戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年01月13日
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カテゴリ: 日光写真館
やれやれ、ただいま~。

ひとつ駆け足で観に行ったところがあって新幹線の時間ギリギリになってしまい、
結局最後の最後までバタバタの旅でした。

休暇を1日プラスしての3泊4日の旅とはいえ、
実際の行動は昨日までの3日間にほぼ限られていたので
内容的には2泊3日とほとんど変わりはない・・・

旅は非日常と申しますが、今回は1000年以上飛び越えての
旅だったもので、もう非日常どころじゃございません。


頭の中での時空の旅と実際に現地であれこれ観る旅とでは
当然のことながらまるで感覚が違いますので、
たかが4日と思えないほどの充実感であり疲労感であり、
明日からお仕事なんてできるんかいな状態です。

ま、旅の話はつもるほどあって今日もその雑談にしようかとも思いましたが、
写真がまた増えたこともあってひとまず早いとこ日光編を終わらせなければ
ならないので、早速本編に戻ります。




14史跡探勝路27


おお、なんか前方がすごいことになってるな・・・
と思ったら開けた場所に出て、


14史跡探勝路28



14史跡探勝路・昌源杉


 【昌源杉(しょうげんすぎ)

  滝尾参道の周辺には、500年以上の老杉群がある。文明8年(1476)日光山
  第44世別当になった昌源が、山中に数万本の松と杉を植えたもので、中世繁栄期の
  遺産であり、「昌源杉」と呼ばれる。以前はそのうちの1本が、飯を盛ったような
  形に繁り目立ったので、「飯盛杉」と呼ばれたが、昭和38年の突風で倒れてしまった。】


わ~お、文明8年?
応仁の乱の終結と大内義興さんの生まれる前の年だ
日光杉並木と言えば江戸期の 松平正綱親子によるもの が一般的に有名だけど、
植樹の伝統はもっと古くからあったものだったんだ。

江戸期に東照宮ができてから山内は華やかに生まれ変わったけど、
総合的な繁栄のピークは中世。
その頃は僧坊が500にも及んだという。

いくら山内が広くて遠く中禅寺湖の方まで寺領が広がっていたとはいえ、
500もの僧坊がどこに建ってたんだと思ったけど、
この写真も昌源の植えた杉なら滝尾古道に沿ってずーっと僧坊が
建っていたとしてもおかしくない。

その後一時衰退のうえで江戸期の繁栄につながるんだから、
復興の頃にはこちら側の奥の方まであった中世の僧坊はすでに衰退していたのかもしれない。
だから江戸期の絵図には奥の方まで僧坊が描かれていないのだろう。
なら北野神社からここまで古道沿いに見てきた石垣は
中世の石垣ってことになるよな。


14史跡探勝路29


昌源杉から少し歩くと、分岐が現われた↓。


14史跡探勝路30


史跡探勝路に合流するこの道には


14史跡探勝路31


へ~、二荒山神社からこんなところへ出る道があったんだ。
数多くの日光詣での中でも、東照宮と並び二荒山神社も相当行かない場所なので
こんな道があったなんて全然知らなかった。
今度、神社の方からこの道を歩いてみようっと。

ん~で、 「史跡探勝路12」 の将軍の日光社参の記事で
タッキー(滝尾神社)へ行くには滝尾古道の他にもうひとつルートがあると
書きましたが、それがこの道です。

自分で歩いたことがないからよくわからないけど、
スタート地点を考えればこの道は恒例山の西側をかすめて
通っているルートじゃないかと思うので、
滝尾古道よりはおそらく山道っぽい道なんじゃないかな。

だから、歩きいいのは滝尾古道の方なので、
将軍のご遊覧には起伏の少ない滝尾古道を使ったんじゃないかなって
思ったんだよね。

まあ、片道は二荒山神社の道を使ったかもしれないけど、
滝尾古道なら開山堂とかの見どころもあるし、往復のどちらかは
下の道を使った可能性が高い気がする。


ここからすぐ先には、古い大きな碑がある↓。


14史跡探勝路・大小べんきんぜいの碑


碑文から正しくすべての文字を読み取るのはかなりキビシイです。
が、ここにはちゃんと解説版があります。

 【大小べんきんぜいの碑

  古くは、このあたりに栃御門(桜門)、下乗石、木の鳥居などがあり、これから
  先は滝尾神社の聖域に入るので、大小便を禁ずる碑が立てられた。庶民にも読める
  ようにと、「大小便禁制」のうち大小のほかは、「平仮名」で書かれているのが
  珍しい。】
  (現地解説板より)

ということです。
ゆえに、ここから先はトイレは我慢してください

聖域に入ってもまだ石畳の道は続く。


14史跡探勝路32


ほどなくしてこんな場所に出た↓。


14史跡探勝路・滝尾神社


滝だ・・・
やった~、やっとタッキーに到着だあ~


14史跡探勝路・滝尾神社5


 【白糸の滝

  天狗沢にかかる名瀑。高さ約10メートル、弘法大師修行の場と伝えられる。文明18年
  (1486)京都聖護院の道興准后が日光を訪れ、その時の紀行文「廻国雑記」に左の
  和歌が詠まれている。

  世々を経て 結ぶ契りの 末なれや この滝尾の たきの白糸】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

ウィキペディアの道興准后(どうこうじゅごう)のページには、

 【1486年(文明18年)から翌1487年(文明19年)には聖護院末寺の掌握を
  目的に東国を廻国。1486年6月に京都を発つと、若狭国から越前国、加賀国、
  能登国、越中国、越後国の北国を経て、下総国、上総国、安房国、相模国の関東を廻り、
  翌1487年5月には武蔵国から甲斐国を廻り、奥州まで至っている。道興は後に
  東国廻国を紀行文『廻国雑記』として著している。】 

とある。

現在の聖護院(しょうごいん)は「本山修験宗総本山」を称している。
修験道の長い歴史の中ではその所管に色々な変遷があり、
それについてはここでは割愛しますが、聖護院は古くは天台宗(寺門)でもあり、
「末寺の掌握」が修験道的な側面なのか天台宗的な側面なのかはわからないけど、
同じ天台でも日光山は山門派だったろうと思われるので、
日光山に立ち寄ったのはついでの名所観光的なものだったのかもしれない。

白糸の滝のほかに山菅の橋(現在の神橋)の歌も詠んでおり、
そのあと山を登って中禅寺湖へ漕ぎ出してそこでもお歌。
下山してからは一山あげて酒宴が催されたらしい。

ハハハ・・・
やっぱ、この頃の酒飲み坊主は策彦(さくげん)だけじゃないんだな。
(策彦の酒飲み日記は 「武将と僧侶のアルコール耐性」 を参照) 

つか、道興さんて関白近衛家の出身なんだけど、
自分の足で中禅寺湖まで登ったのか・・・
すげえな。
日光の後は宇都宮へ向かったらしい。


滝の近くにはいくつか碑などがある。


14史跡探勝路・滝尾神社4


大正5年9月7日、大正天皇が御観瀑になられた際の記念碑らしい。
それからこんなのも↓。


14史跡探勝路・滝尾神社3


駐日米国大使ジョン・ケネス・エマソン(1908-1984)さんが
御観瀑になられた記念碑らしい。
この碑にはいつ訪問したのかの記載はないけど、
その下にはドロシー・M・エマソン(1906-1991)とある。
どうやら夫人同伴でタッキー見物に来られたらしい。
姉さん女房だな(笑)。

ま、写真の通り滝といっても小ぶりなもので、
ウワサを聞きつけてやってきたものの

「ちいちゃくてガッカリ~」

なんてひそかに思った方もおられるかもしれないけど、
古今東西、将軍から天皇からガイジンまで数々の名士が
「名こそ流れて なお聞こえけれ」ばりにここを訪れたようです。

で、滝から流れ落ちた小川にかかる橋を渡ると
そこが史跡探勝路の最終地点、滝尾神社の境内になります。


14史跡探勝路・滝尾神社6


この時点で15:30。
でも帰りも歩かなきゃならないから、急がないとな。

境内入口にはこんなものがあった↓。


14史跡探勝路・滝尾神社7


うんうん、これに従えばいいワケね。
標準タイムの20分におさめるよう努力せねばな



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最終更新日  2015年01月13日 22時42分25秒


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