戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年02月14日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
さて、「三聖二師」のひとり、第18世天台座主の良源さんは
慈覚大師・円仁派。
良源さんの在世中はまだ円珍派は叡山を降りてない。

円珍派が山を降りることになった直接のきっかけは
良源さんの死後に起こった事件だったけど、物事には段階というものがあり、
長い時間をかけて山内での勢力争いが強まっていく中で
円仁派の良源さんが行ったことは、見方によっては火に油をそそぎ
完全分裂への道を作ったともいえるかもしれない。


良源さんが入山した頃、叡山はまだ現在のような三塔スタイルではなく、


横川(よかわ)は延暦寺域の北限にある山深いエリアで、
かつて円仁さんがこもったことで開かれたとされるが、
その頃はまだ少しの堂宇と僧坊があった程度で、
円仁さんは自分の死後、横川が荒廃することを懸念して
これを守るよう言い残しているものの、ひところは僧2~3人程度がいるだけだったり、
次第に荒れていったらしい。

そういう中、西塔で修行を重ね己の実力で名を知られるようになっていった
良源さんが横川へ入り、復興に着手する。
当時の座主は円珍派だった。

 【横川が叡山山上の最北端の遠隔地であり、円仁門徒に替って、叡山のもう一人の
  理論家円珍の登場とその門流の発展のこともあって、次第に円仁派の名跡地が

  東塔前唐院の所管するところとなったと思われる。】
  (『人物叢書 良源』平林盛得/吉川弘文館より)


これより前、承平天慶の乱・・・いわゆる平将門の乱と藤原純友の乱が
ほぼ同時期に起こった際、叡山の僧侶・浄蔵(じょうぞう)が横川で
将門調伏の祈祷を行っている。

怨霊を調伏しようとしたという伝承をお持ちの方で、
かなり験力があると世間からも評判の方だったらしいが、
そういう方が国家鎮護のための大事な祈祷の場に選んだのが横川だった。

取り立てて有力な後見者をもたない良源さんが次第に頭角を現していったのは
豊かな学識とそれを披露する巧みな弁舌によるものだったので、
学僧としてハイレベルであったことは間違いがないけど、
そのほか自分を仏道へと勧めたいわば恩師のような崇福寺の僧から台密の伝授を受け、
後半生ではその法力が重要なカギとなり、死後はさらにその部分だけが
大々的にクローズアップされ、神仏なみに崇められるようになって現在に至る。

ので、後世には密教僧としてのイメージが強い良源さんが
浄蔵と同じく祈祷にふさわしい霊地・横川を選んだことは
一見自然な流れのようにも思えるのだけど、
それ以外に円仁の旧跡を復活させようという慈覚門徒ならではの
目的もあったんじゃないかという気がする。

横川ではその後飛躍的に僧が増えたため、
天台座主・良源さんは横川を独立させることに成功する。
ここで現在の三塔体制が出来上がった。


良源さんへの批判としては、

「権勢家と結んで叡山を堕落させた」
「僧兵の創始者」

という2つが大きなところじゃないかと思いますが、
権門と結びついたことに関しては、良源さんには良源さんなりの考えもあり、
とりあえずここでは関連することだけにとどめまして、
強力なバックを持ったことで潤沢な資金援助も得られた良源さんは
東塔の中心堂宇をわずか3年で大改造し拡張させた。

その完成供養は南都七大寺の高僧らも招いての盛大なものとなった。
強力な信念に基づいた良源さんの数々の施策は、
時として門弟からさえも誤解されることもあったようだけど、
そうして良源さんの元を去ったらしいもと弟子でさえ
この法要に参加していたという。

法要はかなり大がかりで華々しいものだったようで、
諸寺の僧をさまざまな役職に配しながら、
円珍派に属する千光院派の僧侶は一人として役職に選ばれなかった。
自分のもとを去った弟子でさえ参加してるのに、ですよ。

これを不服とした千光院派が朝廷に訴えたことで、
ようやく千光院の長・余慶が役に就いたというエピソードがある。



さて、叡山の麓には鎮守の山王の神を祀る日吉大社がありますが、
「山王」は最澄以降の呼び名のようで、日吉神社ではもともと
大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀っていたそうな。

天智天皇が大津京へ遷都した際、大和の三輪山の大三輪神(おおみわのかみ)、
イコール大物主神(おおものぬしのかみ)を勧請し、大山咋神と併せて
祀ったのが最澄以前。

延暦寺を開き結界を定めた最澄は、この2神を地主神=山王として
延暦寺の守護神に位置付けた。

天台山の国清寺が地主神として「山王弼真君」を祀っていたらしいので、
これにならったものかもしれない。
ちなみに、弘仁9年(818)に最澄が結界を定めた際には


  護法善神。大小比叡。王子眷属。天神地祇。
  八大名神。七千夜叉。同心結界。皆来衛護。

  (『九院仏閣抄』より)

とありとあらゆる仏や善神たちに叡山の守護を恃みちらかしている(笑)。

最澄は多くの堂宇建立のプランを持っていたらしいが、
彼の生前はそのすべてを果たすことはできず、東塔だけにとどまった。

その遺志を引き継いで西塔を開いたのが第2世・円澄で、
東塔と肩を並べる独自の発展を遂げた西塔は
東塔と同じように自分たちの鎮守の神を持つことを考え、
大山咋神を「小比叡神」として小比叡峯に勧請し、西塔の「山王」とした。
西塔の小比叡神に対し、東塔は大比叡神または比叡神と呼ばれるようになった。


で、山王院。
山王院堂は東塔の中心部と西塔の中心部の中間にあるが、
所属としては東塔の西谷らしい。

山王院の創建についてははっきりしていないものの、
『叡岳要記』には3つの異なるエピソードが書かれている。

まず一つめ。

養老6年(722)に稽首勲(けいしゅくん)という仏師が
千手観音像を造ったが、この像は天平宝字元年(755)12月18日に
空を飛んでいってしまった。
北東にある高い山に落雷があったので天皇が勅使に見に行かせたところ、
空を飛んだ千手観音像が木の下にいたので、勅使はこれを持って帰ろうとした。
ところが像はガンとして動こうとしなかったので、勅使は仕方なく手ぶらで帰り
天皇に報告した。
天皇は以後は誰も像を動かさないようにと言ったが、そこへ延暦4年(785)
最澄が入り、草庵に千手観音像を安置した。
その後、「山王院」という号の宣下を受けた。

二つめはまだ延暦寺が開かれる前のこと。
近江に1人の信心深い女がいた。
彼女は衆生の利益のために6体の観音像を造ることを願っていたが、
ある時比良山に光を放つ木があったのでその霊木を求めて山に入ったところ、
老人がやってきて「お前さんの願い通り像をこしらえてやろう」と言い、
琵琶湖まで木を曳いて仏像を彫ってくれた。
老人の姿はもう見えなかったが、その6体観音の一つが山王院の観音像だという。

三つめは最澄が大三輪神を勧請して信仰していたというものだけど、
はたして最澄の生前から山王院があったのかは疑わしい。
が、ともかく『叡岳要記』では山王院に祀られているのは千手観音像と聖観音像で、
空を飛んだのは千手観音、近江の信女が造ったのが聖観音像としており、
千手観音を安置していたことから千手堂と呼ばれていたのかもしれない。

・・・しかし、『叡岳要記』には「山王院勧請智証大師御作之神躰也」ともある。

智証大師・円珍に入唐を勧めたのは山王明神だという伝説がある。
その山王明神を円珍が自分の住房に祀ったことで、
円珍の房が山王院と呼ばれることになったんじゃないかと思うのだけど、
東塔に属しながら東塔とはまた別の山王明神信仰が山王院に生まれた。
たぶん、この時に円珍が御神体を自作したのだろう。

ここでそれまでの東塔と西塔の山王信仰に円珍独自の山王明神が加えられ、
3つの山王信仰が成立した。
これを「両所三聖」と呼ぶそうな。

ウィキペディアには

 【なお、円珍にとっては、「両所三聖」の中でも山王(山王明神)は別格で、
  「両所二聖」を超える存在、つまり、大比叡神・小比叡神を含んだ「比叡山」
  そのものを象徴しており、最澄が祀った諸山王をひとつにまとめた、非常に
  大きな信仰対象であったといわれる。】

とあり、円珍さんとしては3つ目のスタイルを生み出したという感覚は
なかったかもしれないけど、ともかく「両所三聖」が出来上がった。


さ~て、良源さんが発展・独立させた横川では、
かつての西塔がそうであったように独自の守護神を持ちたいと考えた。
横川での信仰の対象とされたのは聖真子(しょうしんし)。
これは豊前の宇佐八幡の聖真子権現を祀ったものとされるようでもあるけど、
これをもって良源さんは大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・聖真子(横川)の
「地主三聖」という新たなスタイルを成立させた。

まあ、西塔が独自の信仰を持った経緯を考えれば
東塔に2つの山王信仰があるってのもちょっとヘンな話の気がするけど、
視点を変えれば円珍の始めた信仰をすっぱりはじいたことになる。
「両所三聖」を信仰してきた円珍派にとっては、当然面白くない。

天元2年(979)、良源さんは琵琶湖畔の唐崎に神殿を建立し、
地主三聖祭を盛大に行った。

これは様々な趣向を凝らした、それはそれは華々しいイベントだったようだけど、
イベントの一環として地主三聖のために金剛般若経の転読があり、
良源さんは叡山の全僧侶の出席を求めた。

当時は三塔あわせて2700人の僧侶が在籍していたようで、
座主の求めに応じてイベントに出席したのは2000人。
実に700人もの欠席者が出た訳で、これだけの人数が座主の命に従わなかったことになる。
良源さんはこの700人全員の僧籍を剥奪したそうな。

中には用事とか具合が悪いとかやむを得ない事情によって
欠席した人もいるかもしれないけど、事前の届け出が認められていたのかは
わからない。
この処罰については一見もっともらしい説話もあるようだけど、

 【この霊験譚の経緯よりも、その背景の、叡山山内に良源の命に服さない僧侶が
  かなり多くいたことを読み取ることが重要である。山上・山下に示した制札、
  二十六ヵ条の制式など、度々の綱紀粛正は、叡山の規律がそれだけ乱れていた
  ことになる。そうした乱れを右のような機会の際に正すことはあり得ることで、
  叡山僧の四分の一という大量の処断であったかどうかは別として、命令違反者の
  厳罰は事実であろう。】
  (『人物叢書 良源』より)

という、あぶり出し作戦みたいな?

この翌年にあったのが上に書いた東塔堂宇の完成供養で、
ここでも良源さんは円珍派を初めは採用しようとしなかった。
円仁派の勢いは日増しに強くなっていた。


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最終更新日  2015年02月14日 22時59分08秒


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