戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年02月08日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
朝方は今にも降り出しそうな空模様だったのが、
この頃には薄日も差してきて、登りも少々キツい場所だったので
ゆっくり歩きながら後ろの様子をうかがっていると、
後続のパーティーもわたくしと同じ場所で足を止めたらしかったが、
前方でわたくしの熊鈴がリンリン鳴っているので後をついてきているらしい。

登山をやっていた頃から、抜かされることはあっても抜かしたことはないのが
わたくしの自慢で(自慢になるか?)、後ろにつかれると自分のペースで
歩きにくいので、人が来ると道を譲って先に行ってもらうのが
いつものパターン。


しかも早い子と足の遅い仲間がおるらしく、
早い子はずんずん先に行っては後続を待つという、
わたくしにとっては実に迷惑な歩き方をしている。
一定のペースで休まず歩き続けるのが疲れない歩き方なんだけど、
元気なお子ちゃまにはそんな理屈は通用しない。

ので、仕方なくそのまま歩き続ける。


叡山2・本坂55


しばらくすると、こういう場所に出た↓。


叡山2・本坂56


叡山には一般的な登山道のほかに、行者さんが厳しい修行でとんでもない距離の
山道を歩き続ける回峯行者道というのがあり、ここは行者道が合流する場所。

近年では一日回峯行というものもあるらしく、『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』には
その参考のためにと断った上で2つの回峯行のルートの概略が書かれている。
が、

 【なお、回峯道を歩こうとする人は、回峯行門先達の引導でなければ不可能であり、
  さらには、行門に身を投じなければ正しくこの道を歩くことはできない。】


一般の人は安易に行者道には立ち入らない方がいいです。

このすぐ先あたりにはまた大原への標識が・・・


叡山2・本坂57


行者道との分岐を示す石仏の後ろにこんもりした盛り上がりがありますが、
登山道を進むとすぐその盛り上がりの上に上がる石段が現われる↓。


叡山2・本坂58・檀那先徳御廟


ふう、やっと来たな・・・
ここに寄ってる間に後続者が先に行ってくれればいいんだけど。
石段を登ると、墓がある。


叡山2・本坂59・檀那先徳御廟


ここでの主役はもちろん玉垣の中に鎮座するお方の墓なんだけど、
そこまで行くのに


叡山2・本坂60・檀那先徳御廟


明らかに埋もれてるよな
あんまし、立ち止まりたくない雰囲気・・・

で奥は


叡山2・本坂61・檀那先徳御廟


こちら、「檀那先徳御廟」といい、慈恵大師・良源さんの弟子の
覚運(かくうん)さんのお墓です。

良源さんの弟子は3千人とも言われ、多くの優秀な弟子を育てたことでも有名ですが、
その中でもとくに「四哲」と言われる高弟がおり、覚運さんはその1人。
この付近にかつて檀那院という僧坊があり、覚運さんはそこに住んでいたので
檀那院覚運ともいわれる。

同じく四哲のひとりで覚運さんと並び自らの系統を発展させた高弟に、
『往生要集』で名高い恵心僧都源信がいる。
源信と覚運の系統はそれぞれが4つの流派に分かれ、
「恵心檀那の八流」と呼ばれたそうな。


・・・さて、「日本の歴史上ゴーマンだと思う人間を10人挙げよ」と言われたら、
たいていの人がノミネートするんじゃないかって思う人に、
平安時代絶大な権力をふるったかの藤原道長さんがいます。

  この世をばわが世とぞ思ふ望月の
        かけたることもなしと思へば


はあまりにも有名ですね。

その道長さん、わざわざ京から坂本へ回ってこの本坂を登って
叡山に参詣したことがあります。

平安時代ってやたら長くて道長さんがどの時代に位置したのか
あまりピンと来なかったのですが、有名どころも交えて図にすると
こんな時代を生きたようです。


道長比較年表-2


時は寛弘9年(1012)5月、46歳の道長さんは夜半に京を立ち、
この年正月に出家した3男・顕信(あきのぶ)が受戒することになったので、
その式に立ち合うため本坂を登っていた。

道長が馬に乗ったまま檀那院のあたりを通ろうとすると、
行列の先頭に石が投げられ、そのうちのひとつが従者の腰に当たった。

「ゴルァ!
殿下のお通りだぞ!
誰がやったんじゃ、このボケが!!」


すると5~6人の覆面をした法師が出てきた。

「ボケはどっちじゃ!
ここは檀那院。下馬所だぞ。
大臣や公卿のクセにそんなことも知らんのか!!」

と引き続き投石が10度ばかりあった。
道長一行を襲った下手人は捕らえられたが、

「騎馬で比叡山に登るなんてボケは
今までいなかった。
そんな奴はたとえ大臣や公卿であろうと、
髪をつかんで引きずり下ろして当然だろう」


と言い放った。
天台座主・覚慶は

「これが天皇であれば、馬も騎乗する人間に準ずるので
問題はなかろうが、それ以外の場合は騎馬、しかも
数十人での登山などはあってはならないことである。
石つぶては三宝の思し召しであろうか。
石に当たった者は慎むべきである」


とコメントした・・・


長徳元年(995)内覧宣下を受け、氏長者(うじのちょうじゃ)として
押しも押されぬ天下人であった道長さんに対し、容赦のない投石行為・・・
この狼藉について、叡山関係者や世間からは「人の所為にあらず」と
噂されたという。

といっても、他人に対して石を投げたことが「人非人」とされた訳ではなく、
叡山の守護神・山王の神が覆面の法師をして道長に怒りをあらわした、という意味での
「人の所為にあらず」ということらしいです。

この事件の翌月、道長が病にかかった時、
世間では「山王の祟りじゃないか」と噂されたそうな。
で、病気平癒の祈祷を依頼された慶円・・・
この方は覚慶の次に天台座主となった叡山の僧侶で、この時はまだ権僧正だったが、

「このたびの病は山王の祟りだとの夢のお告げが
ありましてな。
我ら天台僧はただひとえに山王を恃み奉る者どもですから、
ご依頼の修法はご辞退いたしますじゃ」


と時の権力者の依頼をあっさり断ったという。


この一連の出来事を、おごり高ぶって騎馬で聖域に踏み込もうとした
道長が手痛いカウンターをくらった、って安直な一言で片づけて
先へ進んでしまえばわたくしもラクなんですが、
この時代の世間やいわゆる僧兵の歴史を知ると
どうもそういう言葉で片付けられないように思えるので、
ここから少し歴史の話に入ります。


平安時代と言われて皆さまが思い浮かべるのはどんなイメージでしょうか?
とくに道長といえば、娘の女房には紫式部がおり、姪の女房には清少納言がいる。
絢爛豪華な王朝絵巻や源氏物語などのみやびな世界をイメージする方が
多いんじゃないかと思います。

フジワラムシによる権謀術数は有名でも、平安時代に死刑はなかったし、
国風文化が花開いたおおむね平和な時期のように思われている方も
多いだろうと思いますが、これよりほんの数百年前は
ほとんどの人民は竪穴式住居に住んでたし、権力をめぐって皇室で
血なまぐさい争いが繰り広げられていた。

そして、ここからほんの数百年のうちには
また血の匂いでいっぱいの戦国時代に突入する。

人類はたかが数百年では変わりはしないんです。
平安時代だけがのほほんとみやび~を謳歌してた訳じゃありません。
王朝を生きる貴公子たちも実にワイルドでした。

そんな野蛮な平安貴族たちの事件ファイルを少しばかり紹介したいと思いますが、
文字数が残り少なくなったので、それはまた次回に。

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最終更新日  2015年02月08日 22時56分05秒


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