戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年01月02日
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カテゴリ: 日光写真館
さて、前回の解説版には芭蕉おじさんもちょびっと顔を出しましたね。

東照宮宝物館の庭にあるおじさんの句碑 を以前紹介してますが、
それと同じ時の訪問のようです。

あの記事を書いた時には、「パンピーが東照宮へ参拝できたのか?」と思って
そのまま書いてますが、今回養源院のことを知ってその疑問も解決しました。
やはり、考えたことを書いておくことは頭の悪いわたくしには
無駄じゃないようです


おじさんの訪れた前年の元禄元年(1688)には「元禄の大修理」といわれる

そういう時だったので落ち着いた参詣もできなかったかもしれないけど、
おじさんのお伴の曽良が日記を遺しているので、来晃の様子を見てみましょう。

まず、鹿沼から今市・鉢石経由で日光へ向かう。
前日から雨が降っていたが、朝7時半頃宿を出て時々小雨の降る中を歩き、
4月1日の昼頃に日光へ着く。この頃には雨はやんでいた。

一行はまず養源院へと向かう。
手には浅草・清水寺からの紹介状を携えていた。
ここがポイントで、やっぱり当時は庶民が軽々しく東照宮へ
参拝できなかったらしいんだな。

で何で養源院かとゆーと、お梶の縁で水戸徳川家が養源院の大檀那となったと
前回あったでしょお~。

もらったってことらしいんだな。

養源院からの紹介によって当時東照宮の別当を務めていた大楽院からお迎えが来たので、
一緒に大楽院へ向かったものの、あいにく来客があり2時間近く待たされた。
芭蕉おじさんの「あらたふと・・・」の句は、待たされてヒマだったから
句でも詠んでたんじゃないかとつい想像してしまうわたくし・・・


翌日は快晴。
8時頃宿を出て山内周辺を昼頃まで見物したあと、那須・大田原へ向かった、とな。

わざわざ江戸から紹介状を用意してくるあたり、
おじさんはよっぽど東照宮へ参詣したかったらしい。


さてと、それじゃ前回の入口から中へ入ってみましょう。


14史跡探勝路・養源院跡3


ほお、なかなか綺麗に石垣が残ってるじゃないか~。
しかし、綺麗なのは入口付近だけで、奥へ進むともう石垣は崩れている↓。
そして、石垣の内側の奥の方には何やら気になるものが見えた。


14史跡探勝路・養源院跡4-2


石垣の内側へ入るにいい道はなかったけど、低いところを選んで中に入る。
これ、ちょっと石段のように見えなくもないよな↓。


14史跡探勝路・養源院跡13


これが石垣の内側↓。
当時は一体どんな造りになっていたのだろうか・・・


14史跡探勝路・養源院跡5


この奥にあるのが


14史跡探勝路・養源院跡6



14史跡探勝路・養源院跡7


その隣にあるのが


14史跡探勝路・養源院跡8


宝篋印塔だ・・・
これ、墓か!?

向かって左の大きい方はいくぶん読める。
梵字の下には

 【寛永十九年
  英勝院 壽位
  八月廿三日】

とあるように見える。
「寛永」の「永」の字がイマイチなんだけど、
寛永19年8月23日はお梶の亡くなった日でもある。

え、お梶の墓!?
でもお梶の墓は鎌倉にあるハズなんだけどな・・・

宝篋印塔は必ずしも墓という訳でもないし、ここの銘は現地では見えにくかったので、
お梶の墓とも思えなかったわたくしは現地ではお梶が納めた経塚か何かかもしれないと
考えていた。

けど、あらためて考えてみると「壽位」だし日付も命日と合ってるし、
やはりお梶の墓かもしれない・・・
ただ、鎌倉の英勝寺に葬られているのはほぼ間違いないと思われるので、
養源院の開基でもあるお梶を偲んで建てられた供養塔だろう。
家康の側室でもあった訳だから、ここに供養塔を建てるのはふさわしいとも言える。


で向かって右の小さい方ですが、これはコケと摩耗で相当キビしい
しかし台座で読める部分は

 【寛永二年
  養源●●
  三月廿●日】

寛永2年か・・・
推測も交えて読んでみると、後の2行は「養源墓 三月廿八日」のように
読めなくもない。
ならこれは於六の墓かもしれないな。

ただ、「三月」部分は間違いないので、そうするとイエアスの命日(4月17日)より
前の日付になり、「イエアスの命日に神前で焼香していた時にうんぬん」という
世間のウワサは単なる俗説に過ぎないということになる。


振り返ると、石垣の内側は崩れてもの寂しい雰囲気を醸し出している↓。


14史跡探勝路・養源院跡13


明治に入ってから廃寺となったのなら、おそらく神仏分離後の明治初期の
山内の整理の頃だろう。
たかが120~130年。

史跡探勝路は歴史ファンも歩くけど、パワースポットとされる滝尾神社へ向かう
観光客もちらほらいる。
わたくしがここにいる間、一組の観光客が足を止めて入口の看板を見てたけど、
彼等は入ってくることはなかった。

ここにあるのが於六の墓なら、廃寺にした際にもう少し賑わう場所へでも
移してやればよかったのに、とも思わないでもないけど、
今ではほとんど人も立ち寄らないひっそりとした場所で、
昔のままに於六のために建てられた寺の跡地に静かに眠っている方がいいのかもしれない
とも思った。

輪王寺は往時より規模が縮小されたとはいえ、歴史が長い寺だし
大小を問わず古くからのお堂や石仏を大切にしてそれらの前で決まった日に法楽をしている。
年間を通せばその数はかなりのものになるだろう。

養源院は今はもうないのでここで法楽をしているという情報は持ってないけど、
ここにこうして墓が残されているのなら、墓石に刻まれた於六の命日には
静かに小さな法要でも営まれているのかもしれない。


道路に復帰して歩き出すと、木の陰に何か建物があるのが見えた↓。


14史跡探勝路13


朱の鳥居だ・・・
神社かな、お堂かな?
四本龍寺の石の護摩壇 や 小玉堂 にも鳥居があったから、
山内では鳥居だからといって単純に神社と限定することもできない。
あそこ、行かれるのかな・・・

この史跡探勝路は舗装された道で車も通れるほどですが、道の脇には


14史跡探勝路14


清冽な水がたっぷんたっぷんと勢いよく流れ下っていて、

「山の神様がくれた水」

ってどこかの天然水のキャッチがよく似合う光景でもあります。
この水は 朝わたくしが本宮神社の手前で見た場所 まで流れ落ちていくのだろう。

山内に流れる水はここだけじゃなく、輪王寺から二荒山神社の方へ抜ける下新道などにも
日光連山から下りてきた水が流れている。


木立と水に包まれて史跡探勝路を進むと、右手に独特な形の山が見えてきた↓。


14史跡探勝路15


うわっ、すげえ山だな、アレ・・・
そうか、あれが「外山」だな。

あれの存在も今回まで全く知らなかったのですが、
輪王寺の管轄で毘沙門天を祀るお堂があるらしい。
山頂からはかなり眺めがいいらしいんだけど、そりゃそうだろう。
あんな形の単独峰だもの。

ただ、あの付近、クマの目撃情報が時々あるらしいんだよね
日光連山にはクマがいますからね。
山の上の中禅寺湖畔なんかもクマ注意の貼り紙があったりするし。

まあ、史跡探勝路は外山とは稲荷川に隔てられているけど、
近い場所ではあるから史跡探勝路に「出ない」って保証はないんだよな。
タッキーは結構奥の方にあるけど、今回はとりあえず勝道さんが守って下さるだろう

それより外山だ。
登山をやっていた昔から、わたくしはリスクのある行動はしないことにしているのだ。
でも輪王寺の所管なら行きたい・・・
久々に相棒でも誘ってみるかな。

ちなみに相棒とは長年の付き合いですが、奴と関ヶ原の陣めぐりをした際、
小早川金吾が陣を置いた松尾山に向かっていて、「クマ注意」の貼り紙がありました。
わたくしはその時「出ない」と思っていたので続行を主張したのですが、
普段は楽天的な相棒がその時ばかりは「やめよう」と言い張りました。

結局わたくしが勝ってそのまま山頂へ向かったのですが、
これでもし万が一のことでもあったらわたくしも後味が悪いし、

「ホントにいいの?」

と確認したら、

「クマよりアンタのが恐い」

と言いやがった
清楚な乙女に向かって何たる暴言を・・・


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最終更新日  2015年01月02日 22時05分23秒


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