監督の総別当に
  泰範を任命したが、泰範に何らかの過失があり、周囲に非難が出て、泰範は山を下り、
  高雄山寺の潅頂以降最澄の勧めで空海の下に行ったのである。】
  (『国の宝を育てる』木内堯央/鈴木出版より)

という出来事があったらしい。

まあそれでも、ウィキペディアによると最澄は泰範に叡山に戻るよう再三手紙を出し、
最後の最後まで最澄は泰範が自分の元に戻ってくることを諦めなかったといわれる、
という話もあるようだけど、自分の代理として全事務を任せるぐらいだから
優秀な人ではあったんだろうし、最澄の信頼も篤かったんだろうから
そういう人に帰ってきてほしいと思うのは当然のことではあるだろう。

ただ、人によっては「空海が泰範を返さなかった」という表現を使ってる場合があるけど、
そういう弟子の奪い合いみたいなネチネチしたものではなかっただろうとは思う。
それよりも、やはり空海の返書の中にヒントがあるような気がするんだよな。

空海の返書を読むと、まず初めに最澄と空海はともに唐で密教を学んだ仲間で
お互いがお互いを尊敬し、2人で密教を日本に広めて衆生の救済にあたろう、
と高潔で固い約束を交わしたことがうかがわれる。

その後で本題に入り、恵果から聞いた言葉を引いて、
言葉というのは結局ツールでしかないし、言葉ですべてを語れるものではない。
まして、真理を習得した後の言葉というのはもはやカスのようなものでしかないから、
それをいくら求めたところで何にもならない。
だから、本当に自分に密教のことを学びたいと思うのであれば、
完全に自分の弟子となって直接に接する中から学んでいくべきだ・・・

簡単にいうとそういう主旨のことを空海は説いている。
真言宗では現在でも「理趣経は在家には教えるな」みたいな面があるらしいけど、
理趣経はあくまできっかけでしかない。

最澄が空海から借りた本はかなりの数になるそうで、
おそらく回を重ねるごとに密教の正統な後継者である空海の中に
「このままじゃいけない・・・」という思いも増していったのだろう。
その思いを手紙にしたためた訳だけど、結構ズバズバ言ってる面もあるものの、
全体としては懇切丁寧に自分の言いたいことを述べている。

空海の言っていることは正しい。
が、最澄にとってはあくまでメインは天台の教え。
密教もかじったものの、日本で予想外にそれがウケて
年分度者の1人は密教を学ぶ僧と決められてしまった。
そこで空海のサポートも受けたいと思って色々努力したものの、結局

「そのやり方じゃダメなんだよ、最澄たん」

と空海に説教されてしまったので、最澄の立場に立てばちょっと気の毒でもある。
前掲書では

 【世にはこの二件をもって最澄と空海は仲たがいをしたようにいうが、最澄没後、
  最澄の弟子たちが再び空海に教えを請うて許されているところをみると、それほど
  深刻な対立になったのではなく、最澄はやがて菩薩戒をもって得度受戒する制度を
  主張し、空海は高野山の整備を始めるなどで、自然に交際が希薄になったとみるのが
  妥当であろう。】

としておられる。
だいたいそんなところじゃないかな、とわたくしも思う。

ただ、最澄には密教を摂取する必要性はあったのだから、
単に忙しいだけで疎遠になったというよりは、空海の言わんとするところを汲んで
自分が本当に目指すべきは何なのか、決意をあらたにしたんじゃないか、
そんな風に思った。


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最終更新日  2014年12月23日 21時51分42秒


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