戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2015年02月20日
XML
カテゴリ: 旅日記(近畿)
かんべ~とはんべ~は2人あわせて「二兵衛」だし、
吉川と小早川はまとめて「両川」なのに、
円仁と円珍は「円」でまとめて「二円」とは呼ばないんだな、と
バカなことを考えたわたくし・・・

さて、山内における円仁派VS.円珍派の争いもクライマックスを迎えます。

正暦4年(993)7月、円珍派の成算(せいさん)が集団を派遣し、
山麓にある円仁派の赤山禅院を襲撃するという事件が起こる。

赤山禅院から報告を受けた円仁派はそりゃ怒った。
そして成算をボロクソ非難し、彼の師の勝算に成算の身柄を引き渡すよう

余慶さんの高弟だった勝算は円仁派の要求をガン無視し、
山麓にある円珍派の寺に兵を置いて、山上に送られる荷物を奪うという行動に出た。

こうした事態を受けて、8月に入った頃には円仁派が
山内の円珍派の寺や僧坊を広範囲にわたって焼き討ち、あるいは破壊し
円珍派の山内の拠点はほぼ壊滅状態に陥った。

勝算などは赤山禅院を攻撃した時点ですでに山麓に避難していたようだけど、
まだ山内に残っていた円珍派僧侶もいたのか、
8月の攻撃の後、まとめてごっそり下山することになる。
ここで下山した円珍派が入ったのが園城寺。

前回の余慶さんの法性寺座主問題の時は、
余慶さんたちは京側の山麓の寺に分散して入った。

余慶さん周辺の円珍派は一旦は山を下りたものの、山王院の中身はそのまま・・・
円珍さんの木像もおそらく山王院に残されていたと思われる。

次の余慶さんの天台座主問題の時もまた京側の山麓に下りたんじゃないかとも
思うけど、円珍派がまとめて園城寺に入ったというのは、
赤山禅院の事件後にしか今のところわたくしは知らない。

円珍さんの木像を背負って
園城寺へ向かった
んじゃないかな。

これ以降、円仁派と円珍派は完全に袂を分かち、
山門と寺門に分かれて数百年の間、ドンパチを繰り返す。
それまでの山内の円珍派にとっては、円珍さんの住房であった山王院が
聖域のようなものだったでしょうから、「二円」の抗争の歴史は
山王院から巻き起こったと言っても過言ではないように思える。



ざっとこういう流れのようですが、完全分裂は良源さんの死後の出来事だけど、
良源さんが分裂へのレールを敷いたようにも見える。

ただ、良源さんが座主になって以降、余慶さんの法性寺座主問題が起こるまでの間に
とある論議の3人の探題全員に円珍派の僧侶を選ぶなど、
良源さんの施策はいつだって円珍派排除の方向に向かっていたという訳でもない。

基本的に良源さんは円珍派の排除や分裂を狙っていた訳じゃなく、
一山を統轄する身としては当然のことながら、
両派の融和を図ろうとしていたんじゃないかという気がする。

けど、最澄たんの頃に比べて良源さんの頃の叡山は
とてつもない大所帯になっていた。
人が増えれば色々な摩擦も出てくるし、色んな人間もいる。
そしてちょうど自衛の手段として寺社でも武力を持ち始めた時期でもあるので、
なかなかコントロールしきれるものでもない。

それからもうひとつ重要なこととして、良源さんには自分の愛弟子に
跡を引き継がせる必要性があった。
円珍派と仲良くしておきたいのはヤマヤマだけど、
自分の跡目については譲れないので、円仁派による山上支配は
確保しておかなければならない。

そういう中で硬軟取り混ぜた対応を試みたものの、
結局両派は相容れないエンディングを迎えることになったのかな、と思った。

もうこれは、誰がいいとか悪いとか、そういう問題じゃない。
ま、円珍さんの事跡とカリスマ性がハンパなかった上に
「武力」がクローズアップされてきた時期と重なったのが要因かなとも思うけど、
やはり最澄たんが意見を翻さなかったら
ここまで大きな分裂は呼び込まなかったんじゃないかという気もするし、
もし 泰範が最澄たんのもとに留まっていたら 、あるいは後継者は泰範一本に絞られて
円珍派は今も叡山のイチ門流として残っていたかもしれない。

けど、もし寺門が独立しなかったらあるいは 大内氏の一切経蔵
今頃地上から消滅してたかもしれないよな・・・
とか、妄想はつきません。


さて、それじゃ重要な歴史の証人である山王院堂へ戻りましょう。


叡山2・東塔・山王院堂4


中には入れませんが、入口付近にはちっさい石像がちょこんと置かれていた↓。


叡山2・東塔・山王院堂5


密教法具を持ってる・・・
こーゆー椅子に座るのは高僧の像に多いから、仏像じゃないよな。
もしかして、円珍さんのつもり?


叡山2・東塔・山王院堂6


飾り気はほとんどないけど、素木が美しい。
比較的新しい建物みたいだな。


叡山2・東塔・山王院堂7



叡山2・東塔・山王院堂9


↑たぶんこの灯篭だったと思うけど、
「寛政二年庚戌十月●● ●●院権僧正●鎮寄附」とあるように見える。
1790年、江戸中期の奉納です。

円珍派が山内にいた頃は、ここにもいくつかの建物があったのかもしれないけど、
今はお堂が一つ建つだけ。
ので、山王院堂はこれでおしまい。
かつてここを中心に大きな争いが起こったなんて思えないほどの静けさでした。

お堂より一段下がったところには石造りのいろんなものが立っている。


叡山2・東塔・山王院堂10


左の石碑は古そうに見えるけど、明治期の建立。
この先の歩道橋とはわたくしが渡ってきた橋を指しますが、
わざわざ物を落とす人間なんかおるのか?


叡山2・東塔・山王院堂11


「元三大師霊場」「黒谷青龍寺」のいずれも確かにここから行かれますが、
それぞれ距離は6丁、13丁とかなり距離がある。
ろくな目印もない山道であればありがたい表示でもありますが、
結構こういう遠くの場所を示す碑もあちこちにあるので注意が必要です。

で、その奥がこちら↓。


叡山2・東塔・山王院堂12



叡山2・東塔・山王院堂13



叡山2・東塔・山王院堂14



叡山2・東塔・山王院堂15


灯篭はそれぞれ、千手観音ナントカ、山王権現ナントカと銘がある。
笠の部分も変わってるけど、火袋は木の枠になっている。
初めからこのスタイルだったとも思えないんだけど・・・

そして最後がこの道標↓。


叡山2・東塔・山王院堂16


これは遠くを示すものではありません。
山王院堂の先にこれがあり、今回叡山でわたくしがかなり楽しみにしていた
スポットでもあります。
何と言っても大物だからな・・・
ふっふっ、墓マイラーの血が騒ぐ

して、そのお楽しみエリアの入り口がこちら↓。


叡山2・東塔・浄土院へ2


長い石段の両脇には、この先の聖域を護るかのように灯篭が並んでいる。
すべての灯篭を撮ってたら先へ進めないので今回は見るだけにとどめましたが、
天台宗で一般にも有名な寺院からの奉納の灯篭ばかりだった。


叡山2・東塔・浄土院へ3


石段からすでに厳粛かつ清浄な空気がそこはかとなく漂っていて、
下りなので注意しつつ灯篭を見つつ下りていくと、
灯篭群の最後の1本は無残なことになっていた↓。


叡山2・東塔・浄土院へ6


オイオイ、廟堂に最も近い場所で、しかもこんな有名どころの寺の
灯篭が並ぶ中で倒れたままにしておくなんていいのか~?
どこの寺の灯篭だよと思いながら倒れた灯篭の銘を覗き込んだら、



叡山2・東塔・浄土院へ7


【東叡山輪王寺門跡尚順】・・・

ぎゃああああ、寛永寺じゃねーの!!
なんでよりにもよって寛永寺のが倒れてるんじゃ

すべての灯篭の日付を見た訳ではありませんが、
近代に入ってからの割と新しい灯篭ばかりだった。
ので、この灯篭を奉納した寛永寺門跡ももう「輪王寺宮」の時代以降の方です。

しっかし、見事に分解しとるぞ・・・
こーゆーのは上野で見慣れてるけど、ここは観光客も通る参道だし、
慣れてない人がこれを見たらさぞ驚くだろう。

分解は自然発生的なものだろうからそれはいいとして、
なぜこんな目立つ場所にある灯篭をいつまでもそのままにしておくんだろう。
ましゃか、江戸期に寛永寺に実権を握られたことを根に持って
わざと放置してるってことないだろうな

前日の大講堂での会話 を思い出して、またブルーになった。


にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015年02月20日 22時21分55秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: