戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年02月15日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
東塔堂宇の拡張工事完成記念法要が行われた翌年の天元4年(981)、

効果ははかばかしくなかった。

そこで良源さんら僧侶が招かれ、天皇の病気平癒に五壇法が行われることになった。
これは五大明王(不動明王・降三世明王・大威徳明王・軍荼利明王・金剛夜叉明王)の
それぞれに個別に修法を行うもので、5人がひとつずつ修するそうな。
その5人の中には、前回の東塔の法要でギリ役に就くことができた
円珍派の余慶(よけい)もいた。

余慶さんは天元2年(979)に園城寺長吏となっており、

この功により、良源さんは東大寺の大仏完成によって
あの行基様が任じられて以来初めての、
僧侶として最高の地位である大僧正に任じられ、ほかのごほーびも賜わった。
ほかの五壇法の修法者もあわせて表彰され、余慶さんも権大僧都へ昇進した。

同じ年の11月、余慶さんは法性寺(ほっしょうじ)の座主に任じられる。

法性寺は藤原忠平の創建とされる寺で、京洛二十一ヶ寺の一とされる名刹だった。
少し前の記事 で『小右記』から法興院摂政兼家の子孫たちの事件簿を書きましたが、
その兼家のジイ様が忠平。

この寺は西塔の院主が座主となって以来、円仁派が座主を受け継いでいたのが
ここに来て円珍派の余慶さんが座主となったことで、
円仁派からクレームが付けられた。


160余名もの円仁派僧侶らを引き連れ、関白・藤原頼忠の屋敷に押しかけた。
これが記録の上での叡山の最初の強訴といわれる。


え~、ここらでついでに、先日はパスした延暦寺名物の「僧兵」について
触れねばなりますまい・・・
少々参考文献からの引用が多くなるかもしれませんが、
ご了承ください。

ここでの参考は『僧兵=祈りと暴力の力』(衣川仁/講談社選書メチエ)が中心です。


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「僧兵」というと、多くの方がTVに出てくる武蔵坊弁慶のようなものを
思い浮かべるかもしれませんが、そもそも僧兵という言葉自体が近世に造られたもの、
かつ曖昧で

 【僧が武装した姿をいうのか、僧のうち特定の武事専門の者をいうのか、武力を
  もてあそぶ不埒な僧をいうのか、寺院付属の軍事力すべてをいうのかはなはだ
  明瞭でなく(後略)】
  (『寺院勢力-もうひとつの中世社会-』黒田俊雄/岩波新書)

というのが現実で、

 【中世では「僧兵」という言葉はなく、人々は、「大衆」「衆徒」というものは
  武装もし合戦もおこなうものと、理解していたのである。それを、この『閑際筆記』
  の文にもあるようにはじめから悪い意味をもたせて「僧兵」という新造語で呼ぶ
  いい方には、武士だけが武器を帯びてひとを制圧する特権をもち、僧侶が武装するのは
  不届で僭越だとする、江戸時代の武士の独善的特権意識と仏教への排斥・蔑視の
  価値感がこめられているように、私にはおもわれる。】
  (前掲書より)

という見方もあるらしい。

「武」の専門家・武士でなくとも、仏教本来の教義からいえば
寺院が武力を行使するのは不届き千万・・・
が、時代背景というものもあり、寺社が武力を持ったのには
それなりの理由があった。

「戦国ジジイ」からスタートしたわたくしの日本史勉強は、
寛永寺シリーズあたりから戦国の枠を飛び出して
さまざまな時代へ関心が向かうようになりましたが、乏しい知識から受ける印象は
時代の転換期には土地問題がなにげに重要なカギを握っているということ。
そして、寺社による武力の保持もやはり土地が関係しているらしい。


「奈良仏教は国家仏教」・・・この単純な認識にはだいぶ問題がありそうだと
最澄の歴バナを書く中で思うようになりましたが、
少なくとも本シリーズ前半で見てきた平安遷都直後頃までは
やれ勝手に愚かな民衆に仏法を説くなとか、
寺院がやたら所有地を拡大するんじゃねえとか、
朝廷から寺院に向けてのお小言は確かに多かった。
それが、10世紀中頃までには朝廷は「僧尼令」に代表されるような
寺院の管理政策を放棄していたんだそうな。

 【ただし、政策の放棄による規制からの解放は、寺院にとっては古代以来続いてきた
  国家的な保護を削減されることと表裏一体でもあった。この厳しい現実を前に、
  彼らは自らの手で生きのびることを迫られた。これこそが寺院の中世化の原動力 
  である。すなわちそれは、自立可能な基盤(寺領荘園という経済基盤、それを維持・
  運営するための組織や武力、それらを担う人員=僧侶集団の拡大)の発展を自らに
  課すものであった。】
  (『僧兵=祈りと暴力の力』より)

あくまで、自衛の一環だったっていうんだよね。

ただ、武力といっても皆が皆、弁慶のイメージに代表されるような
「僧侶が武装して武力行使する」という画一的なものではなく、
自立を余儀なくされた当初などは傭兵もいたそうだし、
僧侶より「大衆」が大きな役割を果たしていたケースもあるようだし、
自らは武事はしないけども、武装した者たちを率いる「学僧」が
騒動の責任者と見なされたケースもあるし、
『寺院勢力-もうひとつの中世社会-』の黒田氏は「言葉だけが一人歩きをする
危険性があるから、自分はなるべく僧兵という言葉は使いたくない」という意味のことを
書いておられるんだけど、実際自分でも文章を書いてみると、
「僧兵」というのは確かに使いにくい言葉だなと思う。

変に「僧兵」の言葉がメジャーなものだから、書き手の意図と読み手の印象が
一致しない可能性がかなり高い気がするのだ。
ので、わたくしもあえて「僧兵」の言葉は使わず
「武力」とか「武装勢力」という言葉に置き換えると思います。


中世における寺院勢力というのは、なにも中央だけに限定されていた訳じゃない。
寺同士の末寺の奪い合いみたいなものもあったし、地方の荘園管理もある。
中央の本寺から派遣された「悪僧」が下文を偽造して
土地や権利をネコババしようとしたケースもあったし、
利害関係がからめば寺院勢力の矛先は世俗へ及ぶこともあった。

要するにあちこちでトラブルを起こしていたようなんだけど、
国家の保護を失って消えていったり衰退する寺もあれば、
生き残った寺もあった。
生き残った寺を支えていたひとつには、地方の力もあったらしい。

当時は当然現代のような高度情報化社会じゃないし、
情報の伝達にはなんといっても「人」が大きな媒体だった。
宗教面においても、都周辺と地方とでは宗教的格差というものが大きかったらしい。

『今昔物語集』にある話では、ある僧侶が叡山に在籍していたが、
特別優秀な何かを持っていた訳ではなかったので、本寺での出世を諦めて故郷に帰った。
が、「叡山の僧」というステータスは地方の民衆にとっては魅力的なもので、
その凡僧は故郷では仏事などを引き受けて生活していたという。

法要の知識、教育・農業・医学など現実の生活において僧侶は指導者たりえたし、
祈祷などの民衆の宗教的欲求を満たす存在としても有意義だった寺院は
民衆からも求められる存在であり、そういう地方と密なつながりを持つことは
寺院としてもその存続に大きな意義があった。

宗教面でその存続を求めていたのは、地方に限らない。
「目に見えない世界」に大きく支配されていた中世では、貴族社会からも
病気平癒・安産・自家の発展・怨霊の調伏などなど、
祈祷でさまざまな欲求を満たしてくれる寺院というのは
なくてはならない存在でもあった。

時として武力を行使する寺社勢力は、現実的な面で畏怖の対象だったけど、
目に見えない世界に働きかける力を持つ(と信じられた)宗教面においても
畏怖の対象だった。

寺院の方でもそれを心得ていて、自分達に都合のいい「何か」・・・
たとえば天変地異とか、奇異な出来事とか、そういうものがタイミング良く起これば
それらを積極的に活用して霊的な権威を身にまとうようになっていったそうな。
そうなってくると、霊界に働きかける手段をもたない世俗は
たとえ自分が寺社勢力から敵視・攻撃されるようなことがあっても
うかつに手を出すことはできない。
霊的な報復が怖いからね。

とは言っても、いつでも皆が泣き寝入りをしていた訳でもない。
良源さんの死から100年ほど後のこと、とある殺人事件がきっかけで
強訴にまで発展したケースがあった。

時の関白は藤原師通。
この方はガンとして叡山の抗議を受け付けず、大衆たちが山を降りてくると
武士を前面に出して矢を射かけさせ、ケガ人が出た。

 【この点に関連して、十世紀の苛性上訴として表出しながら国司=受領によって
  ブロックされていた民衆の不満が、寺社という新たな突破口を得て強訴に結実
  したという議論がある。しかしながら(中略)むしろ「鄙」で先に生まれていた
  民衆の怒りが、中央寺社の強訴という柔軟な軌道に乗せられることによって、
  手懐けられたと評価すべきではないだろうか。

  しかし、師通はこうした強訴の社会的機能にはとりあわなかった。嘉保2
  (1095)年の段階で、彼がこうした事態の背後にみたものは、全国的な神威の
  広まりと定着であり、それが「王城」に侵入してくる危険性であり、その動向を
  支えた民衆の姿ではなかったか。】
  (『僧兵=祈りと暴力の力』より)

師通さんという人は、当時としては異色のドライなリアリストだったようです。
武力が通じないとみた大衆たちは、作戦を切り替えて「国家を呪詛」したという。
が、この4年後に師通が亡くなっているので、呪詛の対象は国家ではなく
師通個人へ向けられていたものだったらしい。

師通のあとは、彼ほど強硬に強訴を抑え込もうという政治家は出なかった。
むしろ、

 【師通という強烈なブレーキによって生じた摩擦力が、大衆をしてより強力な強訴へと
  向かわせた。】
  (『僧兵=祈りと暴力の力』より)

で師通の死後、バージョンアップした強訴はその数をも増やし、
白河院を嘆かせる時代へと突入する。


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最終更新日  2015年02月15日 21時55分37秒


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