戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年12月01日
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カテゴリ: 江戸めぐり
空海と恵果が出会った年の年末に恵果が死んでいるので、
下賤な言い方をすると空海は

「ギリ間に合った~」

ってことになるけど、その「ギリ」がもたらしたものは非常に大きかった。

恵果の享年は60歳だからまだヨイヨイというほどではなかったかもしれないけど、
千人もの弟子がいたなら優秀な弟子も多かっただろうに、
恵果が選んだ後継者はイナカの小島からやってきた(しかもガイジンの)
出会ったばかりの空海だった。

空海が恵果のもとに来た時、すでに般若から空海の話を聞いていたようで、

「いつワシのところに来るかと
ずっと待ってたんだよ~」


と喜んで迎えたというので、般若からかなりの有望株であると伝えられていたのだろう。


その真髄を体得するのにはそれなりの時間が必要なのかな、って
シロートのわたくしは思うのですが、空海の場合はすでに般若のもとで
みっちりサンスクリットを学んでおり、その上に空海自身の資質があったので、
たいして時間は必要なかったらしい。

真言密教には「真言八祖」という偉大な阿闍梨たちがおるそうで、
恵果は第7祖。
その恵果から伝法阿闍梨位の潅頂を授けられた空海が第8祖。
そう、空海さんは主流の正統な後継者となったのです。

もともと空海は次の遣唐使船が来るまでの約20年間を
唐で留学生として過ごすはずだった。
それに加えて恵果の後継者となったのだから、物事がスムーズに運んでいれば

しかし、恵果が勧めたのは早く帰国して日本に真言密教を広めよ、というものだった。
そして、空海のために経典の書写やら曼荼羅・法具の作製やらが急ピッチで進められ、
恵果が先代から授かったものや恵果自身の所持品を空海に与えた。

恵果の真意はわからない。
が、空海と出会ってからほどなくして空海を後継者とすることに腹を決めたようで、

空海と出会った頃にはすでに恵果の体調は思わしくなかったのかもしれない。

それに、大勢の弟子で賑わう山内で「ぽっと出の新人」が
いきなりトップになったとくれば、フツーに考えて面白くない弟子だっていただろう。
最澄も会う人会う人にかなり良くしてもらったけど、
行満や順暁がイナカのガイジンを優遇するのを見て
ねたましく思う弟子もいたんじゃないかな~って最澄の在唐の記事を書きながら思った。

僧侶だってニンゲンだもの。
頭で考えることと感情が簡単にマッチするぐらいなら、
この世にはブッダがごまんと存在している。
それぐらい、お釈迦様の提示した感情のコントロールというのは実にハードルが高い。
これはわたくしの実体験も元になってるから説得力あるでしょ

だから、そういうトラブルを見越した恵果の考えもあった可能性はある。
ま、言葉通りに新天地でこのありがたい真言密教をガンガン広めていけよ~
って思いもあったかもしれないけどね。

しかし、20年の留学期間をわずか2年で切り上げて帰国することは、
国の規定に反する。
恵果の強い勧めがあったとはいえ、さすがの空海も迷ったかもしれないけど、
最終的に空海は帰国を決断した。
結果的にこれは「アタリ」だった。

延暦の遣唐使船の後は承和5年(838)。
空海の没年は 承和2年(835)。
もしこの時彼が決断しなかったなら、空海は遠い異国の地で死を迎えていたかもしれない。

空海が留学生に選ばれる直前の話を 「叡山攻め(70)」 で書いてますが、
その中で論文を紹介した東野治之氏が、空海は冷静な分析と判断を持ち合わせていたと
評しておられるように、ここでも適切な判断を下したといえる。

さらに、彼の幸運はこれだけにはとどまらなかった。
帰国を決断したところで、足がなければどうしようもない。
現代のように

「じゃあ、JALの○○便で」

って訳にはいかないのだ。
しかし、この頃の唐には遅れて着いた第4船の高階遠成がいた。

遣唐大使・藤原葛野麻呂は延暦23年の年末に皇帝に謁見して
とっくにお役目を果たしてるんだから、遠成はわざわざ長安へ出向かなくっても
いいんじゃないかと思っちゃうんだけど、位階と官職を受けてるから
ちゃんと行ったんだね
ま、遠成の船にも通交のためのブツは積んであっただろうしな。

で、 鴻臚館 に滞在していた遠成の元に出向いて帰国の意思を伝える。
遠成のもとには、 不便な留学生活に疲れ果てた橘逸勢 からも帰国の懇願が寄せられていた。

「も~っ、どいつもこいつも・・・
ボクは君達を迎えるために苦労して
ここまで来た訳じゃないんだからね!!」


と遠成が絶叫したかは不明ですが、
逸勢の場合はリタイアと言っても差し支えないんじゃないかと思うけど、
空海は違う。
遠成も判断に苦慮しただろうけど、2人を連れ帰ることにした。

空海は遠成が長安に来ていることを知っていた。
あるいは恵果も知っていて、それなら愛弟子を祖国に送り返すのがベストだと
総合的に判断したのかもしれない。

そうして12月15日、恵果は息を引き取った。
空海と出会う前でもなく、空海へ秘法を伝授している最中でもなく、
きっちり空海にバトンタッチした後で死んでいった。
最後の最後に空海に出会えたことで恵果も満足しただろう。

翌延暦25年(806)1月16日に恵果は埋葬され、
空海は正当な後継者として全弟子を代表して恵果を顕彰する碑文を起草。
3月頃には長安を出発し、帰るまでにも何やかやの勉強をしながら
8月に橘逸勢とともに遣唐使船第4船に乗って帰国の途に着く。

帰路は順調だった最澄たちとは違って、空海の乗った船は帰りも暴風雨に遭ったらしいが、
無事帰国。
が、国禁を犯しているのでその弁明と許しを請う書状を朝廷に送り、裁可を待つ。
そのためすぐには上京せず、3年近くを九州で過ごすことになる。


一方の京では、空海が帰国した年の大同元年(=延暦25年)5月18日に
安殿親王が即位して平城(へいぜい)天皇となったが、病気がちだったため
わずか3年で退位している。
この方については別のところで書こうと思いますのでここではカットしますが、
皇太子時代・天皇時代・太政天皇時代を通してあんまりいい話題は残していない
天皇様です。

パパがあれだけ怨霊に苦労してきて、自分の病も早良親王の祟りだったという
診断も下りているのに懲りずにあらたな怨霊を生み出したりしてるしね。

平城天皇には男子もいたが、皇太子に立ったのは弟の神野親王だった。
これが嵯峨天皇で、桓武の後押しがあったといわれる。
「叡山攻め(77)」 で桓武の死後、安殿親王の即位までの合間の5月1日に
安殿親王の弟が臣籍降下を願い出て却下されてますが、
これも安殿親王の精神的不安定さを物語るエピソードなんじゃないかと
書いてる時に思ったんだよね。
藤原一族内の勢力争いもあったしね。

まま、それはともかく、パパの代以前にくらべてだいぶ治世は落ち着いていたし、
奥さんは美人だし(笑)、世間では嵯峨天皇の評判は結構いいんじゃなかろうか。

『日本霊異記』によると、称徳天皇の時代、石鎚山に寂仙という名僧がいた。
寂仙が亡くなる際、「今から28年後に自分は皇子となって生まれ変わり、
神野という名になるから、それをもって我だと知れ」という言葉を遺した。
はたして28年後に皇子が生まれ、神野と名付けられた。
『是を以て定めて知る。此は聖君なることを。』(『日本霊異記』より)

そうして世間では嵯峨天皇を称えたと景戒は書いているので、
当時から評判は良かったのかもしれない。
てか、嵯峨天皇がいいというよりも平城天皇が相当イマイチだったからじゃないかって
気もするけど

高僧が皇子に生まれ変わったという話はほかにもありますが、
それも別のところで書きましょう。

で、大同4年(809)4月1日に嵯峨天皇が即位。
同じ年の夏頃、空海が入京して和気氏の高雄山寺に入った。
これには和気氏のほか、最澄の尽力もあったとされている。

最澄が帰国した際、持ち帰ったものの目録を朝廷に提出したように、
空海もまた自分のゲットしたものの目録を提出している。
空海の処断を決めるのには、当然僧綱たちの意見を求めただろうし、
最澄も吟味するメンバーに入っていたかもしれない。

もし最澄が京で空海の目録を見たとしたら、現時点で日本国内で
本場の密教を見知っているのは最澄と義真だけなんだから、
かなりの衝撃を受けたことだろう。

傍系の、しかもわずかな期間かじっただけの最澄と
主流の正統な後継者である空海とでは、密教の点に限っていえば
それこそ雲泥の差がある。

帰国して予想外に密教がもてはやされたことで、
世俗の求めているものが何なのか痛感した最澄だからこそ、
空海の持ち帰ったものの質の高さを理解できたんじゃないだろうか。

そうして、ここがなんとも最澄らしいというか、
空海に弟子の礼を取って密教を学ぶことにした。

かつて自分が帰国した時に、自分よりも上の立場にある勤操・修円らの高僧たちが
辞を低くして最澄から潅頂を受けたように、
最澄もまた自分よりもずっと下の立場にいる空海に弟子入りした。
勤操や修円は桓武の命令だからという側面が大きかっただろうけど、
最澄はみずから弟子入りの道を選んだ。
「最も澄む男」らしい話じゃあ~りませんか~。


すでに最澄が国内に密教の種をまいていたところへ
正統の密教を持ち帰ってきた空海が現われたことで、空海は一躍時の人となる。

また、「三筆」の1人である嵯峨天皇は唐の文化への関心も高く、
そういう面でも空海と話が合ったようで、空海に大きな信頼を寄せていたらしい。
して、弘仁7年(816)6月に修禅の道場として高野山の下賜を請い、
翌月には高野山を下賜するという勅許が下りる。

その翌年には高野山の開拓が始まり、弘仁9年(818)には空海自ら
高野山に入った、とな。

空海さんの活躍はまだ続きますが、ひとまず高野山のなれそめまで。


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最終更新日  2014年12月01日 23時53分32秒


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