戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年12月21日
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カテゴリ: 日光写真館
三仏の台座の先には、護摩壇がある。
これも元来は別の場所にあって、工事期間中につきここへ移動してきたもの。
ただ、場所は変わっても三仏との位置関係は変わらないので、
工事前の配置を知っている人間にとって違和感はない。

この護摩壇と良源さんの御厨子については 「上野第二編(11)」 で
先行して紹介してますが、今年もやはり護摩壇で「ご~ん」はできませんでした。
私、この護摩壇に愛着があるから早く元のようにして欲しいんだけどな・・・

未練がましく護摩壇を見ていると、行事壇の前に並べられたいくつもの小さな器に

大護摩堂の護摩壇はここまで近くで見下ろすことはできないし、
お護摩の最中は導師様の手元まではあまり見えないから知らなかったけど、
こういうものを火に投げ入れて修法を行うんだな。

三仏堂でお護摩をやってるところはわたくしは見たことがない。
ので、どういう時に使われるのかはわからない。
ただ、『宝ものがたり』に 毎朝、金光明経などの護国経典を本堂で読んでいる と
あったので、朝のおつとめはここで護摩を焚きながら
国家の安泰を祈願しているのかもしれないと思った。


ところで、お護摩といえば現在では大護摩堂がメインですが、
山内には結構護摩壇があることを最近になって知りました。


この2つは前から知ってた。

「推定今は護摩はやってないだろうけど護摩壇」てのが最近になって知った方で、
まず大護摩堂の隣にある 護法天堂 。
それから 四本龍寺の石の護摩壇

その他、驚くような場所にもありました。
いや、あったことを知りました。

「日光写真館」を始めて3年目だとゆーのに、人ゴミ嫌いなわたくしは
2年続けて東照宮へ足を踏み入れてませんが、
神となったイエアスを祀る御本社のうち、現在は庶民も拝殿までは入れます。

拝殿へ入るには入口で靴を脱ぎますが、その靴脱ぎ場の近くにあるのが
現在「祈祷殿」と呼ばれている建物(重文)。
2011年6月に行った際は祈祷殿でブライダルやってました↓。


もと護摩所


「祈祷殿」は「上社務所」ともいい、その前の名は「護摩堂」でした。
大護摩堂の売店コーナーで買った『日光大観』(日光山輪王寺発行)から
護摩堂についての解説を紹介します。

 【江戸時代においては、五大尊、十二天(現在輪王寺大護摩堂に奉安)を本尊として
  祀り、法親王宮が毎年正月、五月、九月に天下泰平、国土安穏の護摩修法をせられた
  道場であるが、明治以降現在の上社務所の名で呼ばれた。】

・・・・・・・・・

東照大権現様に最も近い場所で、宮がじきじきにお護摩をやってた訳ね。
なら、 「日光御鏡頂戴」 の鏡餅も、そこで修法をこらしたものかもしれないよな。
てか、

大護摩堂の五大尊と十二天は
宮の護摩堂にいたものだったの!?
私が 「のっぺり」 って言っちゃった、アレェ~!?


歴史ファンの書いた祈祷殿の訪問記を見ると、
皆様五大尊は中禅寺に移されたと書いている。
確かに、解説の書き方はビミョ~で、十二天は大護摩堂に移されたんだろうけど、
カッコが五大尊にかかるかまでははっきりしない。
輪王寺のサイトの中禅寺のページを見ても、そこまで書かれていないので
護摩堂の五大尊がどこに行ったのかはよくわからない。

『宝ものがたり』には、もと護摩堂の十二天の写真が載っている。
ぱっと見、「これは見たことないな」と思ったんだけど、
あらためて写真をよく見てみると、確かに先日「ちょっと物足りないな」と思いながら
眺めていた仏像たちのような気もしてくる。

うっわ~、宮があの仏像たちの前でお護摩をやっていたとゆーのに、
わたくしったら何たる暴言を・・・
知らないということは、実に恐ろしいものです。


確実に存在した護摩壇でわたくしが知っているのはここまでですが、
歴史的経緯を考えて護摩壇があったんじゃないかと思われる場所が
もうひとつある。
ここで、良源さんの御厨子に戻ります。
上記リンク先「上野第二編(11)」もあわせてご覧ください。

御厨子の背面の文章によると、三仏堂にある御厨子に納められている「影大師」は
4代将軍・家綱の誕生祈願に使われたものの写しだった。

天海はこの重要なお役目に当たって、尊敬する良源さんを祀る「天狗堂」を新設し、
自らの統轄する寛永寺と日光輪王寺、それから日光山で修行に励む修験者たちも集めて
天台の総力を結集して事に挑んだ。

そうすると、一大イベントの主役はこの世の人では天海、
あの世の人では良源さんということになる。
わざわざこのために天狗堂を建てたのだから、
「影大師」もそこにおわしたと見るのが当然だし、
天狗堂が修法のメイン会場と考えるのが自然だろう。

これまで、天狗堂の具体的な場所はわからなかった。
が、買ったはいいけどなかなか目を通す時間のない資料や本の類は沢山あって、
『日光東照宮と将軍社参』という企画展の図録に天狗堂の場所を示す記述を
今日ようやく見つけた。

ホントに今日、知ったんです。
知りたてホヤホヤです。
勉強不足だからこーゆーことになります

えっと、この企画展は江戸東京博物館でやったものらしいから、
たぶん春に 「大江戸と洛中」展 を観に行った時に過去の図録を買ったんだろうな。
でっ、

 【四代家綱が寛永18年(1641)8月に誕生するさいには、家康の神霊の眠る
  東照社奥院(奥宮)に西接する元三大師堂(天狗堂)で世嗣誕生の祈祷が行われた。】
  (江戸東京博物館企画展図録『日光東照宮と将軍社参』より)

だってさ~!!

この図録や、以前に輪王寺の宝物館で買った別の図録には、
江戸期の山内の絵図も多少載ってる。
中には奥宮まで描き込まれている絵図もあるので虫眼鏡で見たけど、
あいにく絵図でははっきり天狗堂と確認できるものはなかった。

でも、図録で奥宮の隣にあったと断言してるんだから、
確かにそこにあったのだろう。
そう言われて考えてみれば、子孫繁栄のための修法に東照大権現様が
力を貸してくれないハズがない。

そして、輪王寺には天海の所用と伝えられる行事壇が残っている。
ので、天海も密教の修法をマスターしていたと思われる。
だから、天狗堂にも護摩壇があったんじゃないかと思った。


天狗堂は今はない。
そのはっきりした理由はわからない。
あるいは「用が済んだ」から解体されたのかもしれないけど、
「影大師」の写しは残して御厨子をわざわざ作ったんだし、
良源さんを尊敬する天海が、「用が済んだ」からといって
以後は山内のどこにも良源さんを祀らなかったというのも考えにくい。

「護摩堂」が「祈祷殿」となった理由ははっきりしている。
明治の神仏分離によるもので、「神社」である東照宮から
仏的なものを排除する必要に迫られたからだ。

本来であれば護摩堂は解体すべきものだったけど、
おいそれと破壊できるレベルの建築物じゃなかったためか、
「上社務所」に使用目的を変更することで、あやうく難を逃れた。

神と仏が一体だった江戸期、東照宮内には護摩堂の他にも仏的施設があった。
境内入口にある 五重塔 もそうだし、東照大権現の本地である薬師仏を祀る
薬師堂もそう。
この2つも残っている。

日光と同じく徳川にゆかりの深い寛永寺のことを思い出して下さい。
上野の東照宮が神社として独立した際、 本地堂(薬師堂) は解体されて
ご本尊様はパゴダへ引っ越した。
五重塔 は幸い神社の敷地からギリ外れていたため破壊を免れ、
現在は動物たちと仲良く暮らしている。

だけど、日光の仏的施設は思いっきし東照宮の境内にある。
本当なら、日光のも上野の本地堂と同じ運命をたどってしかるべきだった。
それを回避したのは、もちろん現地の関係者の努力もさることながら、
家光の功績が大きいんじゃないかとわたくしは思う。
「金をかけただけのことはあった」って感じでしょうかね。

まあ、上野の本地堂もチンケな建物だったはずはないんだけどね。
ただ、上野じゃちょっと新政府に近すぎるし、寛永寺は徳川の権威の象徴的存在でもある。

徳川幕府が倒れた際、どこの東照宮でも危機はあった。
ただ、 「上野第二編(57)」 あたりでも紹介したように、
全国に勧請された東照宮の数は多かったけど、勧請元の身分は様々だった。
明治維新の際には多くの東照宮が統廃合されたというけど、
おそらくそのほとんどは民間の勧請によるもので、自主的な行動だろう。

官軍は、幕府直営の東照宮には直接手は下さなかった。
危ない場面もあったけど、結果的には彼らはタッチしなかった。
直営の東照宮の中で解体されたのは江戸城内の紅葉山だけだけど、
官軍は手を付けず、徳川の子孫をその作業に当たらせた。

ホントはてってーてきにやりたかったんじゃないかと思うんだけどね。
でもやらなかった。
神社といっても霊廟だから、後のことを考えて差し控えたのかもしれない。

その代わりに標的となったのが寛永寺じゃないのかと最近思うようになった。
「見せしめ」とか「スケープゴート」と言った方がいいかもしれません。

ま、それはともかく、元三大師堂(天狗堂)も江戸の終わりまで
残ってたんじゃないかって気がする。
だとすれば、これもやはり神社専任となった東照宮から
「追い出された」ものかもしれない。

僧侶である輪王寺宮は、かつて日光一山を統轄していた。
往時の規模をある程度残す寺で、神仏分離を経て寺と神社に分かれて現役なところは
日本広しといえどそう多くはない。

その中で、寺と神社に分かれてそれぞれの持ち場を分けてもなお
山内にこれだけ管轄の堂宇が混在しているのは、つまりかつての神仏習合の面影を
色濃く残すのは、日光がトップクラスなんじゃないだろうか。

本質的には現在の方が「あるべき姿」なのかもしれないけど、
日本では仏教が入ってきたかなり早い段階から神と仏は一緒だった。
今のようにセコセコと持ち分を分けている状況を見ると、
宮の時代を偲ぶ人間にとってはとても切なく思えてくる。


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最終更新日  2014年12月21日 22時22分28秒


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