戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年02月18日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
え~、「僧兵」やら「強訴」やらは意外に単純なものではなかったということを
勉強ノート(←ブログ)に書き留めたところで、
前々回のはじめの余慶さんの法性寺座主就任問題に戻ります。


余慶さん個人としては天皇のための五壇法の1人に選ばれるなど、
法力にも優れた高僧だったのだろうと思われるけど、
良源さんの数代前まではしばらく円珍派の座主が続いており、
派閥自体の勢いもかなりあったのだろう。

200人近くの円仁派僧侶たちが時の関白邸に押しかけて抗議したものの、
朝廷側の回答は

「これまで法性寺の座主が円仁派だったのは
たまたまだし、寺を開いた藤原忠平公は
別に座主を円仁派だけに決めた訳じゃないし~。
ゆえに訴えは却下でおじゃる」



しかし、これに納得しない円仁派大衆たちは関白家で乱暴狼藉を働いたという。
ま、実際どの程度暴れたのかはわからないんだけど、延暦寺初の示威行動でもあり、
大して乱暴はしていなかったとしても、かなりの衝撃を与えたことだろう。

それで詮議が行われ、デモ隊に参加していた僧綱・阿闍梨25人は
公の行事への参加停止、ほかの参加者たちは解職ともいわれる
かなり厳しい措置が取られた。

前回と前々回の記事は「僧兵」や強訴に関する全体の概略だったから、
のちには押せ押せの武力行使さえしなければ「お咎めなし」となった
ケースもあったのかもしれないけど、なんといってもこの時はお初の強訴。
ウィキペディアの「強訴」のページにある一覧には、
これ以前には興福寺が行った1回しか書かれていない。

「お山のボーズどもが、なんということを
するでおじゃるか~!!」




それでも円仁派はしぶとく実力行使をした。
余慶さんが法性寺の座主に任じられたのが天元4年(981)11月29日。
しかし、円仁派の妨害によって座主の就任式を行うことができず、
1ヶ月もたたない12月13日、余慶さんは辞表を提出した。


良源さんが座主になる以前から、山内での高位の職をめぐって


『天台座主記』には、円珍さんが自分の死後に自分が唐から持ち帰った経典類や
自分の著作を「悪比丘」に焼かれてしまうかもしれないから、
よくこれを守護するようにとした遺言がある。

それが事実かどうかはわからないけど、円仁派と円珍派の争いは
しだいに暴力性を高めていくようになった。
相手が朝廷のような部外者の場合は、前回紹介したように
暴力性を抑えたものであっても、こと山内での争いの場合は
対象者の僧坊を破壊したりするなど、結構容赦ない。
そういう状況をふまえて、良源さんは綱紀粛正のためのルールを作った。

そのうちのひとつが「武器を持って僧坊に出入りし、山内を往来する者は
捕らえて朝廷に差し出す」としたものだった。
全文引用すると長いので、簡潔にその内容をまとめると

『梵網経』では「怒りで怒りに応酬し、たとえ父母親類が殺されても
 報復してはならない」「一切の武器を所有してはならない」とあるのに、
 噂では武器を身につけて徒党を組む者があると聞くが、彼等は人を傷つけることを
 厭わず、天台宗の恥である。 
 これは師が弟子を叱らず、弟子が師に従わないからである。今後は師弟とも
 戒律を守るよう努力せよ。【もしこの規則に従わず、師の教えに背く者があれば、
 「護法善神」がまず冥罰を加え、次に「惜道勇士」がその身を捕らえて速やかに
 政所に送致し、太政官に差し出すこととする。】
 (【】内は『僧兵=祈りと暴力の力』からの引用)


ということのようですが、これによって良源さんは「僧兵の禁制者」という
評価を得た一方で、後世の史料によって「僧兵の創始者」という
正反対の評価が与えられてもいる。

ただ、衣川仁氏によると後世の史料に頼らずとも
上の文章から良源さんの本音を読みとることは可能だという。

「護法善神」は梵天やら帝釈天やらのインドの神がお釈迦様に帰依して
仏法を護るガーディアンにとらば~ゆしたもので、
これにはアシュランなども含まれる。
つまりは山内ルールに背いたら、まずは神罰が下されるよ、ということ。

次の「惜道勇士」は現実的に違反者を捕らえる力(武力)を持ち、
実際にそれを行使する者を指すんだそうな。
「惜道」は仏の道や人の道を大切にするという意味であり、
武力をもって違反者を捕らえるという現実的行為にも
「あくまで法や道のため」=「護法」という宗教的正当性が込められており、
「惜道勇士」の行為自体は規制の対象となっていないという。
つまりは、

 【結論的にいえば、良源は世俗権力が抱くあるべき僧侶像に合致するような
  武力否定の姿勢を世に示すため、自らの手中には武力を正当なかたちで確保し、
  他の武力を神の名のもとに不当なものとして禁止したということである。
  (中略)事実上の寺院武力を確保しながら、それを宗教的な正当化によって
  禁制の対象外に置きつつ、他の武力をおさえこむ。良源は、武力を公的な
  秩序維持機能として寺院法の中で明確に宣言し、各門流内で教誡の役割を果たした
  師の、さらに上に立った指導力を確立した。暴力による暴力の排除ということが、
  良源に与えられた善悪正反対の評価の理由である。】
  (『僧兵=祈りと暴力の力』より)

だそうな。

この点について良心的に解釈している本を読むと、
解釈がかなり違っているので正直混乱する。
けど、現実的に見てわたくしはこの衣川氏の分析が妥当だろうと思う。


当時、法性寺の座主を経験した者は、天台座主になったという。
ただ、天台座主となる資格が法性寺座主の経験ということではなかったと思うけど。
円珍さんから良源さんまでの間の座主には、円珍派の座主もいたからね。

だから、円仁派にとっては法性寺の座主のポストは重要な意味を持っていた訳だけど、
実は良源さんは法性寺の座主になっていない。
しかも、初代天台座主・義真から良源さんの先代までの17人の天台座主のうち、
60歳以前に座主となったのは義真と5代・円珍さんのみ。
そして円仁派も決して一枚岩という訳でもなく、
円仁派でも傍流の、かつ若造の良源さんが天台座主に抜擢されたことは
円仁派の中でも波紋を巻き起こした。

良源さんが天台座主になった時、法性寺の座主は良源さんより年上の
円仁派の先輩だった。
それが、良源さんが異例の大抜擢を受けたことで翌年その先輩は悶死し、
先輩の霊はしばしば祟りを引き起こしたというエピソードがある。

同じ天台宗の中でも、別派のみならず同派にも胸に一物を抱くような者もいた。
門流同士のいざこざも絶えない。
山内であろうと山外であろうと、武力行使する僧や大衆への世間の目は厳しい。
こういう一山を率いる良源さんはさぞ大変だったろうと思うけど、
それでも厳しいルールを定めて一山の支配に乗り出すのだから、
かなりの「やり手」でもあり、それ以上に強い意志を持った方だったのだろうと思う。


さて、そういう良源さんですが、余慶さんの法性寺座主問題に関して、
余慶さんの就任式を妨害した円仁派の処罰も、両派の調停もしていないらしい。
これは宗内での派閥争いであり、「護法」の論理は適用できない。
それなのに、残されている史料からは何らかの対策をした形跡が見られないという。

結局、余慶さんは門弟たちを引き連れて山を下りた。
余慶さんは北岩倉へ、その他は白河の修学院・石蔵の解脱寺・北白河の一乗寺へと分散。
が、円珍派の一部の100人ほどが山内に残り、円珍さんの坊である
山王院にこもったとされる。

その後、「山王院の経蔵や山外の円珍派のこもる寺を焼き、
余慶ら5人を殺害するという座主の命が下った」という噂が流れた。
ここに至って朝廷が乗り出し、円珍の経蔵から経典などが奪われる恐れがあるため、
三綱へ山王院の警護を命じた。
この時の勅使が伝えた内容によると、山王院には誰もいなかったようなので、
残っていた円珍派僧侶たちも噂を受けて山を下りていたのかもしれない。
でもまだ完全分裂じゃない。

山王院の警護を命じた一方で、良源さんの元には天皇から遺憾の意が伝えられていた。
これに対する良源さんの弁明は、放火・殺人は仏法でも明確に戒められている大罪であり、
それを犯してはならないことは重々承知している。今回のことは法性寺という
古くからの一門の寺のことを考えて我が門徒が訴えているものであって、
決して自らの利益のためではない。円珍派を攻撃しようなどという噂は
デマでしかないので、早くその弁明をさせていただきたい・・・
というものだった。



少し時を進めて、良源さんの死後は愛弟子が座主の座を継いだ。
しかし、彼は5年ほどで辞表を提出する。
その後に座主に選ばれたのが余慶さん。
一旦は山を下りたものの、一時避難的なものだったのか、
山内での地位はキープしていたらしい。

天台座主ははじめは山内で人選が行われた、いわば私的なものだったのが、
3代・円仁さん以降は官符の補任による公的なものとなっていた。
で、どの派閥からどう選ぶなどのルールはなく、
年功序列的に座主が選ばれていた。
ただ、山内の各門流の意向も当然あったので、
お上の命令と山内多数派の意見が一致した場合はいいのだけど、
一致しない場合は新たなトラブルの種にもなった。
永祚元年(989)に余慶さんが選ばれた際も、円仁派の反対にあってまたモメた。

天台座主は朝廷が任じるものだから、まず勅使が叡山に登って
宣命を読み上げることからスタートする。
ところが、良源さんが定めた西の結界「水飲」付近で円仁派が待ち構えており、
勅使は追い返され、宣命は破り捨てられた。

すぐさま宣命は再作成され、勅使は今度はボディーガードを用意して、
無事宣命を読むことができた。
その後は諸堂を廻る「拝堂」という儀式が待っていたが、
過去の経緯を考えて余慶さんは多くの精兵を伴っていったという。
して、案の定武装した「俗侶」らが余慶さん一行に対して弓矢で攻撃をしかけた。

これだけの事件に対して、さすがに朝廷でも処罰についての会議があったらしいが、
実際に処罰されたという記録は残っていないらしい。
衣川氏はこの事件について5つの点を指摘しているが、
【最大の特徴は、僧侶集団を統制すべき僧綱の姿がみえない、ということである】という。

 【おそらく永観3(985)年の良源入滅によって、その強烈なコントロールを
  失った延暦寺では、慈覚門徒という要素を基盤とした集団意志が、座主や僧侶の
  主導ではなく大衆の自律というかたちで急速に表面化したのではないだろうか。
  ここにいたって大衆は政治的に覚醒し、中世寺院の主体として行動しはじめる。】
  (【】内はいずれも前掲書より)

「永祚宣命事件」といわれるこの事件が、完全分裂の一歩手前の段階であり、
僧兵・強訴の性質が変わり始めた時期ともいえるのだろう。


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最終更新日  2015年02月18日 23時58分25秒


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